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What I’ve wanted the most

最近、とても揺らいでいる。揺らぎ続けている。

そんなに友人が多い方でもない僕は、今、仲良くしてくれている友人は大事にしたいと思っている。
思ってはいるのだが、そのベクトルの向きや長さが、果たして適切なものなのか、自問自答を繰り返している。

大切な友人なら、その友人から恨まれても、悪者扱いされても構わないと思うのは、僕のエゴでしかないのだろうか。
そんなの、ほんとは望んでいない。
ただ一緒にごはん食べたり、遊んだり、どこかに出かけたりして、ときにつらいことがあったら、ともすれば話を聞いてもらって。
友人も、僕も、幸せでいること。
That’s what I’ve wanted the most.
それだけが望みなのに。

「去って」「戻って」きてくれた友人、失われた時間

かつて僕が「正論」を突き付けて、「去った」友人がいた。
とても努力家の友人だ。生き方全般に対する努力の足りなさは、むしろ僕の方だった。
友人が「きつい」と発している中で、僕は「正しさ」を押し付けて、友人は僕から「去った」。
でも、神様か、何か目に見えない力が働いたのか、友人は、「戻って」きてくれた。
友人が一番きついときに寄り添えなかったこと、そして、現在進行形のきつさに寄り添えていないことに、「ごめん」が自然と口から出た。
僕は、僕の中に友人像を勝手に創りあげ、その像に、勝手な(過度の)期待を寄せていたことに気付いた。
それでも、伝え方や伝えるタイミングといったベクトルの「長さ」が間違っていたかもしれないとしても、ベクトルの「方向」は間違っていなかった、と今でも思っている僕がいる。

だって君は、これまで、僕にはできないような努力を積み重ねてきたじゃないか。
そんな過去の頑張ってきた君自身を、今の君は裏切っているんじゃないのか。
僕の尊敬する、憧れの君を、毀さないでくれ。
もう少し、頑張ってみてくれよ。

友人がつらい渦中にぶつけた僕の気持ちは、エゴでもあったけれど、同時に友人へのエールでもあったと、今でも信じている。
そのエールがエールではなく、鋭利な刃物として友人に突き刺さってしまったことを、僕は反省すべきなのだと思う。
もっと別のかたちで応援すればよかった。もっと寄り添って、言い方や、タイミングや、そういうのをもっと考えればきっと違っていた。

だって、結論から考えれば、友人が僕から去っていた2年間という年月は、もう二度と戻らないのだから。

「裏切ってしまった」後輩との苦い経験

もっと前、10年以上前の話になる。
僕は、「青かった」。愚直さ、泥臭さがあった、と言えば聞こえがいいかもしれないが、とにかく「幼かった」。

僕は、誰だって寄り添えば救うことができると自分を過信していた。
だから、色んな人の事情によく首を突っ込んでいた。

ある後輩が、僕にとあるカミングアウトをしてくれた。
後輩が僕に何らかの期待をしてくれたこと、僕から寄り添ってもらえていると思ってくれたこと、後輩が心を開いてくれたこと。
ただただ嬉しかった。
でも、嬉しかっただけで、自分のキャパシティを超えていた。抱えきれなかった。
話させたからには、首を突っ込んだからには、最後まで支援すべきだったのに、僕は、後輩に対して、後輩が期待するような立ち回りをすることができなかった。

心を開いて、何らかの対応を期待してカミングアウトしてくれたのに、何も変わらない環境、何もしてくれない先輩。
後輩は、僕から「裏切られた」。心を開いて誰かに話すということのハードルを、それまでよりも高くしてしまった。不必要な失敗体験を与えてしまった。

このことは、苦い思い出として、教訓として僕の中にずっとある。
僕の力はそんなに強くないし、キャパシティも大きくなかった。
助けられる、救える人だけ深入りするようにするし、深入りしたからには、最後まで手を離さない。責任をもって支援を続ける。
そう誓ったし、それは今でも変わっていない。

