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紫式部と藤原道長の恋愛  ふたりの真の関係とは? 

大河ドラマ『光る君へ』でも大きな話題を集めている紫式部と藤原道長。
小さなサークルのような場で書き始められた『源氏物語』は話題を呼び、紫式部は、藤原道長の肝入りで宮中に出仕するようになります。
今回は紫式部のキャリアやストレス兼ねてから議論のあった紫式部と藤原道長、ふたりの関係に迫ります。また、さらに紫式部の老後と死の謎を追っていきます。
第一線で活躍する歴史研究者&歴史作家が、『紫式部日記』や『栄花物語』『小右記』などの記録を通して、謎に包まれている紫式部の生涯に迫ります

監修・文/福家俊幸

ふくや としゆき/1962年、香川県生まれ。早稲田大学高等学院教諭、早稲田大学教育学部助教授を経て、現在は早稲田大学教育・総合科学学術院教授。著書に『紫式部日記の表現世界と方法』(武蔵野書院)、『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社)など多数。


女房・紫式部のキャリアとストレス
“根暗なネガティブ女子”か“バリキャリ女子”か?

『源氏物語』が評判になり
華やかな宮中に出仕する


 小さなサークルのような場で書き始められた『源氏物語』はやがて評判になり、その評判は藤原道長や妻の倫子(りんし/ともこ)の耳にも届いた。紫式部が寛弘2年(1005)頃に道長夫妻の娘、一条天皇の中宮彰子(しょうし/あきこ)の許に出仕したのは、彰子のサロンで『源氏物語』を書き継がせようというねらいがあったためだと考えられている。これが初の宮仕えとするのが定説だが、それ以前に当時を代表する文人具平親王や道長の妻倫子の許への出仕経験を想定する説もある。

 さて、紫式部が出仕した時点で、一条天皇の後宮は、中宮として彰子がトップに君臨していたが、12歳で入内してから5年、いまだ一条天皇との間に子はなかった。既に亡くなっていた皇后定子との間に第一皇子敦康親王がおり、彰子はこの親王を養育していたが、将来皇位につくと失脚していた定子の兄弟伊周・隆家が復権する可能性があった。さらに他の后達(藤原顕光の娘元子、藤原公季娘義子、故藤原道兼の娘尊子)が帝の子を妊娠する可能性もあった。道長としてみれば、外戚の立場を得るために、何としても彰子に子を生んでほしかったはずだ。寛弘4年、大掛かりな御嶽詣でを行ったのも、彰子の懐妊祈願のためだった。

 一条天皇は漢文学に通じた帝だったが、後宮の文化への理解も深かった。彰子のサロンで、『源氏物語』が作られ、その文化的な地位を上げることは、帝の関心を高め、寵愛が深まることが期待されたのである。そのような政治的な意図が紫式部の出仕には含まれていたのだろう。

 道長の肝いりで出仕した紫式部だったが、『紫式部集』に載る歌によると、すぐに実家に引き籠ってしまったようである。

 『紫式部日記』によると、出仕前の紫式部に対して、彰子配下の女房達は「ひどく風流ぶって気づまりで近づきづらく、よそよそしい様子で、物語を好み、気取っていて、何かと歌を詠み、人を人とも思わず、憎らしげに、人を下に見るような人だと思っていた」と語ったという。鳴り物入りでやってきた、中途加入者の紫式部への反感であり、そうした空気を感じた紫式部は実家へ引き籠ったのではないだろうか。その後、紫式部は己の才をひけらかさないよう注意しながら、彰子とその女房集団に受け容れられていったようである。

彰子の出産を詳細に記録
教養と文才で信頼を得る

 寛弘5年、彰子は待望の皇子を出産する。後に後一条天皇となる敦成親王である。紫式部は皇子誕生とそれに関わる儀式を『紫式部日記』に詳細に記し留めている。その一方で、この『日記』は、『源氏物語』が宮中で注目され、広く読まれていたことを記している。

 皇子誕生後、彰子が内裏に戻る前に、『源氏物語』の豪華な写本を作っているのは一際注目される。ここでは早朝に、中宮彰子と紫式部が向かい合って、①選び整えられた、色とりどりの紙②書写の元になる原本③書写を依頼する手紙、の3点セットを準備して、それをあちこちの書写者に送ったという。一方で清書されて送り返されてきたものを綴じ集め冊子にしていた。物語作者である紫式部ゆえに余人をもって代えがたい仕事であり、彰子が積極的に関わっていることも注目される。立派な紙や筆、墨、硯が道長から中宮彰子へ献上され、硯は中宮彰子から紫式部へ下賜された。主家の全面的なバックアップの下、『源氏物語』は作られ、広まっていったのだった。

 『紫式部日記』には、一条天皇が『源氏物語』の朗読を聞いて、「この作者は日本書紀の講義ができるほどだ。本当に学才があるね」と言ったというエピソードが紹介されている。『源氏物語』は帝の高い評価も勝ち取っていたのである。


時代の寵児と天才作家の熱愛疑惑⁉
紫式部と藤原道長の真の関係は?

