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『グリーンブック』を観て思ったこと


緊急事態宣言を受けて、
当面のあいだ、巣篭もり生活となりました。

とはいえ、ずっと家に居ると
気分まで引きこもるので、
夕方に、近所の公園に行ってボール蹴ったり、
ひとまずちょっと走ってみたりしてます。
(ソーシャル・ディスタンシングは
しっかり意識しながら。。)



家に居る人が多くなっている
いまこそ、映画や本、音楽などの価値が
再確認されている時だと思います。
スティーブン・キングのTwitterの発言
"そのとおりっ!"っていう感じでした。

自分もいままさに、
映画とか本に救われているところです。


と、個人的なことはさておき。。

3月に、WOWOWで『グリーンブック』(2018)
が何回か流れてて、
字幕版も吹替え版も観る機会があったので、
『グリーンブック』について、
考えたことを書いてみます。

ところで皆さんは、
映画を観るときは字幕派ですか?
吹替え派ですか?

映画館だと字幕版しかないことの方が多いし、
本当に映画をよく観る映画好きな方は、
迷うことなく字幕派なのかなと思います。

自分も、
どちらかと言えば字幕派だったんですが、
同居人が吹替え派なので、
たまに吹替えで観てます。

同居人いわく、
"吹替え版は、視覚(映像)と聴覚(音声)の情報が同時に入ってくるのと、
金曜ロードショーとか日曜洋画劇場感があって
安心する"
そうです。

なんとなく、納得。。

で、『グリーンブック』についてですが、
最初は字幕版で鑑賞して、
そのあと、WOWOWの吹替え版も観ました。

作品についていえば、
まず、大きい収穫だったのは、
マハーシャラ・アリという俳優を知った事です。

恥ずかしながら、
この映画で初めて知りました。。


私は演技について
評価できる基準も何もないので、
上手いとか下手とかは何も思わないのですが、
マハーシャラ・アリの演技には圧倒されました。

セリフにリアリティがあるとか
そういう次元ではなくて、
彼が発する言葉は真実として
そこに永遠に残る、、
みたいな、
彼の存在自体に圧倒されてしまうような、
そんな印象でした。

順番が間違ってますが、
『グリーンブック』のあとに、
『ムーンライト』も観て、
マハーシャラ・アリの凄さを再確認しました。

マハーシャラ・アリって、名前が既にかっこいいですね。
2010年までは、
マハーシャラルハズバス・アリの名前で活動していた(Wikipediaより)
そうですが、
さすがに憶えてもらえないから短縮したんでしょう。。恐らく。

マハーシャラ・アリって、ただ言いたくて
何回も書いてみました。。


で、ここからが本題でして、
最初に字幕版を観てしまうと、
吹替え版に違和感を覚えて観ていられないんですが、
『グリーンブック』はさほど抵抗なく観られました。

それが、なぜなのか考えたんですが、、

この映画で一番肝心なのは、
ヴィゴ・モーテンセン演じるトニーと、
マハーシャラ・アリが演じるシャーリーの、
掛け合いだと思います。

それが、吹替え版だと
トニーのとにかくガサツな感じと、
シャーリーの知的で高貴な感じが、
字幕版とは全く違う感じで、
よく伝わってくるんですよね。

トニーの吹替えが大塚芳忠、
シャーリーの吹替えが諏訪部順一なのですが、
大塚さんのおかげもあってか、
凄く日曜洋画劇場っぽさがあって、
掛け合いの心地よさがあるんです。
(ただし、字幕版とは全く違う次元で。)

個人的に一番好きなのが、
ケンタッキーのシーンですが、
字幕版とは全く違う味わい深さがあります。

個人の意見ですが、
吹替え版で一番違和感を覚えるのは、
口語のリアリティが無くなってしまうことかな、と思っています。

小説とかにも通じると思うのですが、
口語って時代と共に常に変化するし、
年齢層によっても変わるし、
更に、ある程度普遍的な言葉で訳しとかないと年数を経たときに、意味が伝わらなくなってしまうリスクもあって、
翻訳が非常に難しいと思います。
(サリンジャーの"ライ麦畑でつかまえて"然り)

まして、映画の吹替えだと、
口の動きに合わせて同じくらいの字数にするとか、更に難易度が高くなります。
恐らく。。(すべて憶測)
それをいうと、字幕も字数制限はあるんですけどね。

日本の吹替えは、
世界的に評価が高いと聞いた事もあるくらい、
そういうところは、凄く上手いんだと思います。
(たしかに、口の動きとぴったり合ってることがほぼ当たり前)

ですが、

なんか違和感を覚えるのは、何故か?