そして、また繰り返す苦々しさ

今度は、別の友人が、僕から「去った」。
懲りない僕は、2人同時に救おうと、首を突っ込んだ。

苦い失敗体験があったから、同じ過ちを繰り返すまいと、首を突っ込んだからには、とことん向き合ってきたつもりだ。
「つもり」だから、友人からすれば、「足りなかった」のかもしれないけれど。
僕は、手を離したつもりは全くない。
今だって、手を離していないつもりだ。

ずっと、自分の中で言い訳が巡っている。
「僕はまだ友人を見離していない」。
「なんで友人は、僕からの直接の言葉を聞かずに、又聞きの言葉で判断し、勝手に去っていったんだ」
「これでもできることを精一杯尽くしてきたはずだったのに」

苦しい、苦しい。

僕は、いつしか対立するようになっていった2人を、どちらも大切にしたかった。
どちらの味方でもあったし、どちらだけの味方でもなかった。
人として正しくないこと、道徳心と照らし合わせて間違っていると思ったことは、その都度2人それぞれにそれぞれのかたちで伝えてきた。
伝えすぎて、「正義」を振りかざしすぎている自覚もあったから、「正義」を「振りかざさない」選択をした(している)。
その「沈黙」を、「無視」と受け取られてしまった。

とても、苦しい。

ごめん、と心から思う。
僕は、やり方が下手くそだった。力不足だった。また、首だけ突っ込んで、かき回して、「失敗した」。
2人とも支えようなんて、最初から無理だったかもしれない。
片方だけについて、一緒に闘ったり、慰めたりして寄り添ったがよかったかもしれない。
色んな「たられば」を考えない日はないけれど、恐らく、もう一度去年から今年をやり直せたとしても、同じ結果になると思う。

行き場のない怒りや、不安や、悲しみや、孤独を、僕のせいにして少しでも和らぐなら、それはそれでいいと思って色々やってきた。
友人が僕から離れ、新たなコミュニティや人間関係に居場所を見出すなら、それでもいい、本望だ、と。
その気持ちは今も本当だし、でもやっぱり同時に、苦しい。
僕だって、心をもった人間だ。
悪者にされるのはごめんだ。
What I’ve wanted the most is to be friendly with you.
仲良くしてたいだけなのに、どうしてこうもうまくいかないんだ。

静かなる怒り、青き挑戦、でも、決意の揺らぎ

人生で一番大きな口内炎が出来たくらい、
大食漢の僕が食欲を失っていたくらい、
夜中に目が覚めるようになったくらい、
仕事にも精が出せずに溜め息ばかりついているくらい、
僕だけはブレずに「お帰り」を言えるように元気にやっているという姿を見せなきゃと敢えて外に出て楽しそうにしているくらい、
悩み苦しんでいることを、知らないだろう?

パートナーが「沈黙」を破って向き合おうとしたことで、パートナーが心から傷つけられ、涙して不眠になって体調を崩している姿を見て、怒りに震えた夜を知らないだろう?

苦しんでいた2人の姿を外野から見て見ぬふりを貫いていたくせに、パートナーがいざ向き合おうとした矢先に、それを一方的に断罪し、否定された僕の気持ちなんて、どうせ分からないんだろう?

人間関係に悩むくらいなら、いっそのこと人間関係を断ち切ればいいではないかという甘い囁きと、いやいや、結局「人」の「間」に生きる以上、人間(じんかん)を拒絶していては何も始まらないよ、と諫める自分が、同居している。

静かなる怒りと、苦しさと、悲しみのやり場に困っているのは、僕だって同じなのだ。

盛大なひとりごとだ。
同時に、多方面への挑戦でもある。
直接言ってこいよ、と思うなら、それ以前に、直接聞いてこいよ、直接寄り添ってやれよ、と返したい。
盛大にケンカして、殴り疲れて相打ちになって、夕暮れを見上げながら笑いたい。
僕は、扉を開いている。
何年でも、待つつもりで。

懲りないよな。
まだまだ、青さの中で、揺らいでいる。

でも、本当の青い、幼い時期には、誰だって、「ごめんなさい」「いいよ」「ありがとう」「どういたしまして」が言えたはずなのだ。
昨日のケンカ相手は、今日の大親友だったはずで、それでよかったはずなのだ。

どうしたら、その時期の素直さを取り戻せるだろうか。
いつしか、僕らはそんな素直さを失ってしまっている。

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