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結局、ここで生きてってる

最近、「福祉住環境コーディネーター」という資格の勉強をしている。
恋人が、とても勤勉な人なのだ。実は。
「実は」とか書くときっと怒られるけれど、正直、ここ2年間くらい、恋人の姿を見ているなかで印象がガラリと変わった。

恋人は国家資格を持っている。フィナンシャルプランナー3級とかいう、1週間ちょっと勉強すればとれるようななんちゃって国家資格ではない(それすら僕は持ってないけれど)。
一方の僕は、これといった資格はあまり持っていない。普通運転免許証(しかもAT限定)とか、教員免許(国語の中高)とか、その程度。教員免許は都道府県知事が認める資格であって、国家資格ではない。

いずれ、国家資格を何か取りたいなあ。気象予報士とかカッコいいし、保育士とかならめっちゃ頑張れば手が届かないかしら。
そんなことを思いながら、今回勉強しているのは、東京商工会議所の資格、福祉住環境コーディネーター2級。

お試し問題が公式ページに載っているから、解いてみたら簡単だったので、「あれこれ楽勝でイケるんちゃう?」なんて調子に乗っていたのは最初の1週間くらいだろうか。
勉強は、勉強すればするほどその難しさ、奥ゆかしさを痛感する。その無知を知る「痛み」も、ある意味快感に繋がる。

「そうか、世の中のこれはこういう仕組みで動いていたのか」と理解できると、世界のピースが一つ埋まったような錯覚に陥る。
この世界には、そんなピースが何兆と転がっているのだろうけれど。

「井の中の蛙」だった高校時代

世界には知識のかけらが無数に散らばっているなんて、そんなことに気がつけたのは、大学に入ってからだったと思う。
高校時代の僕は「世界史なんて入試に使わないし」とか言って、世界史の授業は9割以上睡眠時間だった。
ああ、勿体無いことをした。別に世界史の知識がないからと言って、毎日の生活は何も不便もないし、衣食住にも困らないけれど、「教養」というものが1%でも増えていただろうに。

教養は、人生を豊かにする総合力だと思う。

古語を知らなくても、漢字を知らなくても、和歌を詠めなくても、とりあえず日本語を話せれば日本で生きていけるし、助詞だの助動詞だのと、品詞分解なんてしながら話してる人なんていない。
免許を持っている手前、国語教師の底辺にとりあえずい続けている僕としては、国語はコスパが悪い教科だと思う。
勉強を付け焼き刃的にしてもテストの点数はあまり伸びないし、それくらいなら歴史用語や化学式を暗記した方が点数が伸びやすい。

でも、それでいいのかな、とも思う。
それでもいい人も多いと思う。日々の生活で精一杯。教養を深めても銭には結びつかない。

僕は、それでは寂しいな、さもしいな、と感じてしまう。
美しい夕焼けを見たとき、その姿を、僕というフィルターを通して言語化し、その夕焼けの美しさに、僕の感じ方、表現の仕方という価値を付加して誰かに伝えたいと思う。
似たような、あるいは全く180度異なる感じ方をする人と、感性をぶつけ合いたいし、それに快感を覚える。
だから、教養は、言葉を知ることは、知識を広め深めることは、人生を豊かにする総合力だと思う。
投資にも似ているのかな。

だから、僕はいま、29歳になってなお、勉強を続けている。
結婚しても、子どもが生まれても、続けていきたいな。

中学時代の同級生と居合わせた

とまあ、僕が勉強を続けていることに胸を張るために、こんなふうにわざわざ言語化して自らをエンパワーしているのも、実は理由がある。

昨日、仕事から帰ってから、用事で車を走らせて、せっかく外出したから勉強して帰るか、と普段行かないジョイフルに入った。
そのジョイフルは、僕の母校の中学校区にあるファミレス。店舗が多いジョイフルだから、このジョイフルに入るのは(多分)人生で初めてだった。
ドリンクバーを頼んで、テキストを広げた。

10分くらい経ったろうか、ガヤガヤうるさい男性2人と女性1人のグループが入店し、隣の席に座った。
コロナ対策で、座席には背もたれの高さにさらに追加してパーテーションが設置してあり、顔は確認できなかった。

うるさいなあ、他のお客さんの迷惑を考えられないんだろうか、これだから「若者はあーだこーだ」と言われるんだ、と心の中でひとりごちながら、嫌でも入ってくる会話にうんざりしていた。

すると。女性の声に、妙な違和感を覚えた。
少し低めで、ちょっとドスの効いた、あの下品な笑い声を出すのは。

あっ。中学時代の同級生、Iさん!?

