見出し画像

能力を伸ばすのは、褒めるでも叱るでもなく、伸ばしてあげたい人から聞くこと、教えてもらうこと、見ることだと思う理由。

こんにちは、RENです。

今回は“人の能力の伸ばし方“についてです。
自分の経験と周りとで、どちらも使えることなのではないかなと思うので、良かったら最後まで読んでやってください。

人は、誰かの能力を伸ばす時、褒めるがいいか、叱るがいいかで物事を考えがちです。
だけど、私は“話させること“が一番手っ取り早いと思っています。

人は学んだら、人に教えたくなるものです。言葉というのは脳みそがどれくらい理解しているかと把握することが出来ます。

他人に言葉で説明をすると、自分が何を覚えていないか明白になる。その時は気付かなくても、無意識のうちに抜けていたことが分かる。

だからそれを聞き直してあげたり、一緒に調べることもできます。だから学び直しが出来ます。けれどこれは“発表“とか緊張する場所だとうまく出来ない。

なので、これを自分で自分が。親や身近な人が聞いてあげることがポイントだと思います。

この辺りは“聞く“や“教えてもらうこと“に該当します。

では次に、見ること。

人は見られていると思うと、普段より頑張る生き物です。
家の中で堕落した生活を送っていても、外に出ればある程度人目を気にします。
これはスタバでMacBookを立ち上げて意識しろって話じゃありません。(集中できる方はそれでOK)

これは私の経験ですが、以前とある有名な大学の主席の方とお付き合いしていました。彼は努力家であり、とても賢い人でした。地頭がいいのではなく、自分は勉強したから賢くなったのだと言いました。彼と話す内容は雑談ばかりでしたが、あの時の私にとっては間接的に師だったように思います。

彼は私が小説を書いているというと、それを読んでみたいと言いました。人に読んでもらうことなんて何年ぶりだろうということで、気合を入れて書き始めました。一章書くたびに感想をもらいました。“面白い“と言われたら、情熱が湧き上がり、どんどん書き進めました。

“これ、めちゃくちゃ面白いぞ。どこかに出してみろ“と言われました。
彼はお世辞を言えない人だったし、賢い人だったから、私は半信半疑で出版社にその作品を送ったのです。そして出版に至りました。

プロみたいに万部売れた訳でもないですが、実際のところそれで出版出来た経験があります。断ってしまったけれど、増版の話もありました。
彼が賢かったから勇気が出たというところもありますが、実際のところはお世辞ではない“読んだ結果めちゃくちゃ面白かった“が効いたのです。

そして、私は1人でいても何か気合いを入れたい時は、常に人に見られている意識をしています。これは自分の自己肯定感や自己評価の低さから来る一種の強迫観念を使って行ってきたことです。

そうすると大抵のことは綺麗に出来ます。勉強(勉強する姿ではなく、勉強内容を見てもらっているという意味です)も所作も、行いも。

誰に見せるわけではないけれど、意識する。常に誰かいることを意識する。私は1人が好きな人なので、誰かに見てもらうという環境がとても少なかったので。

たまに実況中継もつけます。そうすることでもっと客観的に、俯瞰的に、自分がやっている行いが自分にとって満足いくのか、そうではないのかが分かってきます。

さらにポイントだと思うことは、相手から学んだことを説明してもらって
「なるほどな〜、じゃあこれってどうなのかな?」と聞いてみたり
「その話、私はこう思う」と、一緒に学ぶ姿勢であったり
「でも実際はこんな情報聞いたことあるよ」と提案してみたり
様々なお話を“共に“作っていくことです。

不登校っていうと、勉強させなきゃって周りは思うんですけど、私は長年不登校をやっていたので分かるのが“勉強というより、とにかく何でも好きなことさせとけ“です。

不登校児って何かしら欠落していることが多いです。人とのコミュニケーションだったり、何かが出来なかったり、繊細だったり。だから人とはすでに“違う“ということが多い。そうじゃなくても、いじめなどで学校に行けない場合は、もうそれ自体が大きな壁です。例え大丈夫だと言われても、見えない透明の分厚い壁が学校に行くことを阻みます。

だから勉強したくないっていうなら、好きなこと没頭させとくと、あとで大体のことは使えます。(全く勉強をやらないよりは、何度かやらせてみても嫌だったらです。甘やかしすぎは絶対NG)

時間があれば一緒に勉強を楽しめたらいいんですけどね。
私の親は全く勉強を見てくれなかったので、一応そんな人向けにも。

没頭出来ることは知識がそれだけ増えるので、ある意味勉強になります。遊びでもいいです。楽器とか、音楽聞くとか、絵描くとか、ゲームしまくるとか。とにかくなんでも“没頭“
スマホゲーとか度々課金しなきゃいけないゲームに関しては“学校いかんとやらせない“って言っておけばOK。学校には行きたくないから大体の子はやらない。
親のクレカ盗んで勝手に課金とか、ご自身にも自分で叱った方がいい。自分のカードの管理もできない親が子どもを叱る権利ないです。

