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ココロの借金 返済に向けて

突然だが、カサンドラ症候群という「病名」をご存知だろうか。これは正式な病名ではなく、よくある「状態」を指したもので、自閉スペクトラム症の家族やパートナーとの円滑なコミュニケーションが取れないことに対してストレスが積もってしまい、結果として不安障害や抑うつ状態になってしまうそうだ。
ホモサピエンスは、進化の過程でコミュニケーションがDNAにプログラムされてしまっているので、思うようなコミュニケーションが取れないことがストレスに直結してしまう人が多い。カサンドラ症候群の人は、その人が抑圧して我慢しても築けなかった「幸せな家庭」に強い執着を示すことも多いようで、それが一種の圧力となってパートナーや自身の子どもに知らず知らずのうちに負担を強いてしまうことがあるそうだ。
なぜこの話をするのか。それは、自分への戒めに他ならない。

ココロの借金

ここ数年、暇なときはヤフーニュースを眺めることが少なくない(コメント欄は無法地帯の民度低めの掲示板に過ぎないので、読む分には楽しいが影響を受けないように自分の中で厚めのフィルターを通して読むようにしているが)。
そんな中で、こんな記事に出会った。

母親がアスペルガー症候群の女性が、男性との交際がいつも大きな喧嘩により破綻してしまうことを、精神科医が読み解いていく内容である。この精神科医が用いた語が、妙に腑に落ちたので、共有したい、備忘録を残しておきたいと思ったのが、今回のnoteを書こうと思った動機だ。

 恋愛や結婚で見逃されがちなのが、女性の持つ心の傷である。親との関係がうまくいっていない人ほど、恋人や配偶者に多くのものを求めてしまうことは心理学で証明されている。直美さんだけでなく、私がこれまで取材したカサンドラ症候群の女性たちは、家庭や家族に対する思い入れがかなり強いように感じている。家庭は誰にとっても大切な場所で、「家庭を大事にしたい」と思いは「いいこと」なはずだ。それなのに、なぜ「家庭を大事にしたい」という思いは報われないのだろうか。
 いろいろな事情で、直美さんのご両親が、暖かい家庭を直美さんに与えられなかったことは事実だ。そのため、直美さんは心に傷を負い、恋人もしくは未来の配偶者に「家庭を大事にすること」を求めることになる。
これは当然のことに思えるが、この心の傷をお金に置き換えて考えてみよう。直美さんの親が直美さんに背負わせた負の遺産、つまり借金を、まったく無関係な恋人に返済させようとしていると見ることができる。生育環境によってもたらされた心の傷を、私は「ココロの借金」と呼んでいる。奨学金などの借金の場合、多くの人は「自分の問題、自分の責任」と考えて、恋人に返済を迫ることはしないだろう。しかし、「ココロの借金」の厄介なところは、無意識に恋人に返済をせまってしまうことで二人の関係を破綻に導くことだ。

現代ビジネス「母親が“アスペルガー症候群”の家庭で育った30代女性が、男性から何度も何度もフラれてしまった理由」

率直に、耳が痛い話だった。
僕には、自閉症スペクトラムの診断が出ている家族がいないものの、「似ている」。そう思った。

祖父と、母と、僕と

僕の母方祖父(14年前に他界している)は、母の話によると家庭を一切気にかけない仕事人間だったという。考え方も昭和のそれで、帰りは母たちが寝静まった後で、母たちが起きる前に仕事に出ていた。単身赴任も多く、母は転校の経験も数回ある。
酒に強いわけでもないのに、付き合いで千鳥足のまま帰ってきては、祖母の介抱を受ける。家事は一切せず、数少ない休日は職場の同僚や部下とゴルフや旅行。母曰く、「旅行に連れて行ってもらった経験はない。自分(祖父)の部下の娘を旅行に連れて行っていたことを知ったときは頭にきたよ。誕生日を忘れられることも少なくなく、プレゼントをねだることも憚られた」とのこと。
そんな祖父は、50代にしてクモ膜下出血で早期退職を余儀なくされる。入院した祖父の看病のため、母や祖母は病院に泊まり、母は病院から職場に通っていたため、地獄のような日々だったとのこと。母の口癖のひとつ、「長女だから」。母は、常に自分にそう言い聞かせていたのだろう。
退院後、早い老後を過ごしていたが、二度目の出血により植物状態になったのが、僕が小学1年生の頃。中学3年生までの8年間、入院生活の末、意識を取り戻すことなく帰らぬ人となったが、入院中は平日・休日問わず祖母が毎日病院に通っては祖父の世話をしていた。
母の中にも、祖父との確執が未だに整理できていないのだろう。祖父の仏壇とは、必ず3mの距離をとって毎日手を合わせている。そのような姿をよく思わない祖母との小競り合いが絶えない。

