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アベバッパ 短編④ 黒田勇吾

日曜日は晴天だった。少し風が肌寒い感じがしたがお花見日和といってよかった。九時過ぎには集会所の前の桜のそばに大きなブルーシ
ートを敷いて、仮設の人々が花見の準備を始めていた。私たち家族も九時半過ぎにお手伝いに入って、十時前にはもう乾杯の音頭が始まっ
た。三十人ほどが集まって、それぞれに思い思いの話に笑いの輪が広がっていた。
 しばらくたっても花見の場所にアベバッパは現われなかった。来ないのは何となくさみしい気持ちも私にはあった。アベバッパにもそれ
なりの人生行路があったのではないかと思ったりもしていたのだ。
 日差しはすでに強く本格的な春がこの街にもようやくやってきたな、とビールを飲みながら楽しい気分であった。
 十一時過ぎになってから、ふと昨日買ったお菓子を車の中に置き忘れていたのを思い出し、席を立った。娘に買ったチョコレートもあっ
たな、と少し焦った。この暖かさでチョコレートが溶けていなければいいんだがと心配しながら、山側の奥の駐車場に置いてある車につい
たときだった。
 山といっても十メートルほどの丘のようになっていて枯れている雑草が生い茂り、その登り切ったところに大きな桜の木がある。ふと気
づくとその木の下に一人の人が立っているのが見えた。大きな扇方に広がって膨らんだ満開の桜が青空に映えて美しかった。その下にアベ
バッパは立っていた。私は少し呆然となって立ち尽くした。そしてアベバッパを見上げた。どうやって登ったのだろうと驚きの思いがよぎ
った。雑草が茂った急斜面の上に桜の木はあってそこに登る道などどこにもなかったからだ。わたしでも容易に上がれない角度の斜面だっ
た。アベバッパは桜の木を見上げていた。遠目にも杖をついているのがわかった。やがてじっと見上げていた頭をこちらのほうに向きなおし
て私のほうを見下ろした。わたしと目があった刹那アベバッパはにっこりと微笑んだ。たぶん微笑んだのだろうと私には思えた。そしてゆ
っくりと丘の向こう側に歩いていき、私の視界から消えた。やがてやわらかな山風がひとしきり吹いて桜の花びらが丘の下の方に舞い流れ
ていった。
 その日の午後、私の目撃証言をもとに警察が付近一帯を捜索したがそれらしき人は見つからなかった。アベバッパはその日以来仮設から
消えて二度と帰ってくることはなかった。
               了

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