「翔べ! 鉄平」  2

 鉄平は尋常小学校を卒業すると、海に近い隣町の自転車屋に住み込みで奉公に出ることになった。豆腐屋を営む父親の伝で働かせてもらうことになったのだが、店に来て初めの数日間は店に出してはもらえず、自転車に乗る練習をさせられた。それまで実家の豆腐売りの自転車には乗せてもらえず、練習さえしていなかった。ところが自転車屋で働くというのに自転車に乗れないのではどうしようもないということで、店の旦那から自転車に乗れるようになれと言われたのである。

 使い古しの店の自転車を宛がわれて練習をするが、初めは何度も転んだ。バランスを取ってペダルを踏み込んでも動き出す前に転ぶ。額に肘に膝に、擦り傷が絶えない。とうとう初めから動くように坂の上から踏み出すと、ペダルを漕がないのに自転車はゆらゆらと進み、とうとう風を切るほどに早くなる。その風に吹かれると、気持ちがいいことに気が付き、気が付くと林の中で転んでいた。

 ところがそれ以来不思議と自転車に乗れるようになった。乗れるようになると乗れなかったことが不思議でならない。

ーーみんな、初めっから飛べないって諦めているンだ。飛べるようになったら、飛べないのが不思議に思えるだろう。

 とまた勝手な理論を打ち立てた。

 自転車に乗れるようになると、海岸通りを思いっきり漕いで風に呑まれてみる。突然両手を離して両脇に腕を伸ばすと、掌を開いて風を切ってみる。水平に開いた掌を少し傾けると、腕が持ち上げられて、そのまま上に引っ張られて体も舞い上がる気がした。

 鉄平が店に出るようになっても、初めはパンク修理さえやらせてもらえなかった。毎日毎日旦那の横に座り、
「それとって」
と言われて道具を渡すだけで、それ以外は女将の使いに走ることばかりであった。

 自転車屋の仕事の多くはパンク修理であったが、半年経ったころ初めて鉄平が修理をすると、数日でタイヤの空気が抜けると客から苦情が来た。すると旦那が謝り無料で修理をする。一人前に自転車の修理をさせてもらえるようになるまでに一年掛かった。
 自転車の車体の錆びを磨いて落とし、チェーンやスポークなどは交換する。その交換した古いスポークが店の隅に溜まる。鉄平は次第に溜まっていくスポークが、なぜかこうもり傘の骨に似ていると思った。

 ある日、強風を伴う雨が降った。鉄平が駅前を歩いていると、突然強い風が吹き、目の前の紳士が指していたこうもり傘が上に引っ張られ、そして飛ばされてしまったのである。傘は空中で数回翻ると、地面に落ちて転がり、そしてまた浮き上がった。鉄平は傘に逃げられた紳士より、その飛んでいる傘に目を見張った。それを見るとあの馬鹿な夢が擡げて来る。

ーー石川五右衛門は凧に乗って空を飛んだ。もしかしたらこうもり傘でも飛べるかもしれない。

 そして旦那が捨てようとするスポークを貰いうけ部屋の押入れに溜め込むようになったのである。そしていつの間にか傘の直しも受けるようになっていた。

 鉄平の兄、長男の金平は豆腐屋を継ぐために家に残って働いていた。そして時々鉄平のもとにやってきては自転車の修理を頼みに来る。ある日金平が自転車を引いてやってきた。
「鉄平、また頼むよ」
 旦那は鉄平の隣で別の自転車を黙々と修理をする。その横で鉄平は金平の自転車を受け取り、修理を始めるが、その時は金平が何か話があるようなそぶりに見え気になった。鉄平が金平を見上げると、金平は店の外の通りを眺めながらそっと言った。
「銀平が兵隊に行く」
「銀平兄さんが?」
 それまで金平は長男で店を継ぐという理由から内地での兵役に就いたことはあったが、銀平の場合は多分満州へ行かされるのではないかと言うことであった。鉄平はそれまで兵役のことはまだまだ先だと考えていたが、一つ上の兄が行くとなると、戦争を身近に意識し始めた。
「あ、そう言えば、お前の同級生の亀田……」
「啓二か?」
「ああ、江田島に受かったそうだ」
 江田島とは海軍兵学校のことである。啓二は横須賀中から海軍兵学校へ進学したのである。鉄平は黙っていた。すると旦那が作業の手を休めて金平を見上げた。 「はぁ、亀田様の坊ちゃん、たいしたもンだ」
 亀田家は隣町でも有名なほどの地域の有力者だった。当時海軍兵学校に行くことは街の名誉でもあったのである。そんな話を聞きながら、鉄平はすこし嫉妬を感じ、話を別に向けさせたくなった。そして啓二の話よりも風子のことが聞きたかったが、金平と旦那が兵学校の話や満州の話に熱中していたのでためらい、結局聞けなかった。

