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名づける

 前回に引きつづき、今回も、蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の読書感想文です。

 引用にさいしては、蓮實重彥著『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)を使用していますが、この著作は講談社文芸文庫でも読めます。


*あとで名づける、とりあえず名づける


 蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』を読んでいると、「名づける」、「命名する」、「名」という言葉が目につきます。目につく箇所を抜きだしてみましょう。なお、太文字は引用者によるものです。

     *

*「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」

・p.37「彼がここで命名の試みをいったん宙に吊り」
・p.37「「命名」の意図的な宙吊りによって」

 命名を宙吊りにするというのですから、命名を引き伸ばしてあとでするということです。「あとで名づける」と言い換えることができるでしょう。

     *

*「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」

・p.78「郷愁というの錯覚」
・p.80「「差異」というの怪物が」
・p.97「4――表象というの錯覚」

「Aという名の錯覚」という言い方をするときには、その名づけに強い疑問をいだいていると理解できます。

「「差異」という名の怪物が」は、「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」という文章の中にあるのですから、注目しないではいられません。

*「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」

・p.160「3――命名の儀式」
・p.170「ところがデリダは、とりあえず﹅﹅﹅﹅﹅「エクリチュール」と呼んだ根源的暴力をめぐる「学」を、またとりあえず﹅﹅﹅﹅﹅「グラマトロジー」と名づけるのである。」
・p.199「もちろんその事実に自覚的なデリダは、あたかも限界を超えたふりを装いつつ、その演技を宙吊りにしないために、つまりは何もいわずにおく﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ために、とりあえず﹅﹅﹅﹅﹅命名の儀式を無限に反復させるほかない。」

「とりあえず名づける」と短く言い換えることもできそうな言葉やフレーズが「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」には頻出しています。

 ところで、「とりあえず﹅﹅﹅﹅﹅」という言葉が、「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」には目立ちます。ぱらぱらとページをめくっただけで目につくのです。

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の「とりあえずの「序章」」(pp.7-17)と「とりあえずの「終章」」(pp.221-232)にも目立ちます。

 ところが、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」と「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」のページをぱらぱらめくっても見当たりません。

 見落としがあったら、ごめんなさい。いずれにせよ、「ない」と目立つものです。「「ない」に気づく、「ある」に目を向ける」「出す、出さない、ほのめかす(『檸檬』を読む・01)」

     *

 とりあえず、対照的な「Ⅰ」と「Ⅲ」だけをまとめてみます。

・「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」:
 あとで名づける。命名を引き延ばす。
・「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」:
 とりあえず名づける。命名を装う。 

 名づけるという行為に興味のある私は、読んでいる本にこうしたことが書かれているとぞくぞくしてしまいます。

*擬人と命名


 私は名づけに興味があります。名づけと言っても、子どもに名前をつける話よりはむしろ、人が森羅万象に名前をつける行為に興味があるのです。

 基本的には次のようにイメージしています。

     *

 人は顔と名前のないものを恐れる。森羅万象のうちのあるものに、とりあえず人の顔を見ることによって、恐怖心をやわらげる。これが擬人化です。

 次に、とりあえず人の顔を持つことになったものに、呼びかけたり話しかけます。さらに恐怖心を小さくするためです。そのために名前をつけて、呼びかけやすく、話しかけやすくします。

 要するに、手なずけるために名づけるのです。あわよくば飼いならしたいのです。かといって、なづけてなつくわけではありません。

 それでも、とりあえず名前をつけたことで、仲間とそのものについて話すことが可能になります。

 みんなで、その名を唱えることで、その相手なり対象を知ったことにします。これが領るです。「知る」は「領る」――大きな辞書に説明が書いてあります。

 名づけて知ったこと、知っていることにする。それだけではなく、その「知った」ものを自分のものにした(つまり「領った」および「領っている」気分になる。

 百科事典がいい例です。分類(分けて分かった気分になる)という名づけと、どこか人に似て描いてある動植物や自然界や宇宙の絵と、どこか人に似せて撮ってある写真のセットです。

 このように擬人と命名は、きわめて一方的かつ一方向的で身勝手な行為なのです。それで自分のものにした気分になれるのですから、これほど頼もしく気持ちのいい行為はないでしょう。

