薄ら笑いのテキトー育児

日本に住む母には、娘の成長を動画や写真を送ったりテレビ電話で話したりしながら共有するようにしている。私は小さい時からどっぷり母っ子で、今でも彼女への感謝や尊敬の気持ちはかなり大きい。ただ、自分が母親になってみると、母が姑じゃなくて本当に良かった、と思う。(笑)強い信念をもって子育てに向き合ってきた母だからこその、「べき」論は、なかなかに令和の母親には受け入れがたいときもあり、「子供が小さいのに母親が遊びに行くなんて!」「あら、レストランで泣くの?貴女はそんなことしなかったわよ(≒私はそういう風に育てなかったわよ。)」なーんてことを言われた日には「はいはいそうですかー」と静かに電話を切って深呼吸をひとつする。

子供を何人持ちたいか、持てるか、そこは色んな考え方と状況による制約とがあるが、私は漠然と可能なら2-3人欲しいと思ってきた。私自身が一人っ子として育ってきたので、今の自分が、持って生まれた資質に基づき存在しているのか、はたまた母の信念に基づく教育の産物として出来上がっているのか、正直よくわからない。前者だと何だか拍子抜けだし、後者だと子育てする上でのプレッシャーが半端ない。二人以上産み育ててみて、実体験として「まあ半々だね。」的なところに落ち着くのを期待している。(笑)

先日母に、私もたまには娘に腹が立って怒るときもあるよと言ったとき、「そんなちっちゃい子に怒っちゃダメよ。怒ったらあなたみたいには育たないわよ。」と言われた。怒ったら子供が委縮してしまって良くないというのだ。もちろん一理ある。でも、(私みたいに育つのが正解なのか、という疑問はおいておいて、)怒ろうが怒るまいが、娘は私みたいには育たないよ、と思った。母には見えていないのだ。我が娘の図太さが。私の「怒る」なんて彼女はへとも思っていない。「いい加減にしなさい!」と言われてヘラヘラと笑って抱き着いてくるような娘だ。しまいにはチューしてごまかそうとするあざとさまで既に身に着けている。(このあたりは夫のコピーだ。)怒られたらショックで押し黙ってしまう繊細な幼き頃の私とは違うのよ!

自分はすごく幸福感の高い人生を歩んで来ているという自覚がある私は、子供を産む前は、子育ては母を真似ればそれで大丈夫だと思っていた。そうすれば子供も少なくとも幸福感の高い人生を生きられるに違いない、と。実際にやってみるとまず母のやってきたことを全て真似るのはかなりハードルが高い&時代錯誤であることに気づく。2-3歳ごろまではひとさまにご迷惑だからと旅行にも一切行かずほぼ家の中で過ごし、かぼちゃもジャガイモも手作業で裏ごしして昆布出汁とって毎日煮物だなんだと作って食べさせ、おもちゃは祖母の手縫いのお手玉、2歳になる前にトイトレを完了し、ベビーカーは早々に卒業、3歳で電車を乗り継いて1時間弱のところにある名門私立幼稚園に入れ、朝夕車も使わず手をつないで登園・降園。なんという優等生。考えただけで気が遠くなる。
かたや我が家の1歳児は生後3カ月でカリフォルニア、4か月で日本遠征、10か月でバハマの強烈な日差しのもとプールデビュー、13ヶ月でマイアミにてついに浮き輪もなくプールに頭まで突っ込まれ、ゲラゲラと笑っていた。生後6か月から通うデイケアではクラスのbossだそうで、ピザやふかしたトウモロコシをそのままガシガシかじりながら歩き回る娘の動画に、日本にいる母はいつも絶句している。持って生まれた資質なのか、結局母のそれとは似ても似つかないところに行きついた我々夫婦の育て方によるのかは知らないが、この1年で既に私とは全く違う人物が出来上がっているのだ。別の人間に対して盲目的に同じメソッドを適用しても意味がない。「母のやり方」というところからはいったん離れて、娘をよく観察するのが何より大事だと考え直した。

「自分の理想を押し付けない」というのは子育てにおいて永遠に意識し続けなければいけないことだろうと思う。本音を言えば既に私にだって押し付けたい理想がざっと両手分くらいはある。哺乳瓶を投げるな、食べたものを口から出すな、お外にご飯を食べに行く時は静かにお行儀よく座ってて欲しいのよ。ママとパパとぺぱおを笑顔でばちばち叩くのやめてくれ、怒られたらちょっとくらいは反省の色を見せんかい、好き嫌いがないのはいいが1日中永遠に食べ続けてデイケアの先生にまで苦笑いされるのどうにならんかな。(そのまま行くとパパ体型まっしぐらだよ〜)、自立していると言えば聞こえはいいがその頑固で一歩も譲らない表情には末恐ろしさを感じるよ。そしてなんならそろそろもういくつか言葉が出てくると嬉しいな、とか、積み木をぶん投げるんじゃなくて本を読んでくれないかしら、とか、要求を足そうと思えばいくらでも積み上げられる。
こういう理想は全部、静かに横に置いておくしかない。素人が座禅を組んで煩悩を取り払った気になるときに似ている。捨て切れてはいないのだ。でも振りかざさない。置いておくの。そうやって「変な生き物だな....」と適当に眺めていると、思いがけず目を見張るような成長や悶絶する可愛さを見せてくるからまたにくい。

母が常に近くにいたら細かい苦言を呈されることも多いのだろう。でも、日本とニューヨークという距離感だと、意外と母はこう言う。「あんたは良い子育てをしてる。あの子の表情を見ればわかる。あんたなら、大丈夫。」
何を根拠に言っているかはわからない。でも、これなんだ。母のやり方の一番大切な部分。娘の、絶対的な、最大の味方。心細いとき、自信を失ったとき、力強く背後に立ってくれる安心感。ここだけは、私も徹底して真似していこうと思うのだ。

そろそろ我が家にはもう一人の変な生き物がやって来る。そっと横に置いてある私の理想はきっとまた裏切られ、白目を剥きながら、成長に目を見張り可愛さに悶絶する、そんな散らかった毎日が待っているのだろう。そしてきっとわからせてくれるのだろう。親と子は別の人間で、一緒にいられる時間は限られている。変に依存してもいけないし、させてもいけない。warm heart cool headで、薄ら笑いで観察だ。

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