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アベバッパ 短編② 黒田勇吾

それから一週間何もなかったのだが、翌週の木曜日の朝、また車に傷つけられているのに気付いた。先週の傷はまだ修理に出していなか
ったが、その上にまた一本線の引っ掻き傷が増えていた。昨日の夜、車を見たときにはなかったからおそらく昨夜から今朝にかけて何もの
かが再び傷つけたのだった。私は急いで自宅に戻った。妻にわけを話して加藤さんに連絡してくれるように頼むと急いで仕事に向かった。
 車を運転しながら何故被害に遭うのか考えてみた。この仮設に来てまだわずかであり誰かに恨みを買う諍いなどもまだない。とすれば子
供の心無い悪戯かもしれないし、ストレスのたまっている住人の誰かが無差別に嫌がらせをしているだけなのかも知れない。せっかく新た
な気持ちで復興の道を歩もうとしているのに、新生活で早々に心を暗くさせるような出来事が降りかかってきた。そんな思いをあれこれ考
えているうちに会社に到着した。会社の駐車場の隅にある一本の桜の木が、朝日を浴びながらもうすぐ咲くだろうたくさんの花芽を付けた
枝を風で揺らしていた。
 翌日は会社が休みで、午前中に車を修理会社に持っていこうと思って駐車場に行ったとき、その人はいた。白髪で覆われたぼさぼさ頭だ
けが私の車の向こうに見えた。急いで駆け寄っていくと年のかなりいったおばあさんがゆらゆらと立っていた。私の顔を見て何かを呟いて
いる。風呂敷のような布切れの服を何枚か重ね着してぶかぶかに膨らんだ体に短い手が出ている。右手に杖をもって私の車の傷付けられた
あたりをコツコツと引っ掻いている。黒いズボンはずり落ちそうにかかとで引きずっている。
「たかし。来るの遅いんでねえの」と私の顔を見て睨みつけている。
 たかしってだれだよ。それにこのおばあさんは初対面で面識がない。私はいぶかしげな思いにかられながら車を見てみると、また傷が増
えていた。
「ちょっと、おばあさん、私の車に何してんですか。傷がついてしまってますよ」少し大きな声になって私はそのおばあさんをたしなめた
。この人が犯人だったんだなと怒りを込めて睨み返した。
「たかし、はやぐ家さ帰っぺ。車さ乗せでけろ。おら、もうここに住みたぐねえ」
 よくわからないことを言っている。わたしをたかしという男と間違えている。どうやら普通とは様子が異なるそのおばあさんにすこし面
喰いながら、まともな人だろうか、という疑念が私の心に芽生えた。
「おばあさん、たかし、って誰のことをいっているの」そう尋ねてみる。見るからに七十はとうに過ぎている老女なのだが、はたして正常
な精神の人なのかますます疑わしくなってきた。
 すると隣りの集会所から誰かがこちらに歩いてきた。加藤さんだった。私はなんだかほっとした気持ちになって加藤さんに歩み寄った。
「このおばあさん、誰ですか。どうやら私の車に傷をつけていたのはこの人のようですね。しかし良く分からないことを言っていますが頭
の具合でも悪いのでしょうか」私は加藤さんに質問した。加藤さんは少し苦笑いしながら頷いて
「山下さん、ちょっと待ってね。あとで説明しますから」と言いながらおばあさんに近寄っていった。
「アベバッパ、何してたの。今日は息子さんは迎えに来ないよ。仕事が忙しいからしばらく来れないんだど。まったく冷たい息子さんだな
あや。母親一人仮設において、自分はアパート暮らしはじめてるんだから,訳のわかんない親子だ。アベバッパ、この車は息子さんの車で
ないんでがす。車種や色は似でっけど他の人の車なの。いつまで待っても今日はたかしさん来ないがら部屋に帰っぺし。」加藤さんはそう
諭しながらおばあさんの手をつかんだ。おばあさんは加藤さんの手を振り払うと
「何言ってんの。今日はたかし来るんだがら、こごで待ってたんだ。ほら、たかし来たっちゃ」と言い張って動こうとしない。加藤さんは、うん、うんと同意しながら「まず、外でいづまでも待ってるど風邪ひぐがら部屋で息子さんを待つべし。この方は息子さんじゃないんだよ。もうすぐたかし君も来る
がもしんねいがら部屋さ戻ろう」となだめてもう一度おばあさんの手をつかんで集会所のほうへ歩き始めた。おばあさんは仕方なさそうに
加藤さんの言うことをきいて右手に持った杖をつきながらよたよたと加藤さんに連れられて歩いて行った。それを見送っているうちに私も
少し落ち着きを取り戻した。そしてゆっくりと車に乗ると修理会社に向かった。
               ~~③につづく~~

#復興 #東日本大震災 #被災地
#牧野石 #震災小説 #いつか来る春のために

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