 嗜癖しへきし依存するわけです。私も嗜癖し依存しています。

     *

 以上が私の考える擬人とセットになった命名、つまり名づけのイメージです。

 大切なところだけをくり返します。

 人は手なずけるために名づける。あわよくば飼いならしたい。かといって、なづけてなつくわけではない。

 掛詞が使ってあるので、覚えやすいと思います。

 英語バージョンもあるので――怪しい英語で申し訳ありません――紹介しますが、二つあって、二つ目は戒め版です。

・Naming is taming.
・Naming doesn't work for taming cats.

 名づけたところで、なかなかなついてはくれません。猫に限らずです。人類は名づけたものたちに手を焼いているではありませんか。

「名づけた」ことで「知った=領った=自分のものにした」という具合に、多幸感を味わっているのです。名を唱えることで、何とかホルモンが脳内に出ているとしか思えません。自分を観察しているとそう感じます。

     *

 人は世界と森羅万象を手なずけるために名づけるが、名前は人にしか通じない。
 森羅万象はそう簡単には飼いならされない。なれないのだ。なづけても、なつかない。冗談でもおふざけでもない。
 人は世界と森羅万象に人を見ることがある。人に擬する。一方的で一方向のギャグ。人を馬鹿にした話だ。いや、馬鹿にした話だ。
 百科事典を見ると、いかに人があだ名をつけるのに長けているのかが分かる。
 名前、名称、学術名、通称。笑いたくなる名前があり、悪意を感じるものすらあるが、そう感じるのは人しかいない。陰口に似ている。楽屋落ち。
(拙文「【小話集】似ている、そっくり、同じ」より)

*名づける、言葉や文字にする


 前回の記事では以下のことを書きました。

 無意味は無意味ではないのに無意味としてまかり通っている。
 空白は空白ではないのに空白としてまかり通っている。
 猫は猫とぜんぜん似ていないのに猫としてまかり通っている。
「猫という言葉・文字」は「猫というもの」とぜんぜん似ていないのに、猫としてまかり通っている。
(……)
 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。
(拙文「「ここには何もない」という「しるし」」より)

 上の文章にある「無意味」を「無意味とは○○である」としても同じです。「無意味」を、「正義」や「正義とは○○である」、「XX主義(現象・シンドローム・効果)」や「XX主義(現象・シンドローム・効果)とは◇◇である」としても事情は同じです。

 △△は△△ではないのに△△としてまかり通っている。

「△△という言葉・文字」は「△△というもの」(そういうものがあればの話です)ではないのに、△△としてまかり通っている。

 △△は名詞であっても、フレーズであっても、センテンスであっても、それ以上の言葉や文字列であっても事情は同じです。

*別のものでの辻褄合わせ


 言葉や文字と、それが名指している、示しているもの(そういうものがあればの話です、ない場合が意外と多いようです)は別物なのです。

 別の物で辻褄合わせをしていると言えば分かりやすいかもしれません。

 言葉や文字を、口や耳にしながら、あるいは目にしながら、「何か」を夢想するとも言えるでしょう。想像するとも言えるでしょう。いずれにせよ、

・言葉や文字を「何か」だと思わせる、感じさせる、見せるという錯覚製造装置

がなければ、こうした夢想も想像も可能ではないと考えられます。

 ある「何か」をそれとは別の「何か」だと思わせる、感じさせる、見せる――この錯覚の製造を「捏造」という言葉で呼んでもいいでしょう(これも命名にほかなりません)。

 人として生きることは、こうした捏造に付き合うことにほかなりません。この捏造は誰にとっても、生まれた時に既にあったものです。その意味で、各人は自分が生まれる前からある「捏造」(「こじつけ」と呼んでもいいでしょう)の後始末――言葉と文字を使うことです――をしているとも言えます。

 先人のこじつけの辻褄合わせ(帳尻合わせや後始末と呼んでもいいでしょう)を後人がするのが言葉と文字を持ったヒトの歴史なのかもしれません。

 もちろん、こじつけの辻褄合わせと後始末に異議を唱える人もいます。たとえば、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ、ロラン・バルト、アラン・ロブ=グリエがそうだったように思います。