残りの2人の男性については最後まで分からなかったが、会話にそば耳を立てると、聞き覚えのある固有名詞が聞こえてきた。間違いない。Iさんだ。

コロナに感謝した。
こちらもマスクをしているし、パーテーションで区切ってあり、気付かれる恐れは低い。

そう、Iさんには気付かれたくなかった。
Iさんは、中学時代に僕をいじめた張本人だからだ。

Iは頭がよかった。
テストの順位は常に一桁だったし、友達も多かったように思う。
能力が高く、Iは、頭脳プレーで僕に多くの嫌がらせをしてきた。
そのことに気付いていた人はそんなに多くはなかったと思う。

高校も同じだったが、高校からは完全に疎遠となり(高3は同じクラスだったが、会話はほぼゼロだったような気がする)、大学はどこに行ったのかも、どこで働いているのかも全く分からない彼女が、隣のテーブルで、男2人に囲まれながら、食事を奢られながら、下世話で下品な話をして、大声で笑って、周囲の客に迷惑をかけている。

勝手ながら、その頭の良さ、ずる賢さを使って、社会にプラスをもたらしていてほしかった。「改心」していてほしかった。ではないと、苦しんだ中学時代の僕が報われない気がしてしまうからだ。
世界を股をかけろ、とまでは言わないが、東京とか都市部でバリバリ働いて、日本のGDPアップに貢献して、そんなIさんを勝手に想像していたばかりに、こんなしみったれた地元のジョイフルで、夜に男2人に囲まれながら騒ぎ、周囲に迷惑をかけるその姿とのギャップがきつかった。

いや、実際社会にプラスをもたらしているかもしれない(がそれを知る由もない)。
Iさんのことを見下したかっただけの僕なのだ。

それに、盛大な「棚上げ」なのだ。
そのしみったれた地元のジョイフルで、夜に一人ドリンクバーを啜りながら勉強している僕と彼女は、多分大差ない。
結局、地元で生きていくことを選択し、その身の丈に合った生活をしながら、細やかな楽しみや幸せを求めながら生きているだけなのだ。
人生、生きていれば誰かに迷惑をかけるものだし、その迷惑のかけ方が、夜のファミレスで騒ぐという形で出現しているだけなのだ。

「井の中の蛙」は卒業したけれど

9年前、地元を離れて生きていく決心をした。こんなところで生きていけるか、って思った。
それくらいに僕は幼く、青く、事実その未熟さのまま抱えなくてはいけないきつい記憶が、つらい人間関係が、この「クソ地元」には多過ぎた。時間が必要だった。

9年前、その決心が打ち砕かれて浪人した。その1年間は、「僕がいるべき場所はここではない」と24時間思っていた。
せめてもの抵抗(?)で、予備校では必要最低限求められる量しか自習をしなかった。その代わり、近くの図書館で自分のペースで勉強した。
「努力は実る」を標榜する某予備校からすれば、僕は「努力しなかった浪人生」で、さらには浪人した2回目の受験でも志望校に落ちた「努力をしなかったから実らなかった浪人生」になるのだろう。

その思い出の図書館で、その9年後、こうして勉強をしている。なんなら、浪人生たちが隣の席で勉強に励んでおり、キーボードの音が邪魔にならないように今日は静かにタイピングをしている。

図書館利用カードも調子に乗って作ってしまった。この机で赤本広げてた頃が僕にもあったよ。

恋愛、友人、家族、仕事、親戚、お金、住居。

失ったらとても困るものが、この熊本にはとてもとても多過ぎる。同時に、リセットしたいもの、「こんなものなんてなかったらいいのに」という「負の財産」も、とてもとても多過ぎる。

良くも悪くも、しがらみの中で僕は生きている。
きっと多くの人も、自覚的/無意識的なのを別として、同じなのだろう。
しがらみに絡め取られていることは、イコール「ここにいていい」ことを意味する。

刑務所の囚人たちは、その柵(さく、別の訓読みをすると「しがらみ」だね)の中で、生きていることを許されている。
多分、色んな規模とか条件が少し異なるだけで、一緒なのだろうと思う。

しがらみが逆にない人は、不幸なのだと思う。要らない人、居ても居なくても同じだなんて、僕には耐えられない。
そんな人の一部が「無敵の人」になって、そのうちほんのひと握りの人が社会に牙を剥いて一矢報いるのだろうか。

そう思うと、こんなクソみたいな地元で生きていくのも、夏は沖縄を超える不快指数を我慢して、発達していない交通網に文句を垂れながら狭い道路を運転するのも、悪くない気がしてくる。

井戸を飛び出した僕という蛙は、「大海」を少し知ったような気がしていたけど、それは「湖」ですらなく、小さな「池」だったかもしれない。
まあ、それでもいいさ。
「池」しか知らなくて何が悪い。大海の蛙は、池に咲く蓮の花の美しさを知らないだろう。淡水魚たちと助け合って共生したことはないはずだ。

「池」で生きながら、知識を、教養を増やしていけばいい。たまには、ゲコゲコ騒いでいるメス蛙もいるかもしれないけれど、彼女にも、きっと色々あるのだ。お互い様だ。
「池」にも、「大海」に引けをとらない知識のかけらが転がっているはずだ。「大海」ではつかみ取れない幸せが隠れているはずだ。

熊本、水が美味しくて野菜も美味しいし、農産物は文句なし。馬刺しもほっぺた落ちるし、お酒もサイコー。阿蘇っていう世界でも指折りな観光資源があって、天草っていうリゾート地(?)もあって、熊本城も立派な勇姿。
ここも、なかなかイイ「池」だよ。

結局、ここで生きてってる。

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