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であって、ではない(反復とずれ・03)

 この記事では、蓮實重彥による四種類の断片的な文章を読んでみます。文章を引用し、その「余白」に私の感想と思いを綴る形式になっています。長い記事ですが、太文字の部分だけに目をとおしても読めるように書いていますので、お忙しい方はお試しください。


第1部:であって、ではない

◆表記について

 蓮實重彥であって、蓮實重彦ではない。
 まして蓮実重彦ではない。

 とはいえ、いま挙げた三種類の表記が出まわっていることは事実です。ためしに、それぞれの表記をグーグルで" "でくくって検索すると、次のような表示が出てきます。

・"蓮實重彥" 
 約 13,200 件 (0.30 秒)

・"蓮實重彦" 
 約 359,000 件 (0.26 秒)

・"蓮実重彦" 
 約 33,600 件 (0.26 秒)
 もしかして: "蓮實重彦"

 同じ表記の氏名の人が複数いる可能性も無視できません。

 澁澤龍彥、澁澤龍彦、渋沢竜彦でも、同様の表示が出るかもしれません。出ないかもしれません。

     *

 文字の異同は、かつては活字を拾って印刷をしていた時代の名残なのでしょうか。印刷が普及する以前から、こうした書き方の違いがあったのでしょうか。いずれにせよ、いまでは、こうした文字の違いがデジタル情報として処理されているようです。

 たとえば、"カフカ"を"力フ力"としても、機械はちゃんと「違う」と判断してくれます。

・"カフカ"
 約 7,870,000 件 (0.39 秒)
・"力フ力"
 約 811 件 (0.25 秒)
(「力」は「ちから」の漢字です。)

 たとえ、"マカロニ"を"マ力口二"としても、ちゃんと見破ってくれるでしょう。

・"マカロニ"
 約 18,000,000 件 (0.34 秒)
・"マ力口二"(「マ」以外は漢字です。)
 約 11,800 件 (0.31 秒)
 もしかして: "マチカラ口二"

 さすが……。

     *

 失礼しました。

 少々ややこしい話になりそうなので、まず、やわらかいトピックを取りあげました。とはいえ、今回は、いまのトピックと大いに関係のある話をするつもりです。

 おふざけのようで、いちおう、ちゃんと後でつながるように書いています。というか、そのつもりです。

 たとえば、人は「似ている」「似ていない」を基本とする印象の世界に住んでいて、「同じ」「違う」を基本とする世界にいる機械とは「世界観」がまったく異なることを――このことは後に触れます――、いま挙げた"マカロニ"と"マ力口二"に対する人の反応と機械の処理の例がよくあらわしているという具合に、です。

 では、本題に入ります。

 今回は、蓮實重彥と表記される固有名詞を著者とする三冊の書物から文章を引用して、いわば、その「余白に」書く形で文字を綴ってみたいと思います。

 なお、敬称は省かせていただきます。

◆引用

「自由」と錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さにみあった執拗さで普遍化される「不自由」。これをここでは、「制度」と名づけることにしよう。読まれるとおり、その「制度」は、「装置」とも「物語」とも「風景」とも綴りなおすことが可能なのものだ。だが、名付けがたい「不自由」としての「制度」は、それが「制度」であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。「制度」は悪だと述べられているのでもない。「装置」として、「物語」として、不断に機能している「制度」を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が「制度」を充分に怖れようとしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。
(蓮實重彥「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)pp.6-7)

◆余白に・その1

 であって、ではない。

 これこそが、文字の基本的な身振りです。であっても、ではないのです。

 Aであって、Aではない。
 Aであって、Bではない。

 文字は生きていない物です。紙に染みこんだインクの染みであるなら物質でしょう。液晶上の画素の集まりが物質であるかは知りませんが、とりあえず物だとしておきます。画素の集まりが文字であるのは文字の歴史のなかではごく最近のことだと思います。

 とはいえ、いま私の目の前にあるのは画素の集まりとしての文字なのです。事実は受け入れなければなりません。

     *

 Aであって、Aではない。
 Aであって、Bではない。
 

 上の文字列は、文字どおり、文字からなる文字列であり、句読点が打たれていることから文(センテンス)とだと言えます。

 Aであって、Aではない。

 このセンテンスを書き換えてみます。

 A(という文字)であって、A(という文字が指ししめす何か)ではない。

 これが文字という物の基本的な身振りです。Aという文字は、Aという文字が指ししめす何かの代わりであるという意味です。そういう意味であれば、次のようにも書き換えることができるでしょう。

