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「よいお年を」と「明けましておめでとう」

「今年は大変お世話になりました。よいお年をお迎えください。」
「明けましておめでとうございます。2023年、今年もよろしくお願いします。」

この何気ない年末・新年の挨拶に、「自分は喪中だから『おめでとう』が言えないんだ、ごめんね」を、全く接点のない2人から別々に言われた。
2人とも、昨年のTwitterとかで、はっきりと言われてないまでも、「喪中」であることをきっと僕はどこかで「知っていた」。
だけれど、頭の中で、その人が悲しみに暮れていることと「正月を祝えない」ことがリンクしていなかった。
配慮を欠いていた、ともいえる。申し訳なかった。

だけど、と、正月に関する事柄について、僕が長年思っていることをつらつら書いておきたい。
新年一発目の記事でこれかよ、めんどくせーなー、そう思われるだろうな。
それが僕なのだから。

「よいお年を」「明けましておめでとう」と喪中

自分の価値観、ある意味宗教観と言い換えてもいいかもしれないが、を押し付けたいわけではないことを最初に断っておきたい。

僕は、「よいお年を」という挨拶がとても好きだ。

何が「よい」のか。その人にとっての「よい」とは何か。
何をすれば、何があれば「よいお年」を迎えたことになるのか。
その「お年」の範囲はいつまでなのか。年始の数週間? それともその1年間いっぱい?

英語でいうと、"I wish you a happy new year." だと思うが、ほぼ全くといって同じ意味なのだと思う。
昔、学校の英語の授業で、英語文化は、「挨拶は『祈り』」という言葉を聞いたことがある。新年だけでもなく、"I wish you a merry X'mas." だし、何なら、"Good morning."ですら、"I wish you a good morning." の略なのだと習った記憶がある。
よい年、よいクリスマス、よい朝。それが、対話の相手である「あなた」に訪れていたら/訪れたらいいな。そんな「祈り」が挨拶になった。
対して日本語は、相手の状況を尋ねる挨拶文化なのだという。「こんにちは(今日は)ご加減いかがですか」。相手の今の状況を気遣っている。これも、ある意味「祈り」の一種だと思うな、と授業を受けていた当時の僕はそう思った。
そんな日本語が、直接的に「祈り」を表現する「よいお年を」がとりわけ好きなのだ。

つまり、どんな挨拶でもその根幹にあるのは、相手の元気、息災、幸せを希う「祈り」なのだ。

突然だが、2020年秋、祖父が他界した。
祖父は、家族・親族が一同に会して賑やかに食事をする年始の集まりと、盆の集まりをこよなく愛していた。
祖父の家から3kmくらいのところにある大きな神社に、毎月1日、自転車で参拝しにいくくらい敬虔な信者だった(といっても仏教とか、神道とか、特定の宗教に傾倒していたわけではないが、毎月、神社に通っては家族の無事を祈ってくれていたのだ)。
物心がつく前から面倒を見てもらったのもあり、僕も祖父を愛していたから、とても苦しく悲しかった。

秋から冬になり、年が明け。
僕は敢えて、その年も「明けましておめでとう」を口にした。
年賀状も送ってくださった分は返信したし(自分から出さないのは単純に近年面倒になっているから)、祖父の通っていたその神社に、初詣も行った。
祖父は、自分の死によって、「おめでとう」が「喪中」「忌中」といった物悲しい文字に置き換わることを望んでいない、と思ったからだ。

職場などで、「よいお年を」も言われた。
祖父亡き2021年を、祖父からもらったものを胸に、強く生きて、「よいお年」にしなくてはいけないな、と感じた。そう思うことにした。
だから、「よいお年を」は例年以上に沁みたし、僕からも積極的に祈りを込めて「よいお年を」と伝えたことを覚えている。

「よいお年を」「明けましておめでとう」を、悲しみ・苦しみの渦中にある人に押し付けたいとは一切思わない。
これは勝手な僕の祈りであり、エゴだからだ。
でも、祈らずにはいられない。親(ちか)しい人が、どんなに悲しくても苦しくても、ちょっとした美味しいものを食べて美味しいって感じてくれたり、穏やかな音楽を聞いて0.1%でも癒やされたりしてほしい。

だから、この場を借りてこそっと、改めて。
今年を「よいお年」にしよう。2023年、「明けましておめでとう」。

ちなみに、「めでたい」を、『ベネッセ表現読解国語辞典』で索くと、次のように載っていた。

めでた・い(形容詞)
①祝福すべきことであり、喜ばしい。◎めでたい式に参列する。◎めでたく合格した。
②信望があり評価が高い。◎社長の覚えがめでたい。
③(多く「おめでたい」の形)お人よしである。人がよすぎて間が抜けている。◎おめでたい考え。
表記▶「目出度い」「芽出度い」と当てて書くこともある。

『ベネッセ表現読解国語辞典』

また、ネットで調べると、動詞の「愛(め)づ」から転じた語でもあるという。古語の「愛づ」は、多義語だけれど、「愛する」「好む」「称賛する」「感動する」というのがだいたいの意味だ。