 一九三七年の盧溝橋事件以来満州において中国と戦闘状態にあった日本は、大陸への派兵を増強させていた。中国に権益を持つ欧米各国は日本に対し撤兵を求める。それに対抗しようと日本国内ではドイツ、イタリアと共に同盟を結び、日本の発言力を強めようとする動きも出てきていた。そして一九三九年、昭和十四年九月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まった。

 ある蝉の声の煩い日、自転車を引いて駅前を歩いていると、鉄平は白い制服に帽子姿の啓二にばったりと出会った。暑い夏の日差しのもとその白さが涼しく眩しく輝いて街に映えていた。初め鉄平はそれが啓二とはわからず通り過ぎようとしたのだが啓二のほうから呼びかけてきた。
「おい、鉄平」
 鉄平は振り向いて怪訝そうな目つきでその声を伺った。
「啓二?」
 省みた啓二の姿が大きく見えた。
「ああ、久しぶりだな」
 啓二は言葉も態度も堂々としており、すでに軍人そのままであった。鉄平はその眩しく白い制服を見て、そして自分の汚れた作業着を見た。
「鉄平、今何やっているンだ?」
 鉄平は啓二の姿を見ると自分の生活を語るのに気が引けた。
「なに持ってンだ? それ、こうもり傘か?」
 啓二は鉄平が布を巻きつけた不思議な棒を自転車のハンドルにぶら下げていたのでそれが彼の仕事の一端なのだろうと思って聞いてみたのである。
「ああ、これか。自転車の骨でこうもり傘を作ったンだ」
「今、傘屋をやっているのか?」
 その問いかけが嫌味に聞こえた。
「いや、自転車屋だ。これは、空を……」
 と答えに迷った。「空」という言葉が啓二の「空」と重なりそうで怖かったのだ。しかし啓二は澄ましていた。
「そうか」
 啓二は鉄平の「空」という言葉で彼が何をしようとしているのか全て察した。鉄平は子供の頃のように空を飛ぶと言う夢を馬鹿にしない啓二が大人に感じ、その前で小さくなっている自分がいつまでも子供扱いされているようで悔しさを感じた。「ところで、風子は?」
「店を手伝っているらしい」
 鉄平はそれが啓二の聞きたいところなのだろうと感じ警戒し、適当に誤魔化そうとした。
「そうか。おい、鉄平、今夏休みだから、今度一緒にゆっくり話でもしよう」
 そう言って啓二は先に手を振って道を急いで人ごみの中へ入っていった。鉄平は立ったままその目立つ啓二の白い背中を見送った。自分の作った傘を笑われるのではないかと思ったのだが、すでに啓二は鉄平の夢を笑うことも忘れてしまったほどかけ離れたところにいるような気がし、離れていく啓二の背中を見て多少の寂しさも感じた。

 啓二は実家の手前で畑中商店を訪れると、店番をしていた風子を見つけた。
「風ふうちゃん、元気?」
「あ、啓けいちゃん!」
 風子も啓二の白い軍服に驚き、しばし言葉を失った。
「啓ちゃん、偉くなったンだね」
 啓二はその風子の驚きに自分の自惚れを隠そうと何気ない風を装った。
「さっき、鉄平にばったり会ったよ」
「そう。鉄てつちゃん、何やってた?」
 啓二は風子を鉄平の話から会話に引き込んだことを後悔した。
「なんか、こうもり傘を作ったって。いま自転車屋で働いているそうだね。風ちゃんは、ずっと店の手伝い?」
 啓二は風子の近況を聞きたかった。
「鉄ちゃん、まだやっているンだよ」
 と風子は笑いを含ませて鉄平の話を続けた。
「え?」
「こうもり傘作って、それで飛ぶンだって。金平兄さんがよく駅まで行くから……」
 風子は鉄平のことを教えてくれる豆腐屋という情報源を明かしたつもりだった。実際は金平が駅前に行くより、風子が豆腐屋に買い物に行くほうが回数は多かった。
「まだ木から飛び降りているのか?」
「ううん、今は海岸。風強いでしょ」
 風子は見てきたように話した。啓二は話題が鉄平から離れないことに苛立ちを感じ、その場はそっと誤魔化して立ち去った。

