「翔べ! 鉄平」  22

  第二海兵師団の上陸用舟艇の内部は重油の匂いで充満し頭を重くしていた。

「マクレガー、除隊したらどうする?」

 古参らしい焼けた顔のオコナーが、隣で硬い表情をしているまだ若いマクレガーにニヤニヤ笑いながら聞いた。

「結婚する。フィアンセがいるンだ。田舎で待っている」

 マクレガーは結婚の話を持ち出しても、表情は硬かった。

「じゃ、死ぬなよ。なにせ、日本人は死んでも戦うそうだ。やつら、弾薬もないのに戦う。突っ込んでくる。地面に穴掘って、ミミズみたいにニョキニョキ出てくる」

 オコナ―は銃を肩に担ぎ上げ、両手で指をくねらせてミミズのように見せた。

「お前は?」

「俺は、ガダルカナルも生き抜いたンだ。もったいないぜ。ネズミみたいだって言われようが、生き残る」

「違う。除隊したらどうする? って」

 マクレガーは夢を聞きたかった。

「フン! 生きていたら、その時考える。こんな戦争、早く終わらせようぜ」

ーー早く戦争を終わらせなければ……

その時艦砲射撃が始まり、エンジン音と混ざって会話が途切れた。

     *

 1944年、昭和19年6月15日、夜明け前。小隊は命令に従って崖の上の守備についていた。
 伸びた草の中に身を隠すように全員が伏せていた。敵のアメリカ軍はまだ水平線の向こうに隠れている。それでも龍宮は声を潜め藍色の海を見つめながら呟くように言った。

「敵はこの崖の下の白浜に上陸してくる。一気に数を押して押し寄せてくる」

「はい」

 龍宮の両隣の熊沢と鉄平が答え、さらに隣へと伝える。

「白浜はここから南に伸びている。このすぐ下にも上陸し、500メートル南の崖の切れ目を目指して走り出すだろう」

「はい」

「我らは、ここから、やつらの白浜に降下して、その側面に切り込む」

 鉄平が返事をする前に龍宮を見ると、その顔がはっきりと見えるようになっていた。1001は登る太陽を右背後に背負った。

「まるで、義経の逆落としですね」

 龍宮から熊沢、鉄平、そしてその両隣へと武者震いが伝わった。

――怖い!

 恐怖をごまかすモルヒネも、他の部隊に徴収されて尽きていた。

 誰もが感じていた。その言葉を口にした瞬間から自分を見失うことを知っていた。怖いと感じている自分自身を顧みようとせず、忘れ去った。

 海は藍色から深い青に変わり、空は明るい水色へと変わる。アメリカ軍はまだ現れない。その待つ一分一秒がそれまで生きてきた時間に相当するほど長く感じる。

――命が惜しい。

 神社で手を合わせる狂人たちが自分の流す涙に感動して、命を謳歌している。

――悔しい。

 流され続け、抵抗することのできなかった自分が悔しい。

――悲しい。

 国に残っている家族や恋人を思い出すと、消えてしまう自分が悔しい。それを口にすれば、どうにもならない自分が情けなく、悔しく、気持ちが震えて爆発しそうになる。

 そして左右正面を見ると、仲間がいることに安心する。

 高い崖の上で鉄平は伏せた体を回して空を見上げた。蒼い空が深く何処までも続いて目を晦ませる。

「空が輝いている」

 鉄平が呟くと隣にいた龍宮も体を回転させて空を見た。

「ああ、透き通っている」

 熊沢も空を見た。

「何処までも、何処までも、蒼いな」

 犬飼も仰向けになった。

「空が清んでいる」

「風が見えるのォ」

「風が笑っている」

「ハハハ、笑われておる。俺たち、馬鹿だからな」

「風が呼んでいる。もっと馬鹿になりたい」

「風になるンだ」

 龍宮はまたうつ伏せになって双眼鏡を覗いた。小隊全員も再びうつ伏せになった。

「来たな。行くぞ」

 オオョ!

 西の水平線から黒い船影が幾つも迫ってくる。

「ぎりぎりまで、引き付けるぞ」

 小隊は静かになり息を殺した。

 今目の前にある海も空も、小さい頃、茶屋から眺めた海や空と同じに、輝いて見えた。あの頃は何も怖くなかった。高いイチョウの木の枝から飛び降りるのも怖くなかった。

――風子はどうしているだろう。

 最後に会った風子の姿より、イチョウの木の上にいる、自分を見上げている風子の姿が目に浮かんだ。啓二が図鑑でムササビのことを説明している姿がよみがえってきた。
 小さい頃追いかけていた両親や兄弟の姿が見えた。

 左右にいる今の仲間たちの顔を見てみた。目を閉じている者、海を見ている者、草をちぎっている者……どんなに足掻いても、逃げることはできなくなってしまった諦めだった。

 攻撃機が空でうなり始めた。機銃の音を立てて飛び去ると、小隊の右手遠くから砲弾が地面で炸裂する音が始まった。上陸用のボートが波のように押し寄せる。日本軍は敵をひきつけてから砲撃を開始した。ボートが浜に乗り上げ、ハッチが開き、アメリカ兵たちが時の声を上げて浜を走り散開する。銃声が聞こえ、砲弾の炸裂音に混ざる。崖の下の砂浜をアメリカ兵たちが走る。

 5、4、3、2、1、ゴォ!

 彼ら1001は崖を蹴って空に躍り出た! 

 部隊は風に乗って、空に吸い込まれ、蒼穹に溶けて風になった。

     *

 上陸用舟艇のハッチを飛び出した時、マクレガーは足を滑らせ海に落ちた。波に揉まれて濁った海水から上半身を突き出すと青い空が見えた。
 オコナ―に腕を引っ張られて、ずぶ濡れの重い戦闘服を引きずりながら陸地を目指すと、砂地は足を取られて走りにくい。銃が重い。背嚢が重い。艦砲射撃の砲弾が炸裂する音を聞きながら息を切らせて走った。とうとう体力の限界から膝をついて顎を上げると、目指す崖が迫っていることに気が付く。

 崖を見上げたマクレガーは声にならない声で叫んだ。

「空からだ!」

 蒼い空を背負って迫って来る日本兵たちを見つけた! 銃で狙いを着けようとすると

「こっちだ! こっちに隠れろ!」

 オコナ―がマクレガーの肩を掴み、海岸の崖下の岩陰に引きずり込んだ。

 ブッ!ブッ!ブッ!

 傍で銃弾が砂にめり込んだ。

 オコナーの体に覆い被さられ仰向けに倒れ込んだマクレガーが目を開けると、涙を通して青い透き通る空が、滲み震えて見えた。


 6月19日から翌日にかけては、空母を含む日本海軍機動部隊とアメリカ海軍空母機動部隊がマリアナ諸島沖にて会戦し、日本は大敗を喫した。そしてサイパン島が陥落すると、アメリカはそこを拠点にB-29による本土爆撃を開始したのだった。


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