ということを考えたのですが、
恐らく一人称のせいかな?
という仮説を持っております。

英語だと全て"I"なのが、
日本語にすると、
私、俺、僕、自分、あたい、わし、オイラ、俺っち、ミー、アタクシ、、
他にもいろいろあると思いますが、
兎に角、一気に一人称が増えます。

ただ、実際によく聞くのは、
わたし、おれ、ぼく、くらいじゃないでしょうか?

その中から映画の登場人にぴったり当てはまる
自然な一人称を探すのって結構難しく感じるんですよね。。

もともと"I"だった一人称に、
日本語の一人称をあてると、
途端に嘘っぽくなる気がします。。

ちなみに、『グリーンブック』では
確か、トニーが"オレ"で、
シャーリーは"わたし"だったと思いますが、
これは、違和感なく聞くことができました。

これは、舞台が1962年という、
自分が知らない時代ということで、
どこか割り切っているところもあります。
(時代が違えば言葉が違うだろうという前提)

そして、キャラクターに合わせた
分かりやすい(ステレオタイプともいう)
一人称の振り分け方によって、
日曜洋画劇場的な、
安定の掛け合いが成立しているのかな、
と思いました。


『グリーンブック』は、
アカデミー賞3部門受賞をはじめとして、
世界各国の映画賞を受賞し、
非常に評価が高い作品でした。
(実際、自分もいろんな人から勧められたし)

その一方、
ピーター・ファレリー監督はじめ
殆どの関係者が白人ということもあってか、
シャーリーが「魔法の黒人」的ステレオタイプな黒人に描かれているという批判もあったようです。

たしかに、シャーリーは、
白人のトニーが差別に気づくきっかけとなるための都合のいい登場人物と言えなくもないのですが。。
(深読みすると、シャーリーの一人称が"わたし"なのも、その一端と言えなくもないかも。。)

こういう批評を見ると、
日本人として日本にしか住んだことのない自分は、
こういった人種差別の複雑さをまだ全く理解出来ていないんだなと、
改めて思います。

類似作品として何度か名前があがったように、
自分も
『ドライビングMissデイジー』(1989)
を、この作品を観て思い出しましたが
ミス・デイジーはユダヤ系、
『グリーンブック』のトニーはイタリア系で、
白人と黒人、という差別だけでなく、
白人の中にも差別があることが描かれています。

差別は何層にも重なって起こっていて、
その理由も、保守(伝統)、無知、無意識、自尊、排他主義などなど、
個人的な理由もあれば、
環境に左右されるものもあるということを勉強するには、どちらもいい映画だと思います。
(自分と同じく、人種差別についての理解度が低い方には特に)

『ドライビング〜』も、
人種差別という視点からは批判される作品なんですが、、
どちらも、コメディなので楽しく観られるし、
『ドライビング〜』のモーガン・フリーマンが
好きなので、
個人的には、おすすめです。

この2作品は、
きっと気付いていないだけで自分にも
いろんな差別感情が潜んでいるということに気づくには充分な内容だと思います。

どうでもいいはなしですが、
巣篭もり生活になることが決定して
TSUTAYAで借りてきたDVDは、
『バックトゥーザフューチャー』でした。
(ちなみに、TSUTAYAプレミアム会員です)

吹替え版で観たんですが、
マーティは三ツ矢雄二、
ドクは穂積隆信という民放バージョンに
慣れすぎていて、
山寺宏一、青野隆というDVDバージョンに
違和感を覚えたのは、自分だけですかね。。
どっちも面白いんですけどね。
山寺宏一さん、大好きなんですけどね。
マーティがかっこ良すぎる気がします。。


最後まで目を通していただき、
ありがとうございます。
まともな映画解説でも感想文でもない、
ただ長い文章を書くって
ひたすら楽しいので、おすすめです。
(読む方はどうか分かりませんが。。)

お時間ある方は、ぜひ。