「A(という文字)」であって、「A(という文字が指ししめす何か)」ではない。
 つまり、Aであって、Bではない。

     *

 Aであって、Aである。
 Aであって、Bである。

上の文字列は、文字どおり、文字からなる文字列であり、句読点が打たれていることから文(センテンス)とだと言えます。

 Aであって、Aである。

 このセンテンスを書き換えてみます。

 A(という文字)であって、A(という文字が指ししめす何か)である。

 これが文字という物の基本的な身振りです。Aという文字は、Aという文字が指ししめす何かの代わりであるという意味です。そういう意味であれば、次のようにも書き換えることができるでしょう。

「A(という文字)」であって、「A(という文字が指ししめす何か)」である。
 つまり、Aであって、Bである。

     *

 Aという文字は、振りをしているのです、振りを装っているのです、振りを演じているのです。

 何の振りをしているのかは、文字を見たり読んだ人によって、その受け止め方は異なります。いま書いた文では「人によって」が大切です。「生きている人によって」と言うべきでしょう。

 生きていない文字を、生きている人が見たり読んだりして、その振りを感知するのです。

 生きている人がいない場所では、または生きている人がいなくなれば、振りは空振りするでしょう。

     *

 この文章は以下の記事を書きあらためています。

◆余白に・その2

 である振りをするし、でない振りをする。

 これが、文字の基本的な身振りです。とくに、「でない振りをする」という文字の振りが忘れられがちだと思います。

 である振りをするし、でない振りをする。

 ようするに、振りだけなのです。人が文字から感知するのは振りだけだと言えます。

 振りだけですから、何の振りか、どんな振りかは、人それぞれです。そもそも人にも分からないのではないかという気がします。

 生きていない文字の振りを感知して、人はその振りをくり返します。じっさいにその振りを身体で演じなくても、見て読んだ瞬間に頭か心のなかで、その振りをくり返します。それが「見る」であり、「読む」なのです。

 人が見たり読んだ瞬間に、伝わるのは振りであり、何かが「通じる」かどうかは賭けでしょう。

     *

 生きていない文字から、生きている人が感知する振りは、人の振りである点がきわめて大切です。

 人にとって振りは人の振りなのです。

 赤ちゃんを思いうかべてみてください。まだ話し言葉も書き言葉も学習していない赤ちゃんは、表情と身振りをとっかかりにして生きているのだろう、と私は想像します。

 生きている物と生きていない物の区別はないだろうとも想像します。ということは「人である」と「人ではない」の区別もないだろう、と思います。

 さまざまな振りのなかで、(自分・こちらに対して)「振りをしてくれるもの」と、「振りをしてくれないもの」を分けていくのだろう、とも考えます。

「振りをしてくれるもの」が、人なのでしょう。

     *

 振りをする、振りを装う、振りを演じる。

 自分と同類である人の振りこそが、人にとっての振りだと思います。

 どんな振りも人の振りなのです。どんな振りも人の振りであると「擬する」のです。

 擬する、見立てる、まねる、似せる、なぞらえる、仮に当ててみる、あらかじめ決める、あてがう、さしあてる。(広辞苑より)

     *

 赤ちゃんにとって振りとは「似ている」「似ていない」なのかもしれません。

 赤ちゃんにかぎらず、人は「似ている」「似ていない」を基本とする印象の世界に生きています。「同じ」「違う」の判断は、道具や器械や機械やシステムといった外部の存在に委託する必要があります。

 その意味で、人にとって「同じ」と「違う」とは抽象なのです。「同じ」「違う」の判断を外部に委託したところで、その外部が下した判断の結果――これは数字(数値・数式)や文字や記号や視覚的イメージ(絵・写真・動画・図解・図式)という置き換えられたものです――に対する、人の最終的な判断は「似ている」「似ていない」という印象の世界で判断しなければなりません。

「同じ」「違う」という抽象とは、人がいだきながら、見たり触ったり、たどり着けないものです。そのために、「同じ」「違う」を人は数字や文字や記号や視覚的イメージという置き換えますが、それは「代わり」でしかありません。

