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主語の大きさと心の広さ

主語が大きい、という批判を、最近目にしたり耳にしたりする機会が多い気がする。個人的には、非常に窮屈な言論の場だと感じている。

「主語が大きい」と言われる例を挙げるとすれば、こんな文章だろうか。

総じて会社員というのは、就業時間に縛られて生活しているものだ。始業までにオフィスに到着し、昼食の時間を決められ、たとえ仕事が終わっても終業までは勝手に帰宅することはできない。こうして彼らは、ノマドワーカーへの憧れと嫉妬を抱きやすい。

「すべての~」と言っていなくても、「会社員が、必ずしも就業時間を固定されているわけではない」という批判を呼び、それを端的に「主語が大きい」と表現されるだろう。もしくは、「会社員がノマドワーカーに憧れや嫉妬を抱いているというデータは?」「自分は会社員だがノマドワーカーには何の感情もない」と指摘される。例外こそが正義なのだ。

上の例でいえば、書き手としては「総じて」と言っているのだから、あくまで大部分の会社員を指しただけであるし、3文目の「彼ら」は冒頭の「就業時間に縛られている会社員」を指しており、「抱きやすい」というのは傾向性を述べているだけだ、という反論が当然存在する。

これに対して、また批判が出てくる。「大部分の会社員」と言えるだけの数値データは存在するのか。「抱きやすい」という傾向を示す調査はあるのか。

実は、(内容は違えど)これと非常に似た様相の議論を、先日職場で目にした。最終的に、話し始めた人は、"論破"されてしまった。しかし、真の意味での「論破」だとは私には思えない。難癖をつけて、発言者を追い詰めてしまっただけだろう。当初は世間話程度の会話だったのに、最後は重い空気が漂っていた。

「一般的にこうだよね」といった世間話や日常会話での発言に論拠を求めるのは、筋違いだと思う。あくまで発言者の感覚であって、実際にどうであるかは重要ではない。その部分を見落として、反例を指摘し、定義を求めようとするのは、数学の証明問題の解きすぎか何かで、人間的な読解力や共感性が欠落してしまっているのではないかと思ってしまう。

少なくとも私は、人の話を聞く時には大らかな気持ちを失わないようにしたい。論理的正しさや政治的正しさといった、「正しさ」が溢れる現代において、「本当に正しい」ものなんて、見つけようがない。むしろ、少し間違っているぐらいが、気楽な会話にはちょうどいいと思うのだ。

(文字数:1000字)

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