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【review】 活字 — 近代日本を支えた小さな巨人たち展

みんながみんなとはいわないが、製本をする人の多くが活字あるいは活版印刷に興味をもっている。手製本をするなら本文は活版印刷でと考える人もいるし、表紙に意匠をほどこす方法の一つとして活版印刷を取り入れる人もいる。またルリユールでは、革装の表紙に箔押しで題字を入れる場合が多く、自ずと金属活字の世界に足を踏み入れることになる。工芸的なアプローチで本に迫ろうとしたとき、活版印刷と手製本は分かちがたい関係にある。


そんな活字および活版印刷にまつわる展覧会「活字 — 近代日本を支えた小さな巨人たち」を見ておきたくて、横浜市歴史博物館を訪ねた。会場内には書体デザイナーやグラフィックデザイナーと思しき人も多く、江戸時代の木版印刷や明治時代の活字見本帳などに熱心に見入っていた。

わたしのお目当ては「世界三大美書」なるものだった。何でもかんでも「三大」とか「美○○」などと銘打てばいいってもんじゃないと思うが、本にもやっぱり「三大」があり、「美書」と呼ばれるものがあるのだ。当該の3冊は、序盤のガラスケースの中にうやうやしく収まっていた。


世界三大美書とは、ケルムスコット・プレス版『チョーサー著作集』、ダヴス・プレス版『欽定英訳聖書』、アシェンデン・プレス版『ダンテ著作集』のことだ。いずれも19世紀末頃にイギリスのプライベート・プレスでつくられた。何をもって「美書」とするのか、本の評価軸はさまざまあれど、ここでは造本、紙、文字、組版、版面、印刷にまで一定の美学が究極まで貫かれたものを指すのだろう。とりわけ、ケルムスコット・プレス版『チョーサー著作集』は、恐ろしいほどの完成度だった。

編集者として、また製本家として常々思うのは、本づくりに完璧などないということだ。よりよい表現、よりよい造本は、突きつめるほどに果てがない。真に完璧を追い求めていては、手も足もでなくなってしまう。だから、本づくりは「暫定の最善」を形にすることだと考えるようにしている。

ところが『チョーサー著作集』は、磨き抜かれたガラスの向こうから「そんなのはいいわけにすぎない」という事実を見せつけてきた。


数週間前、たまたま通りかかった古本屋で『ケルムスコット・プレス図録』というのを手に入れていた。ケルムスコット・プレスとは、イギリスの詩人、思想家、またデザイナーでもあるウィリアム・モリスの書局だ。この図録にはケルムスコット・プレスによる刊本のコレクションが解説つきで掲載されており、当然ながら、かの『チョーサー著作集』も載っている。

解説によると、サイズはフォリオ、総ページ数は554、黒と赤の2色刷り。手漉き紙に刷られたものが425部、ヴェラム(皮紙)に刷られたものが13部、計438部の限定本だった。今回展示されていたのは淡いブルーの厚表紙を麻布で背継ぎしたものだったが、総革装の特装本も48部つくられた。

モリスは活字のデザインから手がけており、その名も「チョーサー・タイプ」という。黒みがあって読みやすく、ぽってりとした厚手の陶器のような鷹揚さもあり、木版装飾と一体感がある。装飾のほうはというと、葡萄の枠飾りや装飾頭文字はモリス自身によるもので、挿絵はモリスたっての希望でバーン・ジョーンズが制作した。天地や小口の余白はもちろん、行末に生じた余白すら心地よく、見開きが一つの「景色」としての均衡を保っている。

そもそもモリスがケルムスコット・プレスを創設したのは「死ぬまでに完璧なる『チョーサー著作集』をつくるため」だったとされている。1890年の設立から6年ののち、モリスはついに『チョーサー著作集』を完成させ、同年秋に帰らぬ人となった。


この本を見つめるうち、いや、この本に見つめられるうち、わたしはすっかり打ちのめされた。世界三大美書と自分の仕事を一緒くたにするなんてどうかしているとは思うが、それでも同じ本づくりには違いない。時代、時間、コスト、マーケット、トレンド……モリスのような本づくりが叶わない理由はいくらでもあげられるけれど、そのどれもが陳腐に思える。

完璧な本がいい本だとは思わない。でも、完璧を追い求める努力に憧れる。歴史に残る本をつくりたいわけじゃない。でも、心から納得のいく本をつくりたいと本当はいつも願ってる。「暫定の最善」なんて、ごまかしだ。『チョーサー著作集』はその完璧な佇まいでもって、こちらを丸裸にした。

圧倒的なものを目にすると、感動すると同時に絶望する。見てよかったという思いの片隅に、見なければよかったという思いがわずかに混じる。長い溜息を漏らしながら、順路を進んだ。


会場のメインスペースには、19世紀初頭にヨーロッパでつくられた漢字活字があった。活版印刷は手製本に隣接する分野ではあるが、文字についてはわたしは無学だ。門外漢の気楽さで「ほぉほぉ」と鑑賞した。

明朝体の漢字活字を最初につくったのは、東洋学が盛んなヨーロッパの彫刻師だったそうだ。彼らの彫った文字は、わたしたちから見るとバランスを欠いていたり、止めや跳ねの運筆を無視していたり、妙なところもある。しかし、何ともチャーミングだった。漢字の絵的な魅力を捉えていたし、意味を取っ払ってもなお、形に宿る情感があると気づかせてくれるものだった。


そうこしている間に、さきほどの絶望は少しずつ意識の底へ沈んでいった。自分の忘れっぽさに感謝しつつ、会場をでる頃には元気を取り戻していた。ぐだぐだ思いあぐねたって仕方ない。次の本の計画を立てよう。


● 「活字 — 近代日本を支えた小さな巨人たち」
横浜市歴史博物館
2022年12月10日〜2023年2月26日

● 『ケルムスコット・プレス図録』関川左木夫、コーリン・フランクリン(雄松堂書店)


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