 人は人の知覚と認識という枠組みからは出られないようです。

第2部:似ている、違う、同じ

◆引用

 たとえば人が「理論実践」「真実虚偽」「問題解決」といった言葉を口にするとき、誰もが無意識のうちに、この二組の単語の一方を他よりも階層的に上位に位置づけている。「虚偽」は、先験的に「真実」の前に色あせたものとして置かれるべきだし、「解決」が誇りうるその価値は、ひたすら提起された「問題」に照合した上ではじめて測定されるといった具合なので、「と」は、それがほんらい果たすべき並置の機能を失って、遂にはある一つの差別を幻影としてあたりに蔓延させ、「真実」と「虚偽」とがそれぞれ異なった領域を持ち、「問題」と「解決」とがたがいに固有の構造を持っている事実を忘却の彼方へと葬りさってしまう。
(「ジル・ドゥルーズ――エディプスと形而上学」(蓮實重彥著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房所収)p.65)


◆余白に・その1

 引用文では、「と」という、その前後の言葉とそのイメージを「ほんらい」宙吊りにするはずの言葉をめぐって、文字が綴られています。その文字たちに、宙吊りの身振りが見られるという意味です。

 言葉やその意味やイメージを宙吊りにして着地させまいとする文字たちの身振りです。

 上の引用文を綴った書き手のほとんどどの著作にも見られる特徴的な身振りだと私は思います。

 というか、宙吊りにして着地させまいとする身振りは、この書き手の芸であり、至芸であるとさえ、私は言いたいのです。

 なぜ至芸なのかと言いますと、この書き手は「着地させまい」を、「いまここではないどこか」にあるものとして指ししめすのではなく、「いまここにある」言葉に演じさせているからにほかなりません。

 演じさせている、振りをさせている――この書き手は「振付師」(おそらく表現者ではなく)なのです。

 言葉の振付師を演じることによって、この書き手は「着地させまい」という言葉が「着地する」のを周到に回避していると言えます。これを至芸と言わずに何と言えばいいのでしょう。

     *

 振りをする、振りを装う、振りを演じる。

 この書き手に特徴的なこの言葉の身振りは、以下の文章で、素知らぬ素振りを装う素顔として、その表情を一瞬だけ見せている気がします。

 漱石をそしらぬ顔でやりすごすこと。誰もが夏目漱石として知っている何やら仔細ありげな人影のかたわらを、まるで、そんな男の記憶などきれいさっぱりどこかに置き忘れてきたといわんばかりに振る舞いながら、そっとすりぬけること。何よりむつかしいのは、その記憶喪失の演技をいかにさりげなく演じきってみせることだ。(……)肝心なのは、漱石と呼ばれる人影との遭遇をひたすら回避することである。人影との出逢いなど、いずれは愚にもつかないメロドラマ、郷愁が捏造する虚構の抒情劇にすぎない。
(蓮實重彥著『夏目漱石論』(青土社)p.7・丸括弧による省略は引用者による)

◆余白に・その2

 似ている、真似ている。
 違う、間違う。


「似ている」と「真似ている」は似ています。
「似ている」と「真似ている」は違います。

「違う」と「間違う」は似ています。
「違う」と「間違う」は違います。

     *

 上では「似ている」と「違う」という言い回しをつかっています。

「似ている」「似ていない」は人のいだく印象であり、「同じ」「違う」は人にとって抽象です。

 この点については、第1部の「余白に・その2」で触れました。

 上の文を書き換えてみます。

     *

「似ている」と「真似ている」は似ている。
「似ている」と「真似ている」は違う。

「違う」と「間違う」は似ている。
「違う」と「間違う」は違う。

 ここでこだわっているのは「文字列」なのです。「文字列」が指ししめす「何か」ではなく、文字どおり、文字と文字列にこだわっています。

「似ている」「真似ている」、「違う」「間違う」という文字列が指ししめしているのはその文字列自体であるとも言えます。

     *

 文字は手書きであれ、印刷されたものであれ、キーボードで入力したものであれ、複製です。文字は複製としてしか存在できないとも言えます。

 複製は、「似ている」どころか「そっくり」どころか、基本的に「同じ」ものとして存在していることになっています。

 複製(たとえば文字)について語るとき、人は「同じ」と「違う」と自信をもって口にできるし文字にできると言えそうです。ひょっとすると、人はそのために複製(たとえば文字)をつくっているのかもしれません。

