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会社員間奏曲

私の目覚まし時計は、平日になると午前5時10分に飽きもせず鳴る。大変迷惑なことだ。人間の安眠を妨害するのが目覚まし時計の役割とはいえ、あまりにも薄情ではないか。無機質なこの音を耳にするたびに、私は八つ当たり的にあらゆる機械類を恨む。人工知能の目覚ましい発展をも呪いたくなる。

家を出発するのは午前6時過ぎである。冬場は太陽さえまだ眠っている。日によっては、前日に帰宅できなかった酔客とすれ違ったりする。そして最寄駅から乗り込む電車は、外の静けさとは対照的なほどに混んでいる。私と同じように、早起きをして通勤しているのですね、お疲れさまです――などと心の中で囁く気にもならないほどに、ただ混んでいる。

途中駅で乗り換える。ここでようやく乗客が各方面に分散して、乗換後は少し車内に余裕がある。なかなか読み進まない本を開く。すぐに眠くなってくる。これは、この本があまりにつまらないからなのか、目覚まし時計に深い眠りから叩きおこされたせいなのか。とにかく必死で眠気に耐えながら、目的地を目指す。

降車駅に到着するのは午前7時40分前後だ。私の職場が入居するオフィスビルに向かって、動く歩道が伸びている。大勢の会社員がベルトコンベアに載せられた荷物(彼らが職場のお荷物でないことを祈る)のように進んでいくのを横目に見ながら、私はそれに抗うように、動かない歩道を必死で歩く。

始業は午前8時。一般的な始業時刻よりもやや早いのは、私が時差出勤しているからである。我が職場の標準的なスタイルでは8時半始業なのだが、始業を遅らせるよりも終業を早めたいと思っているので、部署内では私だけが8時から仕事を始める。この30分弱の時間だけが、効率的に仕事を進められる貴重なときである。上司が出勤してくれば無条件に気が重くなるし、日中は会議なども入って、落ち着いて仕事などできる状況ではない。午後4時45分の終業時刻を迎えても仕事は終わらず、結局残業をして帰る。

家に帰れば、お風呂に入って夕食を食べてお酒を飲んで疲れ果てて寝るだけ。これで一日が終わるのだ。

このような日々を送っている限り、「会社員でよかった」と思うタイミングもきっかけもない。大学を卒業して以来ずっと会社員なのだから、私の人生の中に比較対象もない。ここで私が起業の苦しみでも知っていれば、何か思うところはあるのかもしれないが、あいにくそのような経験もない。それならば、改めて自分自身の生活を振り返って、会社員でよかったことを探そうと思ったのが冒頭の描写だが、会社員だからこそ苦しんでいることばかりのように思える。

もちろん、一般論からすれば、会社員でよいことは色々とあるだろう。個人事業主と比較すれば、社会保障の類の負担が労使折半で済んでいるのは利点だし、学生と比較すれば、仕事の成果に関わらず一定の月給が支払われるのは社会人の特権である。ただ、それをもって「会社員でよかった」と思うのは、あまりにも空しい。性質の違うものと比較しないと「よかった」と言えないのだとしたら、それは自己満足でしかない。

相対的な「よかった」ではなく、絶対的な「よかった」はないのだろうか。これは私の今後のモチベーションにも関わる。今までは「会社員でよかった」と思わなかったのはもとより、「会社員でなければよかった」とも思っていなかったのに、今日その視点に気づいてしまった以上、確固たる「よかった」点を見つけなければ、会社員たることの動機を見失いかねない。

会社員である私と、会社員でない私。

それは単純に、公と私の区別にも思えるし、会社員でなかった場合の私という空想との比較にも思える。いずれにしても、その対比の中に、会社員であることの意味を見出してみよう。

私の職場のロッカーに、アクリル製の透明の小箱が入っている。その中に並んでいるのは、これまでに私が交換した国内外の取引先担当者たちの名刺である。数か月前に数えたときには、500枚を超えていた。交換した名刺は、職場で利用している名刺管理アプリに登録していく。クラウド上に情報が整理され、誰が誰といつ名刺交換をしたのかも見てとることができる、非常に便利なサービスである。ただ、私は自分自身が交換したこの名刺の束を見るのが好きだ。

会社員だからこそ、知り合えた人がほとんどだ。「XX株式会社」という看板を背負っていることによって、私は彼らと名刺を交換することができ、直接会話することができ、人間関係を構築できたのだろう。その名刺の束は、何を見るよりも明らかに、私が会社員であることを示している。

先日も、4年も前に一度名刺を交換しただけの人から、突然電話を受けた。「あ、まだご在籍だったんですね。よかった。ご無沙汰しています」という声から始まった会話は、新たな案件の引き合いに繋がった。話の中で「Halさんに繋がらなかったら、御社にお願いするのを諦めていたかもしれません。一から関係を作っていくのはそれなりに労力がかかりますからね」とも言われた。十分に社交辞令の側面は大きいであろうけれども、その言葉がやけにうれしかった。

会社員でよかった、のだろうか。少なくとも、会社員だから経験できたことは、私が気づかない中にも多くあるはずだ。その全てがよいことばかりではないのは言うまでもないが、それらも含めて私の糧になっているのは確かだ。

そういえば、就職活動をしていた頃、私は面接でしばしば「会社や社会の単なる歯車にはなりたくない」と訴えていた。その気持ちは今も変わっていないのだが、会社員である以上、その側面はどうしても否めないとも思いはじめている。

それなら、せめて歯車ではなく歯車を回す軸でありたい。その軸も、あるいは更に大きな歯車によって回されている存在かもしれないが、それでも軸であることを誇りたい。軸であるからこそ出会えた歯車との関係性を大切にしたい。噛み合う歯車の歯の数が互いに素であるように、人間社会もなかなか孤独である。それでも、何周も噛み合って理解し合えることを信じて、軸も歯も折れないように背筋を伸ばしていたい。

そう思えるようになったのも、会社員として何年も働いてきたからなのだろう。学生時代の勢いのまま、自分勝手に生きていたら得られなかった気付きであるはずだ。

――そんなことを考えながら、また私は不満を抱えながら早起きをし、満員電車に揺られるのだ。会社員なんて、何も楽しくない。会社員でなければよかった。そう思える会社員でよかった。

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