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【初愛】~君に捧ぐいのちの物語⑤ー2 黒田勇吾

結局、2011年10月末日で、私は会社を退社しました。たくさん優しくしてくれた先輩たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
と同時に、これでいのちとお金のやり取りに面と向かわずに済む、という
逃げの心も一方であったのも事実でした。
しかし、自分を追い込んでいって、万が一のことがあって、逆に周りを悲しませるようなことが起きたらもっと悲惨になる、という想いのあるギリギリの選択でもありました。それほど追い込まれていたことも事実でした。

大災害などによる被害によって、様々な障害が発生することはままあることです。その障害の種類や規模は、それぞれが違いますが、往々にして人は障害によって、日常生活に支障をきたすほどの肉体的精神的な苦悩や弊害を受けます。その症例は千差万別で、一様ではありません。

わたしも振り返れば、様々なことがありました。そうしたことの弊害や障害が、やがてその人の人生を大きく変えていく。いい意味の変化もあれば、悪い意味も当然ある。短期間で済む障害で終わることもある。逆に長期に及び、やがて命の危険をも伴うことも、しばしば起きることを、自分も含めてたくさんの事例をやがて聞くことになりました。

「初愛」という物語の主人公たちも、震災を直接経験した人も、そうでない青年も、皆この東日本大震災という、1000年に一度と言われた大災害の中で何かを支えに、または自分が誰かの支えになって、生きていく生き様を物語っていきます。彼ら彼女らはそんな経験をこれからしていくことになるでしょう。。。。。

話を戻しますが、11月から私は、地元の仮設住宅に住んでいる中学生数名に対して、勉強指導を有料で始めました。わかりやすく言えば、個人事業主の家庭教師業を始めました。
ちょうど秋も深まっていました。そして受験シーズンは震災が来た街にも否応なく訪れます。そこで来年高校受験を控えた中学3年生に、英語、数学を中心に教え始めたのです。

私は震災前のある時期、と言っても振り返ると約14年間、学習塾を経営していた時期がありました。ですから、何百人もの主に中学生を、当時2教室で勉強を教えていた経験があります。一人では教室運営の手が足りず、数名の講師を雇って経営しておりました。
もう一度震災前の、あの楽しかった子供たちとの学習指導を再度始めたいと考えて、先ずはいま困っている中学3年生たちに高校受験対応の勉強を教えることから始めました。もちろん生活を立て直すことが主目的で始めましたが、なにより子供たちとの学習指導の交流を通して、当たり前のあの頃の精神状態の自分を取り戻したかったのも、その理由のひとつでした。
純粋で、まだ大人の狡賢さに染まっていない中坊たちと、楽しく気軽に勉強したかったのです。

そうしてあちこちの仮設住宅に伺って、中学生に勉強を教えて、少しずつ昔の自分を取り戻しかけていました。

ある日、縁あって家庭教師として伺っていたご家庭の隣の方と知り合いになりました。その方は気さくに、私が仮設住宅を歩いていると、何度か声をかけてくれた男性でした。40代くらいのおじさんでした。
「家庭教師のお仕事終わったら、ちょこっとおらのうちに寄って、お茶っこ
飲んでいがいん」ある日の夕方、そうお声がけを頂きました。断り切れず、その日、仕事が終わった後、その方の部屋にお邪魔することになりました。

仮設住宅とはご存じない方もいらっしゃりと思いますが、昔の長屋みたいなところです。その長屋の家庭教師をしている隣の家のチャイムを鳴らしました。
もう夜になってあたりは真っ暗でした。
「どうぞ、入ってけさいん」と中からそのおじさんの声。
わたしが来ることを知ってましたから、すぐに返事がきました。
「お邪魔します」と言って部屋に上がると、六畳の部屋に
大きな炬燵。それに座りながら、どうぞどうぞ、と向かい側の座椅子付きの
ほうに座るように促されました。