     *

 なにしろ、人は○○という言葉(音声の連なりと文字)を決めるという形で作り、次に○○とは何かと疑問に思い続ける生き物なのです。現に、いまもそうした見切り発車による混乱が続いています。 

 ○○についての意見の一致を見ないのです。これは○○という同一のもの(言葉、とりわけ文字)を使っているからにほかなりません。

 なかでも文字は複製として存在するので、「まったく同じ=同一=たった一つのもの」を多数で共有することになります。

 〇〇という人名、〇〇という専門用語やビッグワードは、みんなで共有している抽象なのです。誰もが自由につかえるし、じっさいにつかっている、これが言葉の共有の実態です。抽象だから共有できるのです。歯ブラシ(具象、つまり具体的な物)とはそこが異なります。
 〇〇という言葉は、誰が口にしようと、誰が文字にしようと、〇〇なのです。
 誰もがいとも簡単に(たとえその言葉が指すものや人を知らなくても、極端な場合にはその言語を知らなくても、さらには機械やAIやオウムでさえも)引用し複製し拡散し保存できるのです。これが抽象です。
「同じ」であり「同一」だからです。これが抽象なのです。
(拙文「【小話集】似ている、そっくり、同じ」より)

「何か」を名づける(「何か」を短い言葉や文字に置き換える・すり替える)、あるいはもっと長い言葉や文字にすることに慎重な人がいても不思議はないと私は思います。

 ここで強引にこじつけますが、「あとで名づける」とか、「とりあえず名づける」という姿勢があるとすれば、いま述べた「こじつけ」(すり替え)と関係があるかもしれません。

*じらす


 蓮實重彥の文章の言葉たちは、じらします。これはどなたが読んでもそう感じると思います。読む者を宙吊りにしてなかなか着地させない感じがするのです。⇒「宙吊りにする、着地させない」

 とはいうものの、「宙吊りにする。着地させない」というのは私の印象であって、感想や意見は人それぞれでしょう。

 印象や感想や意見はまちまちなのは当然ですが、誰が見ても明らかなことがあります。具体的に見てみましょう。蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』を例に取ります。

     *

 この著作は三部構成になっています。

・「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」
・「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」
・「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」

 ところが、これら三部のそれぞれの冒頭では、一見して何について話しているのか分からないような文章――この印象も人それぞれですけど――が書かれているのです。三部に共通する特徴と言ってもいいでしょう。

 どういう意味なのかと言いますと、「Ⅰ」を除いて、「Ⅱ」では「ジル・ドゥルーズ」と『差異と反復』、「Ⅲ」では「ジャック・デリダ」と『グラマトロジーについて』がなかなか出てこないのです。じらされていると感じる人がいても不思議はありません。

 それならば、「Ⅰ」はじらされていると感じないのかと言うと、そうでもないのです。肝心のというか期待している固有名詞が出てこないからにほかなりません。

 やっぱりじらされるのです。というか私はそう感じます。じらして、申し訳ありません。具体的に見てみましょう。

*固有名詞が出てくるまで(Ⅰ)


*p.19-「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」

・p.21「ミシェル・フーコーの『言葉と物』
・p.24「ミシェル・フーコー
・p.32「ベラスケスの『侍女たち』

 第一段落(p.21)が始まってすぐに(第二行目から第三行目にかけて)「ミシェル・フーコーの『言葉と物』」が出てきますが、それでもなお宙吊りと着地しない感じが続くのは、その出だしが「ミシェル・フーコーの『言葉と物』」とは直接関係なさそうな調子で書かれているからです。

 顔を奪われた視線をたどりつつ視線を奪われた顔の位置を標定すること、そしてその機能について語りうる基盤を顔と視線との離脱現象のうちに捉えようとすること。ミシェル・フーコーの『言葉と物』と呼ばれる書物が読むものに要請しているのは、そうしたきわめて具体的な体験にほかならない。
(蓮實重彥「顔と視線の離脱」「1――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.21)