夜中に紫式部を訪ねた道長
このエピソードは、彰子が出産のために土御門殿(道長の邸宅)に宿下がりしていたときのものとされる。紫式 部は道長とのやりとりを、数多く日記に書き残した。
国立国会図書館蔵

紫式部と道長の関係は?
日記に残る意味深な記述

 紫式部は道長の召人であったとする説がある。召人とは、主人筋と男女の関係にある女房をいう。『源氏物語』にも少なからぬ召人が登場する。古くは、14世紀後半に成立した系図集『尊卑分脈』は紫式部の箇所に「御堂関白道長妾云々」と注記する。妾とは実質的に召人を指している。「云々」というように、断定はしていないが。

 このような伝承は『紫式部日記』に、次のような贈答歌があることによるのだろう。

夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ まきの戸ぐちに たたきわびつる
ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし

 省略した詞書を含めてこの部分を読み解いてみよう。紫式部が渡殿にある局で寝た夜、戸をたたく人がいたが、恐ろしくて、気配を消して夜を明かした翌朝に、戸をたたいた男から歌が来た。「一晩中、水鶏さながらに私は泣きながら、そなたの戸口を叩き続けたことだ」。

 水鶏という水鳥は鳴き声が戸をたたく音に似ていて、しばしば求愛の場面で和歌に詠まれた。それに対して紫式部は「ただではおくまいと激しく戸を叩かれるあなたさまゆえに、開けてはどんなに後悔したことでしょうね」と返歌をしている。この戸口を叩いた男とは、前の部分との繋がりから道長と考えるのが定説となっている。

 道長からの求愛を書き留めておきたい思いが紫式部にはあったのではないか。身近な同僚には、大納言の君のように道長の召人になっている人物もいた。このような場面を記すこと自体、『尊卑分脈』のような理解が生じることも十分織り込み済みであったことだろう。「恐ろしくて戸を開けられなかった」と紫式部は記しているが、一方で紫式部の返歌は道長を揶揄するような余裕が感じられる。このようなやりとりを記しても、許されるのが2人の関係だったのではないだろうか。だからこそ現代に言う「におわせ」に近い、微妙なものを読み取ることができるのだろう。ここでは拒絶したが、次に戸が叩かれたら、戸を開けたことを暗示しているのである。

 しかし、両者の関係には、さまざまな意見があり、召人説を強く否定する研究者も多い。この問題は永遠の謎として、議論され続けることだろう。


記録に残る晩年の様子と誰も知らないその最期紫式部の老後と死の謎

成功を収めた紫式部
謎に満ちた晩年の姿

 『源氏物語』に関わる同時代の反応として、もっとも有名なのは、『紫式部日記』に記された、次の場面であろう。

 左衛門の督・公任さまが、「恐れ入りますが、このあたりに若紫さんは控えていますか」と、中をおのぞきになる。「源氏の君に似ていそうなほどのお方もお見えにならないのに、ましてあの紫の上などがどうしてここにいらっしゃるものですか」と思い、私はそのおことばを聞きながら座ったままでいた。

 寛弘5年11月1日、敦成親王誕生の五か十日の祝宴の場で、当時の大歌人であり、またマルチな才を謡われた藤原公任が紫式部に声をかけてきた。公任は紫式部を『源氏物語』のヒロイン紫の上の若き日に喩え、自ら光源氏に擬した振る舞いをする(若紫巻で初めて紫の上を垣間見した様子を再現しているかのようだ)ことで、「『源氏物語』を読んでいますよ」と挨拶を送ってきたのである。このことを契機に、「紫式部」というあだ名が定着したのではないだろうか。

紫式部の没年についての考察

 『源氏物語』がいつ書き終えられたかは、不明という他ない。『栄花物語』岩蔭巻と日蔭の鬘巻には、一条天皇崩御後、側近女房として、彰子を支える姿が記されているが、晩年の動向は断片的である。藤原実資が残した漢文日記『小右記』には、皇太后となった彰子と実資との取次をする紫式部(越後守為時女)の姿が記されている。実資は最終的に右大臣まで上る怜悧な政治家であり、その信頼は、紫式部の女房としての有能さも物語っていよう。最後に登場するのは寛仁3年(1019)5月19日の条、推定47歳である。以後、紫式部の姿は諸史料に確認できず、その後数年のうちに亡くなったのではないだろうか。

月刊『歴史人』2月号より

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