お茶とお菓子をいただきながら、お元気ですか?というだけが
精いっぱい。家族のことなどを伺う勇気はもちろんなかったです。
ちょっとした挨拶の後、隣の4畳半の部屋に案内されました。
そこには、小さな箪笥の上に、写真盾とお菓子などが置かれていました。
私は、見てから、何も質問せずにその写真を見ていました。
おじさんは、確かこう言いました。
「息子の写真です。まだ帰ってきていないんです」と言って
わたしを見つめました。
「帰ってくることを毎日祈ってるんです」
わたしはその視線と言葉に、頷くしかありませんでした。

何と質問していいか、わかりませんでした。
その写真の前に正座して、手を合わせて黙祷しました。
おじさんは、私の姿を見て小さく微笑みました。
そして、わたしは遅くなりますので、今日は帰らせていただきます、とだけ
言って、足早に玄関に行って、挨拶をして、お暇しました。
お茶をどうもありがとうございました、とお礼を言って
外に出て、そのまま駐車場の車に向かいました。

自分にいったい何が言えたでしょう。
ある程度の想像はできましたが、それをおじさんが話さないので
こちらから質問はできませんでした。

夜遅く自宅に帰って、その日はそのまま、休みました。
横になりながら、
自分は、何もできない、とおじさんの顔と息子さんの写真の姿を
思い出しながら、考えました。自分は、何もできない。

まだその頃は我が家族には家がありました。
半壊判定ながらもどうにか住める「家」が
残っており、ゆっくりと身体を休める「自宅」がありました。
会社があったところは大津波が来ましたが、我が家は内陸にあり、
津波も、来ませんでした。しかし地震の揺れによってかなり柱がゆがんだり、瓦の屋根が落ちたりしており、壁にもひびが入り、半壊判定になってましたが。

二階は、四部屋がありました。今は福岡のCAの養成学校にて勉強のため長期間不在の長女の部屋。大学4年生の就職が決まっている長男の部屋。学生結婚を決めて彼女の実家に泊まりに行ってしょっちゅう不在の次男の部屋。そして私の3畳間の小さな書斎部屋。
奥さんと末娘は1階の一部屋に2人で寝ていました。

2011年12月、家庭教師業を始めながら、時々昼間に、長女の部屋に入ってピアノを鳴らすことが増えてきました。小学生時代に長女が習っていた頃に買ったピアノ。あのおじさんと会って以来、なぜか帰ってきていない息子さんの写真のことを思いながら、ピアノを鳴らして何かを創りたいなと思いつつ、何もできずにいました。

わたしは中学時代に地元の音楽隊に入ってトランペットを習いはじめ、高校時代は、吹奏楽部に入って引き続き、音楽にのめり込んでいました。そしてアコギをバイト代で買って、当時の流行り歌の弾き語りなどもしていた時期がありました。ただ本格的に歌を創るということまでは経験はありませんでした。
しかし、仮設住宅のおじさんのことが気になって、何かの曲を創りたいと真剣に考えるようになっていました。年をまたいで、2012年1月になってもその思いは続き、ピアノの音を鳴らすたびに、何かが生まれてくる予感がし始めました。
その時に、わたしの心の風景にあったのは、何度も何度も、ことあるごとに行っていた日和山という丘からの北上川河口の景色。そしてその先のはるか遠くに望む太平洋の水平線の輝きでした。

1月の10日ごろでした。いつものようにピアノを鳴らしているときに、すっと降りてきた言葉がありました。

♬ ~水平線を越えて~~ ♬
そしてそのフレーズと共に、メロディも聴こえてきました。

つまり、「追悼の歌 水平線を越えて」という初めて創った追悼歌は、Bメロディの初めの部分が、最初にできたのでした。
前半の歌詞も 後半の歌詞やサビの部分もまだ生まれずに、まず初めに

♬~水平線を越えて~~♬ というフレーズが生まれたのでした。そこから前半の部分が、蒼い太平洋の海のことを歌う歌詞が生まれていきました。

           ~~⑤-3終わりへ続く~~

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