祖父は、仕事人としては優秀だったのだろうが、そこに力・時間・愛情を費やしすぎた結果、僕の祖母や母は大きな「負債」を抱えてしまったのではないか。
(「ココロ」を片仮名表記することを僕は好まないが、この精神科医の言葉を借りるので敢えて片仮名で書くが)僕の母は、多額の「ココロの借金」を負ってしまっている。それも、未だに返しきれないだけの、人生を破綻させるに足るだけの。

母のことを、可哀相だな、と思う。

母は、家族に異常に執着する。休日には、例えば僕が友人と遊ぶことで「家族の時間」が「妨害」されることを嫌がってきた。
母は、自らの誕生日に異常に執着する。誕生日に息子が家にいて祝ってくれないことに怒り狂う。誕生日は、韓国ドラマに出てくる「良い息子」が「大好きなお母さん」のためにあらゆるもてなしを尽くすことに強い憧れを抱き、それを僕ら兄弟に求めてくる。

母のことを、可哀相だな、と思う、が、母の負債は、間違いなく僕にのしかかってきた。
僕が抑うつ的な思考回路をもつのも、誤解を恐れず言えば、まるで「カサンドラ二世」的だからではないか、と思う(祖父はアスペルガーの診断を受けてもいないし、母も同じなので、まったく正確な表現ではない。ただ、母は実際にうつ病を患っており、強迫的な面がある)。

「自分の子どもが帰りたいと思う実家」

僕は、いや、僕「も」、「ココロの借金」を負っている。
僕がこれまで10年くらい公言してきた夢は、「お父さんになって、幸せな家庭を築くこと」だ。
僕は他人よりも家庭への憧れが強い自覚がある。
パートナーに、「恋人だったらこうあるべき」を押し付けてしまってきたことは、少なくない。
反省しても、繰り返す。
「ココロの借金」は、自分のせいではないにせよ、家族に押し付けてはならないものだ。僕の(未来の)家族には、母が僕にしてきたように僕はしないぞ、と母を反面教師に据えたのは僕が高校生の頃だが、大人になればなるほど、「同じこと」をしてしまっている自分を自覚しては自己嫌悪に陥ることを繰り返す。

母も、僕も、愛に飢えているのだ。
愛は、与えられるものではなく、(パートナーや伴侶だけでなく、親子間、友人間も含む)大切な人と育んでいく、相互通行なものであるはずなのに。
自らの抑圧されてきた経験が生み出した歪んだ愛が、大切な人に「こうあるべき」を押し付け、それに応えようとさせてしまった大切な人が疲弊してしまい、離れていくことを繰り返している。

断ち切りたい。

いま一度、フラットに人間関係を見直す時期がきているのかもしれない。
僕はどのような経験をしてきて、それを基に、どのような憧れがあって、何を当たり前と感じる思考回路があるのかを、大切な人たちに発信する。
そして、僕が一緒に過ごす時間が長い人たちが、それぞれどのような経験をしてきて、家庭や結婚、子ども、友人関係について、どう捉えているのか。どこまでなら許容できて、どこ以上/以下ならきつい/足りないのかを聞き出す。
相手のことを分かったつもりになっていないか。意識的か無意識的か、相手に「ココロの借金」を背負わせようとしていないか。

僕「は」、「自分の子どもが帰りたいと思う実家」を作りたい。
少しずつ、「ココロの借金」を返済していきたい。

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