 以下の資料をご覧になると分かりますが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を買うなり、図書館で借りて、いざ手に取って読み始めた人であれば、最低限の予備知識として「ベラスケスの名画「侍女たち」」(以下の資料より引用)という固有名詞が頭にあってしかるべきではないかと想像できます。

 その意味で、「ベラスケスの『侍女たち』」という言葉が出てくるのをp.32まで待たなければならないとなると、これは、じらされていると感じるのが当然ではないでしょうか。

・p.50「(……)つまりは書物の冒頭に展開されるベラスケスの『侍女たち』の分析を通じて前触れとして顕示されている「表象空間」だとたやすく名づけもしよう。」(丸括弧とリーダーによる省略および太文字は引用者による・以下同じ)

 のちに、このようにも書かれているのですから、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」の冒頭近くで「ミシェル・フーコーの『言葉と物』」p.21 が出てきたとしても、肝心の「ベラスケスの『侍女たち』」が出てくるのが p.32 だというのは意識的に、じらしているとしか考えられません。

「あとで名づける。命名を引き延ばす。」と取れるでしょう。名づけるのに慎重な姿勢を感じます。

「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」の冒頭の言葉の身振りは、『言葉と物』の言葉の身振りに擬態しているとも言えそうです。

*固有名詞が出てくるまで(Ⅱ)


*p.74-「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」

・p.78「しかし、と、ジル・ドゥルーズはつぶやく。」
・p.79「だから、とドゥルーズはつぶやく。」
・p.80「ジル・ドゥルーズの『差異と反復』とは(……)」

「Ⅱ」でも、固有名詞が出てくるのが引き延ばされています。これは意図的ではないでしょうか。

 ジル・ドゥルーズの『差異と反復』という二つの固有名詞(人名とタイトル)のうちの「差異」がはじめて出てくる過程を以下に引用しますが、命名を引き延ばしていることが決定的に感じられる箇所です。

・p.78「たとえば、これ﹅﹅あれ﹅﹅と同じではない、これ﹅﹅あれ﹅﹅との間には違いがあるなどとこともなげにつぶやかれるとき、その二つのものの間に拡がるへだたりは徹底して戸外の思考に従属するもののはずだが、それなら戸外洞窟との﹅﹅違いに言及しうるのもまた戸外への思考にほかならなぬはずではないか。」
・p.79「淀んだ洞窟の冷気に触れて思わず立ちすくんだとき、人は、あれ﹅﹅これ﹅﹅の間の違いを測定する思考の働きとは本質的に無縁な思考の働きを体験したはずだ。」
・p.79 「あれ﹅﹅これ﹅﹅の間の違いではなく、違いそのものとしてかたちづくられる思考。」
・p.80「ジル・ドゥルーズの『差異と反復』とは、そうした意図の実践をめざして緩慢に進展する怪物の物語=歴史にほかならない。」

 上の「戸外洞窟との﹅﹅違い」の「」に、次の文脈での「」を連想するなと言われても無理です。

 前回の「読みにくさについて」でも書きましたが、以上の点については、『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房))において、ジル・ドゥルーズの文章における「と」という接続詞についての蓮實の指摘と(おそらく)共感とかかわっている気がします。⇒「アンチ・アンチ」
(拙文「読みやすさについて」より)

 また、「緩慢に進展する怪物の物語=歴史にほかならない。」に注目しないではいられません。冒頭からこのセンテンスまでの文章に見られる「緩慢に進展する」筆致が書かれている内容に擬態しているからです。じらされているという感覚は錯覚ではなかったのではないかと思います。

 こうした擬態は、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」でも見られます。 

 顔を奪われた視線をたどりつつ視線を奪われた顔
 ところで、このフレーズが顔とその鏡像のように見えるのは私だけでしょうか? 印象的な書き出しです。捏造された鏡とか空白とは言いませんが、偶然だとは思えません。
顔を奪われた視線 をたどりつつ 視線を奪われた顔
 文字擬態する意味 意味擬態する文字
(拙文「「ここには何もない」という「しるし」」より)

 おそらく、これは戦略なのです。言葉と文字の振付師である蓮實重彥の戦略にちがいありません。

*固有名詞が出てくるまで(Ⅲ)