 複製(たとえば文字)は人がつくっているものだという点が、きわめて大切です。自然界で人のつくっているような複製を見つけることはきわめて困難だと考えられます。

 なお、複製にもその出来具合によって異同や巧拙はあるでしょうが、ここでは「同じ」にこだわっているので、異同と巧拙による差違は割愛します。

◆表記について

「彥」であって、「彦」ではない。
「實」であって、「実」ではない。

「彥」(という文字)であって、「彥」(という文字が指ししめす何か)ではない。 
「實」(という文字)であって、「實」(という文字が指ししめす何か)ではない。 

     *

 上の文字列では、文字という複製が「同じ」か「違う」かということにこだわっています。

 文字は人が外部に存在させているものです。文字は人のなかには存在しません。その意味で、文字は抽象ではなく物だと言えます。

 抽象ではなく、人の外部にある物であるからこそ、文字は他の人といっしょに確認できるし、共有もできるのです。

 いっぽう抽象をめぐっては、人はああでもないこうでもない、ああだこうだをずっと続けていて意見の一致をみません。おそらく人の内部にあって、見えないし、触れることができないし、共有できないし、保存できないし、継承できないからです。

     *

 いや、抽象も共有し保存できるし継承できる――それは文字にしているからでしょう。文字は概念でも観念でも思想でもありません。物なのです。

 文字はすごい発明だと言えます。

 人は○○という言葉をいわば見切り発車でつくり、それを文字にし、その後で「ところで○○って何だろう?」と問い、その○○をめぐって争う生き物だと言えそうです。

 意味は後付けなのです。

 争いが起きるのは、文字が残っているからです。文字をめぐる果たし合い――。学問、宗教、芸術、科学、政治、人生、生活……。

 文字は恐ろしい発明だと言えそうです。

 ありとあらゆるものが最終的には文字にされています。経典、聖典、法典、百科事典、辞典、文学全集、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き……。

 個人は、そして人類は、文字を残すために生きているのではないでしょうか。文字を崇めたてまつり、文字にひれ伏しているようにさえ見えます。

第3部:擬人、呪術

◆文字

「似ている」「似ていない」を基本とする人にとって、「同じ」と「違う」とは抽象です。

「同じ」か「違う」の判断を外部に委託したところで、その外部が下した判断の結果――これは数字(数値・数式)や文字記号や視覚的イメージ(絵・写真・動画・図解・図式)という置き換えられたものです――に対する、人の最終的な判断は「似ている」「似ていない」という印象の世界で判断しなければなりません。

「同じ」と「違う」という抽象とは、人がいだきながら、見たり触ったり、たどり着けないものです。

 そのために、「同じ」と「違う」を、人は数字や文字や記号や視覚的イメージという置き換えますが、それは「代わり」でしかありません。

     *

 人の外部にある文字は、記号でもあり視覚的なイメージでもあります。物なのです。

 人の外部にある機械は、人の外部にある文字を、たとえば検索という操作の対象として扱います。

 人の外部にあって生きていない物である機械は、人に代わって、人の外部にあって生きていない物である文字を、同時にかつ瞬間に、投稿し配信し複製し拡散し保存させます。もちろん、瞬間に検索もします。

 この記事の冒頭で紹介した、マカロニ"と、"マ力口二"(「マ」以外は漢字です)に対する機械の処理と、その二つの文字列に対する人の反応とをくらべれば、人は「似ている」「似ていない」を基本とする印象の世界に住んでいて、「同じ」「違う」を基本とする世界にいる機械とは「世界観」がまったく異なることが体感できると思います。

     *

 いまでは機械が人に代わって作文もしてくれます。

 人間の機械化と機械の人間化がしのぎを削っているようにも見えます。というか、人間の道具化と道具の人間化は、いま始まったことではない気もします。きっと人が道具をつくった瞬間に始まったのでしょう。

「使う」が起きた瞬間に「使われる」が起きたのです。

     *

「使う」「使われる」

 反復「ずれ」

 使うと使われる。使うことで使われる。
 使われると使う。使われることで使う。

「使う」であって、「使う」ではない。
「使う」であって、「使われる」ではない。

「使う」であって、「使う」である。
「使う」であって、「使われる」である。

 いわば宙吊り体操(着地させない体操)――ですので、文字どおりに取ったり、真に受けないでくださいね。

◆振り

 人の外部にあって生きていない文字から、生きている人が感知する振りは、人の振りである点がきわめて大切です。あくまでも人の側の出来事であり、一方通行なのです。

 しかも、人にとって振りは人の振りなのです。

 赤ちゃんを思いうかべてみてください。まだ話し言葉も書き言葉も学習していない赤ちゃんは、外部にある表情と身振りをとっかかりにして生きているのだろう、と私は想像します。

