「翔べ! 鉄平」  7

 兵舎前に一般服に身を包んで集合した小隊と研究班は、軍用ではない一般のバスに乗せられ基地を出た。極秘の訓練のための配慮である。
 バスに揺られながら町の様子を眺めると、人々はどこかに向かってあくせくと流れていくように見える。

 第一〇〇一実験が開始されるとほぼ同時期に、中国大陸で抗日戦線を展開している蒋介石へのアメリカとイギリスの支援を遮断するため、日本はフランス領北インドシナへ進駐し、米英の反発をさらに強めてしまっていた。
 近衛内閣はアメリカと交渉を進めるが一向に進展せず、さらに南インドシナへと進駐する。米英はさらに日本やドイツに対して海外の資産凍結や対日原油輸出禁止などの経済制裁を加える。

 社会不安を高揚された国威で誤魔化し、人々は足並みをそろえて戦争へと歩む。しかし龍宮少尉の髭のように、その不安を隠し切ることは出来ない。

 鉄平はそんな巷の様子を久しぶりに見て、落下傘に夢中になっていた自分が現実に引き戻されたように感じた。

 その日、読売遊園は閉園であった。バスが園内に入ると急に静かになり、街の雑踏から抜けたことで軍隊にいる自分たちを意識する。小隊はバスから降りると周囲の高い遊具を見回した。そして整列の号令が掛かった。彼らは私服であったが、号令に無意識に反応してしまう。

「諸君! 今日は特別訓練の日である! 存分に楽しんでいってくれ!」

 訓示を垂れる龍宮少尉の目は釣りあがり、その上の眉毛と鼻の下の髭が微かに震えていた。そして少尉が左上を見上げると、小隊も同じ方向を見上げた。

 高さ五十メートルほどの鉄塔が大空に向かって突き上げている。

 その鉄を組み上げた塔の横に梯子が先端まで延び、鉄塔の先端は数人が乗れるほどの台になっている。そしてその台のさらに二メートルほど上から、斜めに太いワイヤーが張り出され、ワイヤーの行き着く先は地上の広い砂場に続いているのである。

「フォホホホ、この塔の高さは五十メートル。この高さは人間が一番恐怖を感じる高さなのじゃ」

 横から藤倉博士が説明する。

「あのワイヤーを滑り降りる時は、落下速度は遅くなっておる。そして横から風が吹いてくることを想定して、大地に斜めに到着するのじゃ」

 博士が説明し終わると同行してきた飛行士の猪俣いのまた真治しんじ少尉が進み出てきた。彼もまたまだ童顔の残る任官間もない少尉であることがありありとわかる。

「では皆さん、これを装着してください」

 そう言って細長い麻の帯紐を小隊の全員に渡し、巻き方を説明した。

「まず、両端を結び、輪を作ります」

 すると両手いっぱいに伸ばしたほどの長さの輪ができた。

「そして輪の両端を持ち、背中に回します。右側は輪の状態にして肩に通し、胸の前に持ってきます。左は二重のまま脇の下から通してください。
 そして胸の前で、左の輪を右の輪に潜らせて、左の輪が五十センチほど余るように、二つの輪を確りと結びます。
 余った先にさらに小さな輪ができるので、そこにこの小さい輪になった金具を着けてください。そして最後に鉄帽を確りと締めてください」

 猪俣少尉は金具を装着するとそれを右手に高く掲げて見せる。

「それでは、三名ずつ、付いて来てください」

 少尉はそそくさと梯子を上りだした。

「熊、犬、烏! お前らからだ」

 龍宮少尉の命令で三人は列から抜け、俯き加減で梯子に向かう。そして四人は十分ほどで梯子を登り終えると鉄塔の上から下を眺めた。
 猪俣少尉は高いところは慣れているので爽快な顔で風を満喫しているが、三人は飛び込み台を囲む柵に捕まったまま動きがぎこちない。鉄塔が風に揺れるのである。熊沢が猪俣を見上げた。