 鉄平は、夜は部屋にこもって凧のような傘のような、羽のようなものを紙に描いていた。竹とんぼの羽の形やトンビの翼、ムササビの飛膜を併せたような傘を思い描いては、図にしてみる。出来上がった設計図は、鳥が翼を広げているような、凧のような形の傘だった。
 また店が休みの日にはいらなくなった自転車のスポークを繋いだり、布切れを見つけて縫いあわせたりして、とうとう特別の空飛ぶ傘を開発した。

 そうして実験の日、鉄平は啓二に出くわし、それを見送ると自転車に乗って海岸へ向かったのだった。
 いつに無く海からの風が強い。鉄平はその日を待っていたのである。土手の上に自転車を引いて登り、手製のこうもり傘を片手に持って自転車に跨った。鉄平は自転車を土手の斜面に乗り出すと片手でハンドルを握り、普通より長い傘を構えた。そして砂辺に出る直前、スピードが一番速くなった時に、左手を離して両手で傘を開いた。手製の巨大な傘が開いた。

 自転車はそのまま砂浜に突っ込んで倒れたが、鉄平の体は浮き上がり、浮き上がると風に乗り、そして傘がめくれあがった。鉄平は尻から地面に落ちたが、浮き上がった感触が忘れられず、倒れたまま暫く空の風を見つめた。

ーー石川五右衛門が凧に乗って空を飛んだのは、本当の話だな。

 数日後実家の豆腐屋に顔を出した。普段なかなか実家には寄らないのであったが、啓二の言葉が気になり、嫉妬するくらい立派になってしまったことが不安だったのである。しかし啓二の家に敢えて自分から行くことはしなかった。直感として畑中商店に顔を出してみた。すると案の定啓二が風子と店先で話をしていた。「あ、鉄ちゃん」
「ああ、こんにちは」
 鉄平は啓二がいることを意識して丁寧に挨拶をしてしまい、風子に挨拶したつもりであったが啓二にも視線を向けてしまった。そうするとそんな自分が癪に障る。啓二は軍服ではなく白のワイシャツと黒のズボンであった。その姿が焦げ茶のズボンにカーキ色の半そでワイシャツの作業着を着て来てしまった鉄平を少し安心にさせた。
「あ、風ちゃん。電球買いに来たンだ」
 鉄平は別に買い物で来たわけではなかったが、風子と啓二の間に入ってしまった気まずさを繕おうと、買い物の偶然を装った。
「鉄ちゃん、心太ところてん食べていく? 今啓ちゃんの分、用意していたんだ」「あ、ああ……」
 風子は店の中に入っていく。会話が途切れると油蝉の鳴き声が妙に大きく感じる。
「鉄平、飛べたのか?」
 鉄平は啓二を振り返った。
「今は傘で空を飛ぶンだろ」
 そう言う啓二は子供の頃のような笑いは見せずに澄まして聞いてくる。そのことが鉄平には許せないほど啓二が大人になったように感じさせた。むしろ子供のようにげらげら笑って『馬鹿だな』と言ってもらったほうが、気持ちが和むはずである。しかし啓二はと言うと風子が熱心に語る鉄平のやっていることを笑うのを控えていたのである。鉄平と啓二は『心太』の幟の揺れる下の縁台に腰掛けた。
「浮いたよ。風に乗ったよ」
「そうか」
 鉄平は道路の先の橋の袂の電柱を見上げた。するとタールの塗られた細い電柱に油蝉が一匹止まって鳴いている。鉄平はそれを見つけると、蝉にも馬鹿にされているようで腹立たしく感じた。
「どうした?」
 啓二は鉄平の視線の向かう方向に何かを探した。
「蝉だよ。ほら」
 鉄平はその電柱の蝉を指差した。すると啓二もそれを見つけて笑い出した。
「馬鹿だよな。電柱じゃ木の蜜なんか吸えないのに、何が楽しいンだろうな」
 啓二のその言葉が、鉄平には、傘で空を飛ぼうとすることを批判されているように感じた。
「ホンとの木と嘘の木が見抜けないのさ。馬鹿だよな」
 鉄平は自虐的になって自分に言い聞かせたつもりだった。風子がお盆に小鉢を三つ載せて持ってきた。啓二と鉄平は小鉢を受け取ると割り箸を口にくわえて割った。
「なに笑ってンの?」
 風子は二人がニヤニヤと笑っている顔を見ながら縁台の鉄平の隣に腰掛けながら聞いた。
「あの、蝉だよ。電柱に止まって鳴いている蝉」
 と鉄平は自虐的な思いを隠して笑顔を繕っては、割り箸で指す。するとすっぱさに肩をすぼめながら風子が笑う。
「ほんと、道化だよね」
 啓二は風子と鉄平が笑って話しているのを見て、もしかしたら二人の間にいる自分が道化ではないかと感じていた。

                        続く

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