 生きている物と生きていない物の区別はないだろう、とも想像します。ということは「人である」と「人ではない」の区別もないだろうと思います。

 さまざまな振りのなかで、(自分・こちらに対して)「振りをしてくれるもの」と、「振りをしてくれないもの」を分けていくのだろう、とも考えます。

「振りをしてくれるもの」が、人なのでしょう。たとえ、それが一方的な思いや感情の産物であっても。

     *

 生きていない物に働きかけ、その物からも働きかけられていると感じ、それによって行動する。生きていない物に振りを感知して、その振りによって行動する。

 いわゆる擬人(人に擬する)ではないでしょうか。さらには呪術と呼ばれているものにもきわめて近い気がします。

 恥ずべきことではないのに、いまの人がなかなか認めたがらない擬人と呪術ですが、人類は一貫して擬人と呪術の世界に生きていると私は感じています。そして、文字は擬人と呪術の一環だとも考えています。

 いまや、人は、文字をもちいての作文までを外部にあって生きていない機械に委託しはじめています。これは、人が自分の十八番(おはこ)である、擬人と呪術を外部に委託したとも見なせます。

 よく考えると、恐ろしい事態です。さきほど述べた、人間の機械化と機械の人間化がしのぎを削っているという話のことです。

 その意味で、作文をする機械は、人による擬人と呪術の完成形、そして最終形態ではないかと思っています。バトンを渡したという意味です。

まとめ

「と」、とは、明確な境界線の明示を使命として持ち、並置された二要素のみだりな溶解や性急な二者択一、一方から他方への演繹または帰納、あるいは弁証法的な対立関係を先験的に生きるものではない。ドゥルーズの言葉が、最終的に希薄さをめぐる希薄なディスクールたらざるをえないことの独創性は、二つの名詞の意味そのものではなく、そこには介在する接続詞があたりに波及させがちな錯覚そのものの中に身を置き、錯覚ならざるものが占めうる場と条件とにその分析が向けられているからである。
(蓮實重彥著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房刊・p.63)


 ドゥルーズは、この書物に限らず、あらゆる著作のうちで、接続詞のうちでも最もありふれた、それ自体としては宙吊りの状態を露呈しつつ機能するしかないあの徹底して非人称的な「と」に固執することによって、結局は何ものかの反映と戯れるしかない体系と、濃密性の神話とに訣別し、進んで拡散の側へ、希薄さの側へと身を埋めていくのだ。

「名詞」と「接続詞」
 そうした観点からみると、『経験論主観性』(五三年)いらいのドゥルーズの著作の大部分が、『ニーチェ哲学』(六二年)『マルセル・プルーストシーニュ』(六四年)『差違反復』(六九年)『資本主義精神分裂症』(七二年)といった具合に、むしろ投げやりと思える簡潔さで並置の接続詞とを含んでいることの意味が、多少なりとも把握しうるように思う。
(蓮實重彥著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房刊・pp.63-64)

     *

 反復と「ずれ」

 言葉(音声・文字)は反復と模倣をくり返して学習されます。人によるこの反復はいわば「アナログな反復」であり、杓子定規な機械の「デジタルな反復」(アナログな機械もありますが)とは「世界観」が異なるのです。

 人による反復と模倣において、音声の連なりと文字および文字列は、言葉であるかぎり、「ずれ」として感知されると考えられます。アナログな反復は必ず「ずれ」をともなうのです。この「ずれ」に「間違える」「誤る」が含まれるのは言うまでもありません。

     *

 似ている     似ていない
 いつかどこか   いまここ
 意味・イメージ  見える物・リズム(長短強弱波)
 抽象       具象

音声を耳にしたり口にするとき、
文字を目にしたり手で綴るとき、
振りに振れたり振られるとき、

人は、上のペアのあいだで、

振れる、
 震れる、
  触れる、
   狂れる、
  ぶれる、
 ゆれる、
ずれる

のだろうと思います。

 おそらく、ずれながらふれつづけるのです。

 ず(ふ)れていながら、ず(ふ)れていない
 ず(ふ)れずに、ず(ふ)れる

 戯れです。たぶん、こういうことは、人が本気でやることではないのです。言葉に演じてもらうのがいいのだろうと思います。

     *

 ここまで、お付き合いいだたき、ありがとうございました。くどくて、ごめんなさい。

(つづく)

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