見出し画像

毛利元就 プロローグ

はじめに

皆様、いつも読んでいただき、ありがとうございます。先週は、色々とバタバタしておりまして、先週の投稿をとばしてしまい、1週間あいてしまいました。下記の画像も月曜日に出ており、皆様方には申し訳ございません。

毛利氏のはじまり

毛利氏は、鎌倉幕府の功臣大江広元からはじまります。昨年の大河ドラマ、「鎌倉殿の13人」にも登場していた人物です。もともと、京都の下級貴族でしたが、鎌倉へ下り、そして源頼朝の側近となり、幕府創設に貢献しました。広元は、鎌倉幕府の仕組み作りに貢献しているようです。

広元の四男、季光が相模国毛利荘を領したことにより、毛利季光と名乗ったことが毛利氏の始まりのようです。

「鎌倉殿の13人」の時代以降も権力闘争は、幕府内で続いていており、三浦義村の次男、泰村が執権北条時頼と鎌倉を戦場として争いました。季光は、泰村方に属して戦い、三人の子息と共に敗死しました。

しかし、季光には、もう1人の男子、四男経光がいました。彼は、越後国佐橋荘と安芸国吉田荘を所領として持っており、そして、この乱には関わらなかったため、彼の子孫のうち四男時親(大江広元からみて曾孫)が安芸国の所領を相続し、毛利氏として存続することになりました。

毛利氏祖先の大江広元は、鎌倉幕府創設に貢献しました。しかし、幕末では長州藩(毛利家)が倒幕を果たし、武士の時代を終わらせたこと、そして、長州藩の志士が新たな明治時代を作ったことに何か縁を感じます。

毛利元就の誕生と激動の幼少時代

毛利元就は、明応6年(1497年)に誕生しました。1467年が応仁の乱が起こり、戦国時代へと突入しています(始期には諸説あるようです)。元就の父は毛利弘元という人物でした。彼は、わずか9歳で毛利家の家督を相続したようです。後に福原広俊の娘と結婚し、興元と元就が誕生しています。1500年に彼は、8歳の長男の興元に家督を譲り、次男の元就とともに多治比へ隠居しました。しかし、1506年に父は亡くなってしまい、兄の興元が後を継ぎます。父の死は、酒害が原因とも言われているようです。

追い打ちをかけるように家臣の井上元兼に多治比猿掛城を乗っ取られ、追い出されてしまいます。この後、杉大方という弘元の側室だった女性に養育されました。

しかし、興元も24歳で亡くなってしまいます(1516年)。酒毒が原因と言われているようです。そして、興元の長男、幸松丸が後を継ぎますが、彼はわずか2歳です。そのため、後見人として外戚の高橋久光と元就が推されました。こうして、元就が歴史の表舞台に登場することになったのです。

元就が表舞台に登場するまでを書きましたが、激動というよりもかなり悲惨とも言える状況ではないでしょうか。父も母も幼少期に亡くし、かつ自分の居城を家臣に乗っ取られています。この出来事は、元就の考えに深く刻み込まれ、残ったのではないかと考えます。

つづく

記事を作成するに際し、以下の書籍を参考にしました。

小和田 哲郎,「毛利元就  知将の戦略・戦術」,凸版印刷株式会社, 2013年1月
吉田 龍司, 「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男, 株式会社新紀元社, 2010年9月

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?