この時に、その物事でどんなことを学んだかどこまで出来たかまで聞けるといいです。いいじゃん!とか面白そうじゃん!とか加えると直良。
興味なくても一緒に興味持ってあげるといいです。

限度はありますけどね。子どもの没頭の仕方は大人では真似出来ないくらいのエネルギーがあります。その時にやっておくことってとても大事。

ぼーっと生きているより、何百倍も勉強になります。

現に私は不登校が長かったけれど、本を読むこと、絵を描くこと、ギターや音楽に触れること、TVを見ること、家事をすること、PCをいじりまくること。たまーに勉強したりして。すべてが今役に立ってます。

人って勉強だけが学びじゃない。興味もった時が大体の学び時。
お友達にスペイン人やポルトガル語を話す国の人がいたり、親戚にも外国の方がいたので、興味を持って英語じゃなくてポルトガル語を学びました。数ヶ月だったけれど、話すことはできたし、発音も驚かれるくらい流暢でした。これって周りにそういう人がいたからです。この時17歳くらいだったかな。
でもそういう方々と接する機会がなくなって、また喋れなくなりましたし、忘れました(笑)

そんな風に、学校通えない子って学び方が違うだけってこともある。学び方を変えたら、めちゃくちゃ伸びるってこともある。

人間って一方通行とか、誰かのノウハウでしか中々物事を見られないんですよ。
いろんな方法があるって知らない人が多い気がしています。

だから、私は学校に行かなくてよかったなと思うのは、自分自身で出来ないを出来るに変える方法を自分で編み出せたことです。だから不登校の子にだって出来ます。自分がやりやすいようにやるって一番やる気でることだから。

なので自分の能力を自分で引き出しやすくなる。私は今だに、わからないこと出てきたなーよっしゃ映画みよう。小説読んでみよ!とか日常茶飯事です。あ、やっぱり必要なことはこういうところにあるなーって思います。

要するに人間ってテキストやテンプレだけに縛られたら、何も解決できないんです。

親「私はできないからすごいなー」ってなんの効果にもなりません。そこに大人も子どもも関係ありません。

“出来るから・できないから“を指標にしたら、親を見下す子供も増える。人を見下す子供も増える。
出来るからすごいとか、出来ないからすごくないとかで、人を決めつけること自体が間違いです。得意なことがある。不得意なことがある。それはどんな人もそう。だからってできないをできないままとか、やらずにできないは良くない。

私は出来ないからってずっと引きこもり続けて自殺を考える人を見てきたから。自分にも出来ることはある。生きれる方法はある。自分にだって出来る仕事は存在している。それってトライアンドエラーの先にあって、やってみなきゃ自分で納得してみなきゃ、自信なんて付けられません。

自分でやって初めて“自信“ってつく。最初からつく自信なんて最初の成功を引きずっているか、親に甘やかされて自己評価を見失っているだけです。
人は進化していくので、最初に受け取った自信は酸化します。継続や試行錯誤がさらに人を自信へと繋げます。

子どもは親ができないから頑張ろうと思える子もいれば、親が出来ないから自分もやらないって子もいる。親が出来るから自分には無理だって決めつけちゃう人もいる。

そうじゃなくて、誰と比べるでもなく、個であることを知らなければいけない。
自分と周りは違うから“出来ない・出来る“という基準じゃない。

“自分はこうだから、どうすればできるようになるのか“ という自分の取り扱い説明書を作っていくべきなのです。

じゃあ褒める時はどういう時か

褒める時はその“過程“と“結果“を褒める。
“ここまでやれたことがすごい“とか“まだ続けてるの?すごいな“とか。
でも、やっぱりめちゃくちゃ褒めるってやっちゃダメです。
“天才だ“ とか本当に一番だめ。
なんでかって“上を目指すこと“をしなくなるから。

アインシュタインは自分のことを“天才ではない“と言います。天才ではないと思える人は、追求し続け、自分の能力を引き伸ばすことができる人です。

ここまでやれたからいいやーって思ったら、もうそれが終わりになる。本人が達成感を持って次にいくことはいいのだけど、周りが終わりを作ってはいけないと思っています。

できれば次の目標も一緒にやってみるのがいいんじゃないかな。私はそれなら頑張れる子だったので、ご参考までに。

じゃあ叱る時は?
叱るって大事です。でもこれも使い方を間違えると猛毒です。
叱るは、状況をしっかり説明すること。なんじゃないかなと思っています。
そこに虚偽があっては叱るは成立しない。

こぼしたら困ることは“お母さんが困るからやめて欲しい“と伝えました。でもこぼしても叱りはしません。ただ車の中でジュースを飲むときは約束しました。“どうしても飲みたいのなら飲んでもいいけどこぼさないように上手に飲むこと。溢れるとお母さんが掃除するのが大変だから。あなたが掃除するならいいよ。でも出来ないなら、お母さんが困る“