「少尉殿。少尉殿も飛び降りるのですか」

 熊沢は一人でも多くの同胞を集めたく、なにか安心感を覚えさせてくれるような言葉を期待して問いかけた。

「いいえ、私はここで安全具の装着を確認するだけです」

 三人は俯いた。俯くと小隊が小さな姿で見上げていて、ますます不安になる。

「では、金具を」

 猪俣少尉が促すと、三人は互いに顔を見合わせる。犬飼が柵につかまりながらそっと近寄り、金具を差し出した。

「少尉殿は、梯子で降りるンですね」

「私は、パイロットとして、館山海軍航空隊から来ております。ですから飛行機に乗って着陸しなければならないのです……装着完了! いつでもどうぞ」

 熊沢はその少尉の顔に微かな笑いを見て取った。犬飼は息を呑んだ。鉄平と熊沢はじっと動かずに犬飼の背中を見守る。猪俣少尉は清々しい顔をしている。

 ウ! ウ! 

 犬飼が腰を引きながらも唸り始めた。

 ウォォォォ!

 犬飼は手首に巻いた帯紐の余りを掴んで足踏みしながら唸る。

「犬飼さん」

 鉄平が声を掛けた瞬間、犬飼は練兵場で台から飛び降りたときのように左足を前に出して踏み出した。

 ウォォ……アァァァ

 犬飼は風に包まれた。鉄輪がワイヤーを滑る細かい響きが弾け飛ぶ。彼の唸り声が小さくなり下に消えていく。そして数秒後、微かに鈍いうめき声が帰って来た。

「……ゥ」

     *

 地上では犬飼が飛び出した瞬間、全員が息を呑んだ。そして視線は犬飼の落ちる姿を追いかける。
 犬飼の両足が砂に着くと、膝から崩れ、進行方向に飛び出し、尻を着き、丸まった背から肩で転がり、回転した両足を再び砂場に着きうつ伏せた。彼が呻き声を挙げて倒れこむと静けさだけが残った。

 犬飼は砂の上に両手両膝と額を着けて、お尻を上に突き上げながら、小さな声をさらに殺して言った。

「少尉殿……」

「五体投地……」

 龍宮少尉は四つん這いになる犬飼を見て額に皺を寄せて呟いた。

「少尉殿、自分は生きております」

 犬飼は砂の上に膝間づいて自分の体を確かめた。安心感が沸いて来ると、滑り降りている時の風に包まれていた心地よさを思い返す。
 そして彼を取り囲む小隊のみんなを見上げると笑顔を見せた。

 オォ!

 小隊だけでなく全ての研究員たちから歓声が沸き起こった。そして塔の上で小さく見下ろす三人を見上げる。

 熊沢が続き、鉄平が続く。そして梯子に小隊員が続く。滑空時の風の爽快さが彼らの顔つきを変えていく。
 五十メートルと言う高さで見下ろす時の恐怖感から、意を決して地上に向けて踏み出した時の開放感との落差が心を真空にし、喜びが木霊する。

 基地に帰った小隊はところどころ体に痛みを感じて、軽くビッコを引く者、肩をさする者、額や頬に擦り傷を負ったものなどが並んで食堂に向かう。しかし、今までの訓練の中で一番の恐怖を克服した自信感から、全員が笑顔を浮かべていた。

 周囲は彼らが何をやっているのかわからず、体を痛めながらも笑っていることが不思議でならなかった。鉄帽はますます凹みが増えていた。

ーーやつら、頭を打っているンだ。とうとう狂ったかな。

 そう思う周囲の者たちは声も掛けずに遠巻きで見守る。小隊は食堂の隅でひそひそと話をする。

「早く飛んでみてぇな」

 鉄平が言うと、

「しかし七〇〇メートルだぞ」

 と犬飼が口を尖らせて言った。

「龍宮少尉も、最初は及び腰を隠していたが、だんだん本音を出し始めている。俺たちは藤倉博士の言葉を信じよう」

 熊沢が低い声で冷静に言うと、

 オオョ!

 と突然小隊が叫んだ。

 その日の鉄塔からの滑空で着地の感触を得た一〇〇一の隊員の士気は高まりだした。
 戦術の搦め手になるとか、戦闘でどれだけ効果をあげられるかということよりも、その日風に包まれた彼らの心の中では、空を飛びたい、空を飛べるかもしれないという夢が芽生えはじめたのである。
 単なる夢としか思えなかったことが次第に実現し始めていたのである。小隊はさらに降下訓練に没頭していった。

                      つづく

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