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21世紀の徒然草① 徒然なるままに〜あやしうこそものぐるほしけれ

本当は早くYouTubeはじめたいのだが、なんか始められないので、今日は今の徒然なる気分を思いつくままに書いてみる。

今は誰もがYouTubeを始める時代。特別なことではなくなっている。特に最近、私の目につくのは、Youtubeで自らの窮状を伝えたり、もしくは逆境から立ち上がった成功体験を語ったり、人生のセーフティネットのような形でYouTubeを使っている例である。よく見かけるのは、わずかな年金だけで暮らす、自らのつましい年金生活を、「貯金残高公開します」などのキャッチーなタイトルとともにアップしているものだ。似た境遇の人が多いのか、万単位の視聴数をかせいでいるものも多い。けれど、テロップの字体や入れ方、ナレーションなしでテロップの説明だけで進行する形式など、作りの似たものが多く、これも人気ジャンルとして、誰かが組織的に同様の動画を大量生産しているのだろう。今や、YouTube専門の制作プロダクションも存在する時代。儲かるネタだと思えばすぐに食いつく。資金のあるものが個人を凌駕。本当に世の中は逞しいと感心する。ぼやぼやしてたら、時代はすぐに移りゆき、無名の個人のアップした動画が注目される可能性はどんどん低くなっている。

それで私も怯んでしまって、なかなかYouTubeを始められないでいるのだが、YouTubeが誰でも自由に動画を公開でき、登録者数さえ満たせば、お金を稼ぐことができるメディアであるのも事実。厳しくはあるが、人からもらう仕事と違って、誰でも始めることだけはできる。

外に出て働くことも厳しく、頼る人もなく、年金も少額で、貯金もないというような人間が生き延びるためにやれることを考えた時、YouTubeは一つのセーフティネットとして、ある意味、行政などよりやくにたってくれるかもしれない。メルカリなどの商品を転売して利ざやを稼ぐせどり的な商売なども含め、スマホやPCを使った在宅で自由にできる仕事が生まれたことで、私たちの世代は一つセーフティネットを得たといえるだろう。

そんな文明の利器を利用しない手はないのである。なのに、私はなかなか始める自信がないままに、こうして、徒然なるままになんて独りごちている。なさけなや。

それに、このところの私は何を語りたいのかという最も重要なことが、自分でもわからなくなっている。こんな身体で、人と違う養生法を選び、人の世話になりながら、迷惑をかけながら生きている。私がいなくなって、困る人がいるだろうか。本当に弱ってしまうのは母だけだろう。母のためには生きていたいが、何のために生きると思うこと自体が現世への執着で、生への執着はかえって命を縮めるのではないかなんてことも頭に浮かんでしまう。
全ては無為自然。そうなれた時に人は悟りを得て生まれ変われるかもしれないとよく知りもしない老子の思想のようなことを思う。
そんな私が、とはいえやっぱり、なんとか回復したいと願いながら、生き延びているこの日々の中から何を切り取って伝えればいいのだろう。読者は何が知りたいのだろう。

私には今の病気が進行して、医者の考えている程度の年限で死ぬつもりは全くない。死を覚悟して、死に支度をする勇気も覚悟もない。死ぬかどうかわからないのだから覚悟なんてする必要ないと思っている。だから、こんなネガティブなことを書きつつも、どこか呑気だ。リモートで話す友人とはまるで平気そうに話している。だから、いわゆる闘病記的なものを書く心境には全くならない。でも世の中に溢れるがん患者の手記はそういうものがほとんどだ。私のようなことを言う人間はオカルトめいてると思われるのだろうか、あんまり求められていないようだ。

とはいえ、毎日、鎮痛剤を飲み、突っ張って動きづらい身体で、よちよち歩いてトイレに行き、キッチンに立って、休み休み調理する。そんな姿は見方によっては悲痛だ。しかし、見方によっては100歳の腰の深く曲がったばあちゃんが、腰が曲がりすぎて、フライパンの中身も見ずに、床を見つめながら曲芸のように炒め物をしている、ちょっと滑稽な風景に見えなくもない。でも、がんの闘病に“滑稽”は求められない。

