見出し画像

誰が殺した?

昨日から、私は首都圏を離れて、瀬戸内海を隔てた四国に滞在している。もちろん休暇を取っているわけではない。ある企業への訪問の必要があって赴いた。本来であれば用事が済めば帰るところであるが、職場で再びテレワークを推奨し始めたということもあり、最低限の外出のみをする条件で、そのまま四国にとどまって仕事をすることになった。実際に私は食料調達以外には部屋を出ずに仕事をしている。

仕事をすると言っても夜は暇だが、生憎私はテレビ番組には疎い。今回のように孤独な滞在をしても、テレビを観ようと思ってもどれが面白いのか分からず、テレビを消して寝てしまうか、ニュースを見てお茶を濁すか、放送大学を観て感心するかのどれかである。

そのようなわけで、今夜も放送大学に訪れた。放送大学は私の専門外のことを教えてくれる。今晩の講義は、「社会・集団・家族心理」であった。教養学部以外でどのような学部で学ぶのかはほとんど無知であるのだが、非常に興味深い内容だった。

「傍観者効果」というのがあるらしい。要は「人は他人の行動を気にしてしまう」という心理のようである。誰かが困っていても、自分以外にその傍観者がいる場合、「自分がやらなくても誰かが助けるだろう」「自分が率先して行動した時に他人からどう見られるだろう」「周りの人が気にしていないのなら大丈夫だろう」という意識が働くらしい。

その現象を知って思い出したのは、学校でのいじめである。傍観者効果は、傍観者=当事者以外の人数が多いほど高まるらしい。他人が気にしていないほど、自分の行動が抑制されてしまう。例えば集団の中で発生するいじめが、集団の中だからこそ抑えられないのなら、それほどの矛盾はない。学校のいじめがなくならないのは、この原理に尽きるのかもしれない。そうだとするならば、「傍観者」の意識を変えねばなるまい。例えば担任がいじめをクラスで戒めるのは一つの手だろう。もしくは逆手を取って、いじめをする当事者への傍観者効果として「クラスの全員がその行為を否定している」「誰もいじめに協力しない」という状況を作るのも有効なのかもしれない。

先月、私が大学時代に教えた生徒がいじめを原因に自殺した。享年17。なんと短い命か。誰の責任か。そこに多少なりとも、当事者の関係者、例えばかつて通った塾の講師が含まれるのだとしたら、私も冷酷な傍観者だったのかもしれない。そう思うと、眠れなくなる。

(文字数:1000字)

有効に使わせていただきます!