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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(5)修士論文と国際日本文学研究集会での発表

修士課程の1年目はさまざまな書籍を読みました。学会に入り直すことで、日本文学研究の現在に関する知識を得ることができましたが、私がショックを受けたのは、私が学校の仕事に忙殺されていた間に、国文学研究の手法が大きく多様化していたことです。浦島太郎になった気がしました。

私は、文学研究科で近現代文学を専攻している教授の指導を受けたわけではありません。美学芸術学の教授から指導を受けたのです。指導教授は東京大学で今道友信教授から指導を受けた方ですが、私は今道教授の『美について』『愛について』(講談社現代新書)を高校時代から愛読し、文学繋がりで、ある詩の雑誌の座談会でご一緒したことがありました(リサーチマップ参照)。そのようなわけで、美学に全く無知というわけではなかったのですが、指導教授のミーメーシス美学、渡辺二郎教授の存在論美学、また藤田一美教授の芸術の存在論などについては、大学院修士課程で初めて詳しく知りました。

文学研究科で遠藤研究をしたならば、このような美学上の立場を知ることもなく、20世紀言語芸術という視点から遠藤文学を捉えることもなかったでしょう。また、指導教授が美学者であるということから、今道友信教授が最晩年に提言した「世界美化の思想」すなわち実践美学という考えを、自分なりにつきつめて考えようともしなかったと思います。

最初の年、私はアリストテレスやフーコー、ベンヤミンやアドルノなど、理論的な書物ばかりを読んでいたのですが、あるとき、エドワード・サイードの理論を援用した日本人教授の書物について報告したところ、指導教授から、サイードの著書そのものを読むように助言されました。そこで私はこの際しっかりと読み込もうと考えて、サイードの『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』を、邦訳を参照しながら、原著で改めて読み直したのでした。

サイードを読むなかで、あるとき私に閃いたのが、フランツ・ファノンと遠藤周作がほぼ同世代であり、同時期にリヨンで学び、同じように白人女性と恋愛し、あるいは差別されていたことでした。昂奮した私は、二人の著作を読み深めていったところ、ファノンの論文「黒人の生きられた体験」と遠藤の評論「有色人種と白色人種」の著しい相似に気がつきました。

私の修士論文「遠藤周作とフランツ・ファノンの比較文化論的研究:フランス本国における有色人差別体験を中心に」(2014年12月提出)は、こうして書き上げられたのでした。
この論文は、現在ではデザインエッグ社からオンデマンドで発売されており、Amazonで入手できます。抄訳版が、放送大学の紀要「Open Forum」11号(2015年3月)に掲載されています。

ミシガン大学の准教授が、2014年秋に、Crossed Geographies: End¯o and Fanon in Lyon という論文を、Representations 128 (Fall 2014)に発表していることに、あとから気がつきました。太平洋を隔てて、同時期に、同じ着眼で遠藤とファノンを比較考察していた事実に、私は力付けられるものを感じたものです。

この修士論文の内容については、博士後期課程進学後、西洋政治理論専攻の教授から、サマリーでもいいので、海外に発信するべきだと強く勧められ、立川にある国文学研究資料館で行われた第40回国際日本文学研究集会(2016年11月)において、ポスター発表しました。遠藤周作のスエーデン語訳者であるストックホルム大学教授がこの発表に注目して下さいました。

嬉しかったのは、放送大学大学院で顔見知りだった方が、発表をわざわざ見に来てくれたことでした。彼女は、フランス政府のアフリカ政策について研究しており、フランツ・ファノンという思想家に対する関心という点で、私と重なる問題意識を持っていたのです。彼女はその後、私が研究を進める上で支えとなる、深い理解者のひとりになりました。

修士課程を終えたあと、私は遠藤周作の小説第一作とされてきた小説「アデンまで」以前に書かれた「アフリカの體臭」に関する論文「遠藤周作とアフリカ」を書くことになります。この論文は、博士論文の重要な礎になりました。

修士課程修了後、私は修士論文を刊行し、研究をパブリックなものにすることを考え、企画書を作成していくつかの出版社に送りました。マーティン・バナールの大著を刊行した、ある出版社の編集部が関心を持ってくれ、企画会議に諮ってくれましたが、広告も含めた営業的見地から実現しませんでした。私は出版をとりあえず断念し、出版に向けるエネルギーを研究に注ぐことにしました。

ここで、Twitterについて記しておきたいと思います。私は東日本大震災以後に、Twitterを始めました。大メディアが報じない情報の収集に役立てようと思ったのです。国際日本文学研究集会のエントリー情報も、実はTwitterで流れてきた情報なのです。エントリー期間を延長したという広報が、フォローしている研究者からRetweetされてきたのでした。

ポストコロニアル研究を専攻する国立大学の准教授と知り合ったのも、Twitterを通してでした。彼女のtweetからは啓発されることが多く、やりとりを交わすようになったのです。アン・マクリントックの『インペリアル・レザー』など、ファノン論を含む未訳の重要文献を教えてくれたのも彼女でした。

ミシガン大学准教授の論文のPDFがインターネット上でなかなか見つけることができずにいたときに、いち早く見つけてURLを教えてくれたのは、オランダ在住の日本人のクラシック音楽演奏家の方でした。

Twitterの世界は深淵です。tweetされる言葉の端々から、その方の人間性が浮き彫りになります。匿名か実名かは関係ありません。私はこの世界で、何人かの、すばらしい方を知ることができました。それは日本語話者だけではありません。私がフォローしているなかには、パレスチナで英語教師をしている若い先生がいますが、彼には、同じ時代を生きている同業者としての共感をいつも感じています。

「遠隔」という主題は私の興味をそそる問題群のひとつです。TwitterやSkypeといったメディアがあるこの時代に生きていることに感謝しています。空間的束縛からわれわれを解き放つからです。それは地上の物質的世界から「超越」する感覚なのです。
(続く)

*写真は、国文学研究資料館(立川市)で開催された第40回国際日本文学研究集会です(2016年11月)。
 

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