そして、滑稽だとか自分で言っているくせに、私はこの姿をあまり人には見せたくない。こんな姿を見たら、私ももう長くはないと思われてしまうのではないかとビクビクしているのだ。周囲にそう思われたら、本当にそうなってしまいそうな気がする。嘘でもいいから、全ての人に私は大丈夫と心の中で唱えてほしい。

そんな矛盾だらけ、訳の分からない私の心の中を誰が知りたいのだろう。誰の役に立つと言うのだろう。

歩いての外出は無理。寝る時も座り姿勢でしか寝られない。それでも生活するためには何か仕事をせねばならず、とはいえ、こんな人間にやれる仕事は限られる。というか、何がやれるのか自分でも書くことやしゃべること以外に想像がつかないのが正直なところ。だけど、何を書けばいいのかと思うから立ち止まってしまう。

今の本音を言えば、存在していることが仕事ですと言って、生きているだけでお金をもらえたらいいのにと本気で思っている。

「ゴ〜ロゴロ、ゴ〜ロゴロ、この10円玉が1万円にならないかなあ」というずんの飯尾のギャグが、ギャグではなくなってほしいと思ってるのが今の私。

友人に手伝ってもらって部屋の整理をしていると、小銭が次々に現れて、古い財布やナッツの大きな空き缶に小銭がいっぱいになっている。50円と100円玉は一つもない。10円、5円、1円のみの小銭の壺に手を突っ込んで一握り。我が暮らしなお楽にならざりと、一握の銭を握って、ずんの飯尾になってみる。

いつまでこんな生活が続くのか。

なんだかネガティブ丸出しで、これまでいろんなところで語ってきたポジティブな語りは嘘だったのと突っ込まれそうだが、私の実態はそのくらい弱気だ。もう経済的に尻に火がついてヤバいにも関わらず、いつまでもうずくまって、わずかにやらせてもらえるテレビの仕事にしがみついて、なんとかならないかと思っている。が、実際にはなかなか厳しい。

YouTubeなんてお金にするの大変なんでしょ?と人は言う。

でもさ、YouTubeで生活できるほど稼ぐのが奇蹟なら、今私が目指している病の治癒も奇蹟。どうせ、もともと奇蹟を目指しているなら、仕事の面で奇蹟を目指すのもアリかもな。
でも、こんなこと言ってたら、またダメ人間扱いされるんだろうなあ。

学者の肩書きのある人が「はたらかないでたらふく食べたい」とか言えば、新しい時代の思想ともてはやされるのに、ただの人が似たようなこと言っても怠け者と言われるだけだったりする。学者になれば何言っても大丈夫ってことをわかってる学者はやっぱり頭いいのである。私みたいに、肩書きなんて関係ないと思って生きていけるほどおめでたくはないわけだ。まあ、自分はそういうダメ人間であるということを受け入れて生きていけばいくしかない。

今日のテキストは本当に徒然草的自虐満載。
徒然草の冒頭を口ずさみたくなってくる。

「徒然なるままにひぐらし 硯に向かいて心に移り行くよしなしごとを 
 そこはかとなく書きつくれば あやしうこそものぐるほしけれ」

本当に今回の気分にぴったりだ。
今後のエッセイは 21世紀の徒然草とするべきか。
私の亡くなった父には20世紀の徒然草を書いて欲しかった。そんなことを思う時、私はやっぱり父の娘だと思う。人生、あやしうこそものぐるほしけれ。

でも、こんなこと書いてる時間があるんだったら、YouTube早く始めろよな。
そう自分にツッコミ入れて、今日のネガティブな徒然テキストを締めくくりまっす。

21世紀の徒然草というのは結構いいかもしれない。
マガジンを作っとこう。
というわけで、今後も21世紀の徒然草をよろしくお願いします🥺

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