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3.11 コーラの幸福

元日の地震を受けて、改めて私が東日本大震災に遭った時の様子を思い起こした。ライフラインが止まり、飲料・食料が入手困難だったという記憶が、まず頭に浮かんできた。

私の家族が居住していた地区でも、避難所が開設された。それまでの災害教育で、物資は避難所に集まり、当該地区の住民に配布されると聞いていた。3月11日の夜に、私は父と二人で避難所に向かった。

冷静に考えれば分かることだが、当日の夜に救援物資は届かない。その日あったのは学校備蓄品のビスケットだった。それでも食料が得られたことは私たちにとって幸せなことだった。

しかし、翌日から、自宅で過ごす人には物資を一切配らない方針に変わった。私たちの地区は地盤が固く、家の損壊は殆どなかった(震災後に建て直しや取り壊しがなかったという結果からも分かる)。そのような状況下で、単に避難所にいるかどうかが、境界線となった。避難所に入る基準はなかったのに、である。

したがって、自宅に残って家の中の整理・清掃や、剥がれた壁の処置などをしている人は、飲食物への公的な補助を失ったと言ってよい。震災当時、私の家に残っていたのは、ビールとペットボトルのお茶の買い置きのみだった。お茶を私と妹に飲ませるため、両親はビールを朝から飲まざるを得なかった。

震災直後はお店も開いていない。徐々に減ってゆく食料に焦りを感じ始めた私と父は、改めて避難所に行き、この状況を訴えた。しかし、避難所の管理者は聞く耳を持たなかった。

「避難所だって、食べ物には困っているんです。今日の朝は、一人当たりビスケット5枚とバナナ半分だったんですよ」
「こっちはビスケット1枚食べるのがぎりぎりなんだよ!」

父の語気も強くなる。

「あれ、お父さん、お酒臭いですね。少し酔われてるんじゃないですか」

小馬鹿にするようなこの言葉には、父より先に私の方が言葉が出た。

「水やお茶を毎食飲める避難所とは違うんですよ。こっちは飲みたくてもわずかなお酒しかないんです」

その瞬間、避難所全体が、しーんとなった。

数日後、スーパーマーケットで、ようやく届き始めた商品の屋外販売が始まった。お茶はすぐに売り切れてしまって、ジュースが残っていく。私たちが購入できたのは、いつも決まって「ペプシ ネックス」だった。

普段コーラなど飲まない父が、震災後初めてネックスを飲んだ時、私が見たこともないような笑顔を浮かべた。私は涙をこらえきれなかった。

(文字数:1000字)


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