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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(3)東日本大震災の思想的衝撃

2011年3月11日に起きた東日本大震災と、それに伴う東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故は、私に強い衝撃を与えました。

私の妻は神戸の出身です。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災のときにも、私はショックを受けました。当日の朝、NHKニュースをつけたところ、テレビの画面で燃えさかる神戸の街が映っていたのでした。妻の実家に電話をしてもつながりません。横浜神戸間の電話回線が止められていたのです。当時は鎌倉市内の高等学校に勤務していたので、勤務先の公衆電話からかけ直すと繋がりました。幸い家屋の倒壊も免れ、岳父母は無事でしたが、数日後に私は神戸まで出むき、惨状をこの目で見ました。しかし、東日本大震災がもたらした災厄は、原子力発電所の苛酷事故を伴ったことで人類的規模であり、阪神淡路大震災の比ではありませんでした。

東日本大震災発生のとき、私は学校の会議室にいました。すごい揺れでした。自宅から自家用車で通勤しており、公共交通機関は止まっていましたが、生徒も下校しており、その日に帰宅することができました。都内の私立小学校に通っていた長男は学校で一夜を明かし、保育園児だった次男と妻と三人でその晩を過ごしました。

福島の被害状況が徐々にわかってきました。東京電力福島第一原子力発電所の事故についても、わかってきました。計画停電が行われ、暗い夜が続きました。私は30歳くらいから、システム手帖を使っていて、詳細なその日の記録を付ける習慣を持っているので、当時の家族の行動は、すべて記録してあります。この記録を見ると、何が起きているのか、わかっているつもりでいてわかっていなかったと考えざるを得ません。

空恐ろしいできごとが起きていると、私は次第に気がつき始めました。打ちのめされる思いがしました。政府の対応やメディアの報道を見るうちに、私は自分が思想的に破綻するように感じ始めました。政府とメディアに対する最終的な信頼が、私のなかで砂のように崩れていくのを感じました。この国のシステムの脆弱さ、それまで覆い隠されていた欺瞞が、今、すべて、露呈していると思いました。それを見抜くことができなかった自分とは何なのかという疑問が湧き起こりました。

それまでの自分の生き方を含む全思想が破綻したと思いました。高等学校の生徒だったころから、日本の戦後キリスト教作家の著作に親しみ、カトリックの世界観に、この地上の世界の意味を見出していたのです。大学でこそ漢文を専攻しましたが、それは日本人としての自己の存立基盤を学術的に確認したかったからでした。しかるに、大災厄が、無辜の民の命を奪っていきました。神は一体、何をしているのでしょうか?

一から勉強をし直さないとだめだと私は痛感しました。職業のせいかもしれませんが、近代に生まれた学校というシステムは、さまざまな問題を抱えつつも、やはり偉大だと思います。(もちろん、大学の歴史は近代以前に遡りますが。)そういう私が、大学院に入ろうと考えたのは、不自然なことではありませんでした。大学院で自分の精神を改鋳しようと考えたのです。そして、何よりも、崩れかけたこの国を再建するために、自分に与えられた社会的役割を通して力を尽くさなくてはならない。

50代になり、勤務先の学校では、ますます責任ある立場になっていましたから、働きながら通学することは無理です。そこで私の視界に入ってきたのが放送大学大学院でした。すぐに入学を決意して、書類を整えて出願しました。それしか選択肢はないと思ったのです。

放送大学大学院は、文化科学研究科のなかに、いくつかのプログラムがあります。私は文化情報学プログラムに入学することにし、希望する指導教授に、国文学の教授名を書きました。遠藤周作について研究計画を書いたからです。しかし、書き上げてから、考え直しました。私の興味関心が、狭義の国文学研究からははみ出すものであることを自覚していたからです。

そこで、比較文化論も指導していた美学芸術学の教授の名前に書き直しました。この先生は、東京大学で、フランス文学科と美学美術史学科の二つの学部を出た方で、フランス文化にも造詣の深い方だったからです。ニコラ・ボワローの研究から出発し、ドゥニ・ディドロが専門でした。

面接試験は、国文学の教授と美学芸術学の教授のふたりでした。「あなたは研究者ですね」といわれました。何冊かの著書と論文があったからです(リサーチマップをご参照ください)。「しかし、あなたのような人を再教育するのも、放送大学大大学院の目的に合致しています」といわれました。

こうして私は放送大学大学院修士課程に入学したのでした。すでに夏に願書を出した時点で、私は日本文学関係の複数の学会に入り、査読論文の投稿を始めました。それまで、柘植光彦専修大学教授の慫慂で、『国文学 解釈と鑑賞』に大江健三郎について論文を書いたり、やはり柘植教授が編集した遠藤周作に関する研究書に論文を分担執筆したりしていましたが、学会誌に投稿したことは、実はなかったからです。石川淳について書いたその論文は、何とか査読を通り、修士課程入学と同時に活字になりました。
(続く)

*写真はイメージです。

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