親父

今日は少し、父のことを書こうと思う。

私は父が四十五の時に生まれたひとり娘で、物心がついたときには父は五十路、子煩悩で家庭的で爽やかな令和の理想のお父さん像からはかけ離れた、ギラついた破天荒な「昭和のオヤジ」だった。基本家にいなかった父との幼い頃の思い出と言えば、年に一度の家族旅行でプールに放り投げられたり、まだ2歳なのに3歳と嘘をついて遊園地のジェットコースターに乗せられたり、父に抱き抱えられながら馬に乗って疾走されたり、全部父の「遊び」に巻き込まれた記憶ばかり。それは「楽しかった!」という記憶として残っていたけれど、親になってみると、子育てってそれ以外の途方もなく地味な作業の繰り返しで、それを全て母に放り投げて外をほっつき歩き、たまに遊んでやってクレジットをゲットする父に、母の腑が煮え繰り返ったことは想像に容易い。

父は大層喧嘩っ早く、すぐに揉め事を起こしては色々なところを「出禁」になった。何度、いい加減にしてくれと思ったことか。でも不思議なことに、私は父がキレるツボが途中から全てわかるようになった。一緒にいるときは、「あ、やばい」と思うと私が間に入る。そうすると父の剣幕はいつもスッとおさまった。

「宵越しの金は持たない」なんて言うと、気前が良く豪快なカッコいい男像をイメージされそうだが、父はこれを地で行っていて、こちらが唖然とするようなことに自分のお金を使ってしまう人だった。母が(娘の私が言うのもナンだが)なかなかやり手のビジネスウーマンでなければ、我が家はどうなっていたかわかったもんじゃない。

生活習慣はめちゃくちゃだった。コレステロールだらけの食生活、昼夜逆転で夜中までスナックで歌い、煙草は一日4箱。唯一酒だけは下戸だったのが可愛げのあるところだが、シラフで喧嘩するんだから、よっぽどそっちの方がタチ悪い。車が俺の脚だと言って、歩いて10分のところへも車で行った。車の中はどこの喫煙ルームより煙草臭かった。

父は、笑ってしまうほど単純で、誰に対してもフェアだった。困っている人がいれば腕まくりをして助けに行き、褒められれば子供のように喜んだ。

女にはやたらモテた(らしい)。キザで、口がうまく、心がずっと少年のように純粋で、無茶苦茶なところも昭和の女心をくすぐったのかもしれない。(私はそういうのお断りだけど。笑)

私のことが、本当に可愛かったようだった。

育児なんか全くしなかったし、私がどんな習い事をしてるか、受験はどこを受けるのか、お友達は誰で、将来の夢は何で、何に最近悩んでいるのか、そんなこと何にも知らなかったくせに、私のことは、一貫して肯定し続けた。おまえは大丈夫だ。ただこれだけ。根拠なんてない、強いて言うなら「俺の子だから。」
私がつまずき、涙を見せるたびに、「おまえは大丈夫だ。」そう言った。一度として、失敗した私を責めなかった。

そんな父が、年明け、他界した。

来週帰国予定だった私たちに会うのを、父の血を引く唯一の男の子である、昨年ニューヨークでうまれた長男を抱くのを、とても楽しみにしていた、その矢先の肺炎による急逝だった。

晩年の父は、病気で足と喉を悪くし、歩くのも話すのも大変そうだったけれど、かすれた声でみんなに「ありがとう、ありがとう」と言いながら、精力的に外に出て、動いて、笑っていた。
私の結婚式では、ゆっくりと、でもしっかりとヴァージンロードを一緒に歩き切ってくれた。初孫となる長女も、すっかり細くなった腕でしっかりと抱いてくれた。半年前には、ニューヨークの我が家にまで遊びにきて、実の息子のように可愛がっていた我が夫の手料理に舌鼓を打っていた。八十を過ぎて、車椅子でやってきて、笑っちゃうくらい、気丈だった。

貴方は本当に破天荒で、まわりにたくさん迷惑をかけて、父親らしいことはほとんどせず、好き勝手に生きてきたね。
それでも、私は貴方が逝って、すごく、すごく、寂しい。
私を、これ以上ないほど強く、無条件に愛し、信じてくれた、「おまえを守るためなら俺は何でもやるからな」なんて言えてしまう、キザな親父が、私のボディガードが、いなくなってしまった。

「おまえは大丈夫だ」って、もう一回言って欲しい。キャラ違いの、絵文字だらけのLINEを、もう一回送ってほしい。


あれだけ好き勝手に生きたんだから、これからはしっかり、母と私たちを守る最強の守護霊になってもらわないと困るから。「安らかに眠ってね」なんて言わないから。小さい孫たち二人もいてここから大忙しだから、覚悟してね、と脅かしながら、父を見送った。
「おまえは調子が良いな。」そう言ってニヤッと笑う父が目に浮かぶようだった。

現世で家族に尽くさないと、あの世では休ませてもらえない、その良い例ですので、皆さん良いパパしましょうね。笑


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