子どもはこの時上手に飲むことを必死にします。蓋をなるべく開けないように気をつけます。だから飲むのが上手になる。こぼれなくなる。

人は貪欲です。やりたいことはだめだと言われてもやる。だから約束をします。だめだった時は叱ることを事前に伝えます。

これは理不尽回避です。

理不尽なことで怒られると人は心を閉ざします。なんで怒られたのか分からないから、怒った方を責めるし、自分は悪くないと捻くれます。

こちらも理由を話すことが大事。話しておけば、その時は理解できなくても、大人になった時理由がわかって、理不尽の解消ができる。

なので、私の説法は長いです。長くてもいいと思っています。なぜこんなに必死に母は僕に話をするのだろう。でも一生懸命話してくれているなということは伝わるからです。人は自分に時間をかけない人を嫌います。

分からないのに、分かった気になっている。
そう思う時って大体蔑ろにされていると感じるから。

ただ過保護になるのは間違いです。

人は相手にしっかり向き合って欲しいと思う生き物だし、同時に向き合ってくれるなら自分も向き合うべきだと考え始める。それは少しずつだったとしてもです。

これは、私が母に“話しかけないで“と言われるようになってから、学んだことです。その時から私は“母を拒絶“し始めたからです。

“それでいいよ“は“本当はそれでよくない“
“好きにしていいよ”は“めんどくさい“

大体こんな感じで心を閉ざした後だと脳内変換されてしまうから、人は物事を諦めてしまう。

兄も私も不登校児でしたが、理由は別々だし、過ごし方も、立ち直り方も違う人間でした。母の接し方もどちらも違う。

加えていうなら、兄を改善させたのは母ではなく私です。とことん外に出る恐怖と付き合うことをしました。誰もいない深夜や朝方に一緒に散歩することから毎日始めました。そしたらいつの間にか彼は自分で動ける人になっていました。1人でも外に出て散歩を始めるようになっていたのです。

“同じように育てているのに“は、親の傲慢さです。
同じようには育てられていなかったし、別々の人間なのに比較され、貶される。

私たちは、個々である。10人10色だと言いつつ、特別学級と言われる知的障害のある人と、普通のクラスでしか分けることもなく、普通の中に入れられた人たちは皆同じようにしないとおかしいと言われる。

同じように勉強をし、同じ問題のテストを出し、ランクをつける。
一方通行の教え方なのにそれで“出来・不出来“を決める。

学校になんの意味があったのか、私は大人になっても分かりません。
社会を覚えるためと言われたら確かにそうでしたが、大人の世界の方がよっぽど個々であったし、楽でした。

私が学校で覚えたことと言えば、汚い大人がいることと、汚い同級生がいることです。それも大きな学びではあったけれど、学校だからというわけではない。

職場だろうとコミュニティという場所ではよくある。
学校で社会を学んでも、社会に馴染めない普通のクラスにいた人たちがいる。

そして学校ではいい環境で育った子どもは大人になってからの方が心が折れやすくなる。どっちかいいのか私には分かりません。

よっぽど若いうちから働いた方が人間性が上がるし、体力がつくし、社会がわかるし、お金の大事さも学べると思います。勉強なんて後からしたらいいんじゃないかって私は思ってしまいます。

昔みたいに寺子屋で勉強しつつ、働きにも出ていた子どもたちの方がよっぽど聡明だったと思うし、精神的にも強かったように思います。

私はずっと働きたかったです。自由もない。生活の仕方も分からない子供は不自由すぎる。大人になってからいきなり社会に慣れろと言われるのだから、学校で学んだことの意味なんてないような気すらする。

部活をするよりコンビニバイトをした方がよっぽど有意義だ。

そんな子育て論はさておき、私が“本当に学校行ってなかったのか?“と周りから言われる能力の伸ばし方はこんな感じです。

水商売では社長や政治家やお坊さんなど、様々なお仕事をしている人と話しましたが“お前は聡明だ“と褒めていただくことが多かったです。
初対面では“ただのお小遣い稼ぎにきた若い娘“だと言われることもあったけど、話せばほとんどの方は私を“立派だ“と褒めてくれました。
そして普通の会社勤めをしてからも、会長や社長に能力を買ってもらい、いろんなお仕事を任せられ、東大や京大ではありませんが、そこそこ有名な大学卒の同級生の給与よりもらってました。

それは私が、自分ととことん見つめ合い、自分攻略本を作っていったからなんじゃないかなと思います。褒めて伸ばすんじゃなくて、自分を良く知って伸ばすです。否定もしない肯定もしない。それでもいいじゃないですか。なんで叱るとか褒めるとか、出来るとか出来ないとか、極端な結論や方法ばかりなんでしょう。

私が優れていることなんて、自分の攻略本を作ることくらいだったと思います。だけどそれが結果として良かった。私は人と違うから違う方法で生きる。学ぶ。は最大の私の武器です。

REN

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?