見出し画像

ふるさとを想う

ふるさとに、名前はない。

静かに北上する東北新幹線。仙台駅を過ぎてからほどなく、私が幼少の頃から住んでいた街が見えてくる。出張で仙台を通過するときには、流れゆく車窓のその一瞬を見るためだけに、街を俯瞰できる左側の座席をいつも選ぶ。

大学進学のため、私が家族とともに仙台を去ったのは、十年前のことだ。見慣れていたショッピングモールも、いつしか敷地を拡大して、当時の様子とは異なっている。遠近の山々にも特別な思い出もなく、十年来その地に降り立っていない。

街を見下ろす度に、懐かしさが込みあげてくる。しかし、当時から変わらぬものだけでなく、新たに生まれたものを見ても懐かしい気がするのは、我ながら不思議な感覚だ。

そういえば先日、父が興味深い話をしていた。父が高校時代によく利用していた駅が、最近大規模に改装されたという。外観こそ以前と変わらないものの、構内の動線には大幅な改善が加えられたようだ。これでは、父にとっては何の感慨もない。新しくなった駅を見たい気も、その地で昔年の記憶を辿りたい気も生まれない。小さな改札から入って、細く薄暗いコンコースを抜けていく改装前の風景こそが、その駅なのだ、と。

父にとっては、変わらない姿こそがその駅である。私にとっては、変わりゆく姿を含めてその街である。父の話は、別の場所に対して私が抱く思いとぴったりと重なる。一方で、仙台に対する感情はそれと少し異なるのだ。

車窓の山々に、私は思い出がない、と書いた。しかし、父はその駅周辺にいくつかの思い出があるようだ。ここに違いがあるとすれば、思い当たる節がある。思い出は具体的な場所と結びつく一方、思い入れとなると必ずしもそうではないかもしれない。その場の空気や風情、そして自分自身の感情が入り混じった、漠然とした印象に、私たちは思い入れを抱くのだと思う。現に、「仙台」と聞いて私の瞼の裏に浮かぶのは、伊達政宗像でも七夕飾りでもなく、見慣れた山であり、どこにあるかも分からない田畑の情景なのだ。

気づけば、仙台駅の新幹線の発車メロディも変わっていた。街の景観は、時とともに移ろう。人々が街に居付くとは限らない。しかし、人々の心に街は根付いていく。こうして誰もの胸の中で、風景でも匂いでも音でもなく、 “まち”の景色が生まれ、そこに思い入れが芽生えるのだろう。名前をつけようもない、この“まち”という印象を、私は「ふるさと」と呼びたい。

(文字数:1000字)

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

有効に使わせていただきます!