見出し画像

【なっちゃんが来た】

2014年4月はじめ、石巻市にも春風は香り、桜の花芽は大きく膨らみ始めていた。気の早い彼岸桜は、少し赤みを帯びたピンクの大輪をいくつもつけ始めて暖かな風に揺れていた。

被災地は、震災から3年を過ぎ、被災地復興も一段落かな、という空気が全国的には感じられていたと思います。しかし現地は、瓦礫処理がようやく全て終わって、復興の戦いはいよいよこれからだという段階でした。
私自身は、震災後一年後に自宅を処分して、公明市議の調査協力で、ようやく仮設住宅に転居できた。当時は仮設入居に様々な条件などがあったが、公明市議の後押しを受けて家族5人で隣接した二棟に入居できた。
公明3000の奮闘によって、お風呂の追い炊きも全世帯に追加設置されて、行った。物置も各世帯一つが設置された。細やかな住民の痒い所に手が届く公明3000の活躍であった。ご自身の地盤でもない仙台市のS県議は、何度も何度も石巻市内の仮設住宅での訪問による被災者に寄り添う活動をされていた。S県議は、今は衆議院議員として、活躍の場を広げて今も行動されている。
地域の状況に詳しい地元市議、県政にその現状を訴えて次々に県の支援を増やしていった公明県会の方々、そして月に一度ならず、何度も来ていただいた当時の井上公明党幹事長はじめ、国会議員の方々には10年を振り返って、本当に感謝の思いしかありません。それは支持者のみならず、あの当時に仮設住宅に住んでいた多くの方々の偽りない感想だと思います。


その日、ある連絡が私が住んでいた仮設住宅に入った。それを聞いて、行政委員だった私は急いで自治会長と連携をとり、模造紙での急ごしらえの歓迎横幕を集会所に貼った。多くの仮設住民も集会所前に集まった。
ほどなくして、先発隊が到着。それから30分ほどで、数台の車が仮設の駐車場に入ってきた。
公明党山口奈津男代表、そして主に西日本地域選出の国会議員の方々が
車から降りてきた。
山口代表、通称「なっちゃん」は自治会長にご挨拶され、また集まってきた多くの住民と握手や励ましの言葉を掛けながら、集会所に入られて、被災地の現状とこの仮設住宅の課題などを数名の方に質問されていた。
そして、居合わせた住民みんなと記念撮影。
そうして、仮設住居者の皆さんを励まされたのである。まさに寸暇を惜しんでの激励行だったと思います。
あとで伺ったが、わが仮設住宅のほかにも石巻地域数か所の仮設住宅を回られたそうである。
このように書くと、被災地は特別だからそういうこともあったのだな、と多くの方は、おもわれるかもしれない。

私が住んでいたのは、石巻地域で、数十か所あった仮設住宅でも、街はずれの小高い山に三棟だけ建つ180世帯ほどの小さな仮設。6年余り、住みましたが、その中の最大の想い出が、「なっちゃん」はじめ公明国会議員団の
励ましだった。永遠に忘れない二度と来ない記念日、2014年4月9日。
他党の国会議員は、さてだれが来たかと振り返ると、自民党の宮城5区選出の方、1名のみ。ただしその方は一期のみで、今は政治家ではない。

宮城5区選出で、震災後に財務大臣も一時やったM党のAは、6年余りの
仮設生活で、一度も来たためしもない。地元選出で、一番地元に寄り添わなければならない責任と、あり意味で権限もあったにもかかわらず、である。
だから、地元地域の多くは、もう彼の顔を見たくない、という人が多い。
口だけ政党、10年かかって巡り巡って生き残った主要メンバーは
いったん無所属になりながら、いつの間にかM党にご帰還(苦笑)
所詮選挙目当てのパフォーマンスでしかない今の姿にもう誰も見向きもしないだろう。

ただ一つ明らかな歴史は、これから復興の本番を迎えた石巻の地に、春とともに、なっちゃんは、にこにこと励ましの足跡と寄り添いの想いを、多くの議員さんとともにわが前山仮設団地(実名)に残していったのである。

その前山仮設団地もすでに解体されて、今は雑草地の野原に戻っている。
2023年10月に行った折には、懐かしい秋桜が咲いていた。
久しぶりに訪れたかつての「住民」に、「おかえり」とほほ笑んでいるようだった。
秋風が涼やかな故郷は、被災者に当時とかわらず優しかったのだった。

   2023年10月15日記事


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?