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自分らしさという欲求不満。

「自分らしさ」とは何か?

そんな漠然とした想いをきっかけに、
「自分探し」という名の
「自分磨きや」「意識高い系」
としたものへの執着と化し始めるのです。

次第に
それは、自己完成を求めるためのものではなく、
より欠乏感を生み出す原因になっているということに気づかず、
肯定することではなく
否定することで満たされる自己形成。

デカルトの名言さえも、
クソ喰らえとばかりにシャウトする。

おとなという肩書きは、
他者との比較で生まれた
自己確立。

他社を否定し拒絶することで
薄まる劣等感。

我思う故に我ありは、 
いつしか、
我思わぬ故に我なしと
カタチを変えたのか?


世の中の全てのものの存在も疑わない代わりに
疑っている自分自身もいないわけだから
そもそも自分なんて存在していないことと同じ。

そもそも
自分なんていないのだから・・・。

と開き直るか
悟るかできたらいいが、

そうではないから厄介なのだ。

自分で自分は認めないが、
他人は自分を認めろよとばかりに
承認欲求モンスターが暴れ出す。

だから、
欠落しているという
思い込みによる衝動は、
自分ではない「何か」
手に入れることで埋められると
勘違いしてしまう。

愛?お金?美貌?若さ?

全て手に入れることができたとしても

わたしたちはいつも欠乏の中からでしか、
自分を認めることができず、
理想の自分が本来の自分だと誤解するよう
自分勝手に思い込む。


シェル・シルヴァスタンの「ぼくを探しに」での
解釈は、年代や環境や状況によって異ると
思うが、共通して言えることは、

完璧な自分や完璧なパートナー、
完璧な生活や完璧なスタイル
完璧な何かを求めることが

手段ではなく
目的になってしまっているということ。

「完璧な何かが手に入りさえすれば・・・本来の私になれる・・・。」と。

しかし、

その「何か」を手にしても続く欠落の原因は、

「何か」は「何か」を求めるよりも前に
もうすでに手の中にあったということを気づかず、
いや気づかないフリをそして、
その手で握りつぶしてきたから仕方がない。

なぜなら、欠落こそが、
自己表現になってしまったせいなんだもの。

でも、
もうそんなことをする必要もない。

だって、

完璧で嘘つきな君は
天才的なアイドル様w

いつかきっと全部手に入れる。

いや、
全部手に入れていたことに気づく。

その日を
その時を
一緒に迎えたい。

わたしたちは

誰もが完全無敵なアイドル様だから。

1日も早く
自分らしさという呪縛から解脱できる日を
迎えて欲しい。

その為の
サバイバル記だと思って
これからお付き合い頂きたい。

そしてあなたの人生の灯火として
ハートを熱くする日も
涙する日も共にしたいと
願っています。

どうぞnoteのアイミカもご贔屓に♡





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