誰がいようといまいと、春はやってきて、芽が出てくる。そんな中に、話者である「私」と話し相手である「あなた」がここに「在る」。
これって、とてもおめでたいことなのだと、僕は思っている。
年に一度くらい、それをお祈りして、お祝いしてもいいじゃないか、誰にとっても、正月はめでたいのだ、というのが僕の考えだ。

正月の「呪縛」

ここまでと反対の話をしたい(すーぐ手のひらひっくり返す。こういうのを「自家撞着(じかどうちゃく)」という)。

僕はこの正月で、初めて「彼女と」「年越しを神社で」過ごした。

例年の年越しは、だいたいは家族と過ごしている。夕飯に年越し蕎麦をすすり、紅白を見ているうちに年が明け、そして寝る。起きてお雑煮とおせち料理を食べ、午前中のうちに初詣を済ませ、祖父母(実家の近くに住んでいる)に挨拶に行き、その後は初売りに行くこともあれば、ゆっくり家で過ごすことも。三が日までは家族と過ごす。

年越し仕事だったこともあるが、理由がなければ家族と過ごしてきた。
友人や恋人と過ごしたことは一切なく、友人・恋人に「も」会いたい僕としては、早く三が日が過ぎることを祈るように待っていたものだ。

今年は(というか去年からだが)、僕は実家に帰らずに自宅で過ごすという選択をとった。
少なくとも今年「は」、家族と過ごして「よいお年」を迎えられるイメージがつかないほどに、数ヶ月間に渡ってこじれてしまっているからだ。

今年は、豪華なおせちは口に入らなかった。
例の神社には初詣に彼女と出かけたが(初めて年越しを神社で過ごしたけど、すごい人出なのね)、なんとなく、祖母に挨拶も1月2日午前0時現在、行けていない。

「よいお年」を迎えられているのか、正直よく分からない。
家族といない分、変な気を遣わなくて済むのはとても気楽ではある。
「よいお年を」「明けましておめでとう」と多くの人に祈りを伝えてきた僕自身、その祈りの分か、それ以上か、「正月はかくあるべき」を無意識につくりあげて、自分を縛り、家族を縛り、挨拶を伝えてきた相手を縛ってきた側面があるということを、今年初めて気づいた。

そうなのだ。太陽の周りをこの惑星が回る365.2422日のうち、特定の1日を節目と人間が勝手に決めただけなのだから。
旧暦においては、まだ年が明けていない(旧暦の正月は現在の2月)し、なんなら真夏に新年を迎えてもいいはずなのだ。

節目は大事だと思う。節目があるから、普段思い出さない誰かを思いやり、思い返さない自分の生活を省みることができる。
でも、その節目は、自分で決めたっていいのだ。
ずっと座右の銘に据えている、「天地の初は今日より始まる」というのは、そういう意味ではないか。

だから、今年の正月は、「呪縛」から逃れて「頑張らない」ことに決めたのだった。
そうは言っても、友人や職場の同僚らに「よいお年」を迎えてほしいのは本当だったから、その祈りを伝えたのは自分勝手だっただろうか。

「よいお年」と言えない人は、いっぱいいるはずなのだ。
昨年まで働いていた児童相談所では、親元から一時保護された子どもが、慣れない窮屈な環境で年を越したはずなのだ。
誰か大切な人を亡くした人は、とてもじゃないけど祝えるような気持ちになれてないことだってあるはずだ。

それでも、エゴでもいい。
2022年の年末に思っていたのは、みんなに「よいお年」を迎えてほしかったということ。
誰かの幸せを祈る言葉は、きっといつか自分を幸せにしてくれると思えるから。

今年は大吉

大吉率が高い(と勝手に僕がそう思っているが、なぜか僕自身は大吉を例年引けていない)健軍神社で、僕が物心つく前から連れて来られていた健軍神社で、祖父が足繁く通っていた健軍神社で、初めて年越しを迎えた僕がいただいた今年のおみくじは、大吉だった。

さくらばなのどかににおう春の野に蝶もきてまうそでのうえかな
身も進み財宝(たから)も出来て立身出世する事は 春の暖かい日に美しい花の野を心楽しく遊び行く心地にてよき人の引立にあずかります けれど心正しくないと災があります

とても平和な、穏やかな歌だ。文字通り(脳内)お花畑な歌だ(とか言ったらバチ当たりそう)。

久々に大吉を見た

意地を張って、色んな人を振り回したり心配をかけたりすることは、「心正し」いことか。
家族と平和に穏やかに過ごさないことは、他界した祖父の望むような正月の過ごし方だったか。

呪いは、祝福でもある。
家族が、「一緒に過ごすこと」を大切にしてきた意味が、何かあるはずだ。

もう少し、大人になろう。
また1年、年が明けたのだから、「お目出度い」、「お芽出度い」、「お愛でたい」1年の始まりに、もう少し頑張ってみようと自分に言い聞かせるくらいは、バチも当たるまい。

今まで大切にしてきたことと、これから僕が生命をかけて大切にしていきたいものと、どちらも大切にできるように、もうひと回り成長したい。

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