*p.133-「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」

・p.138「そうではなく、と、たとえばジャック・デリダはつぶやいてみる。」
・p.138「(……)それでもう充分であるとジャック・デリダはいう。『グラマトロジーについて』ととりあえず翻訳しうる題名を持ったその書物(……)」

 ここでも、固有名詞の登場は引き延ばされていますが、これもまたそのように装っているだけです。

 実際には、「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』の冒頭からして「叙事詩的、その内部と外部」p.135 という見出しが見えており、傍点(圏点・脇点)を施される形で、「Ⅲ」のテーマと言える言葉とフレーズが氾濫しています。

「Ⅰ」と「Ⅱ」の冒頭からの数ページの字面を見るだけで、それは明らかです。「とりあえず」の乱発と言えば言い過ぎでしょうが、のちに「Ⅲ」で描かれるジャック・デリダ『グラマトロジーについて』における命名のとりあえずぶり(とりあえず名づける。命名を装う。)を見れば、「Ⅰ」と「Ⅱ」の冒頭と同じく、この書き方もまた擬態と言えるかもしれません。

*「命名」を遅延させる、「命名」を装う


『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」と「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」には「命名」をめぐって刺激的な文章がいくつか見られます。

 私が特に気になった箇所を引用しますが、かなり長い引用になりそうなので、断片を抜きだすだけにします。どうか原著で確認してください。

・p.57「「宙吊りの」主題が特権的「空白」の主題と親しい連繋を演ずるのはまさにこの瞬間だからである。この一瞬に成就する二つの主題の連繋ぶりが、それ自体、宙吊りの欠落ともいうべき関係にある点に注目しよう。

・p.57「彼がここで命名の試みをいったん宙に吊り、その身分を凍結し、「鏡の奥に映っているのは誰か、知らないふりをしなければならない」理由は、実在の人物と固有名詞との深い関りを指し示す命名という身振りが、可視的な世界と言語の世界との関係を開くかに見えてこれを閉ざす詭計にすぎず、したがってその介入が「言説」を成立せしめる「表象」空間をも崩壊させかねぬからである。」

・p.60「だから、「古典主義時代」にあって、「語るなり書くなりすることは、物を言いあらわしたり自己を表現したりすることでも、言語をもてあそぶことでもない。それは、命名という至上の行為へと進むこと、物と語とが物に名をあたえることを可能にする共通の本質のなかで結ばれる場所まで、言語をつうじて赴くことなのだ。だが、ひとたびこの名が言及されるや、そこまで導いてきたすべての言語、それに達するために人が通過してきたすべての言語は、この名のうちに解消して消滅する」という自己廃棄の運動として「言説」が成立するのだ。「名は言説の《おわり》なのである」。それ故、不在の顔、中心的な空白、特権的な欠落は、「言説」それ自身に含まれる「命名」の遅延の機能によって、宙に吊られたまま無限に後退しつづけることになるだろう。

     *

・p.168「つまりジャック・デリダが書物﹅﹅を模倣しつつ書きはじめた『グラマトロジーについて』は、包む﹅﹅包まれる﹅﹅﹅﹅のこの二重の関係を、すんでのところで外部は内部である﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅と呼ぼうとして思いとどまるのだ。外部は内部である﹅﹅﹅。外部は内部ではない﹅﹅﹅﹅のそのいずれもが言葉であることを禁じられた時空こそが暴力の場なのだから、問題は外部と内部とがそこでは同時に現前を否認されるほかはないだろう。したがって、であること﹅﹅﹅﹅﹅、つまり現前﹅﹅は、単語としても概念としても十字符号で抹殺され、読まれつつも消滅する最後の記号たるほかない。外部は内部というわけだ。」

・p.169「暴力が問題になりながらも書物﹅﹅は始まったばかりであり、中断される権利すら獲得していないからである。当然、次なる模倣の契機が見出されねばならない。それにはどうするか。この無償の暴力に暴力に名前を授けるふりを装い、それが思想と記号とに帰属するがごとくに事態を進展させればよい。では、なんと命名するか。」

・p.169「と同時に、|とりあえず《﹅﹅﹅﹅﹅》とデリダが口にするたびに、ある偏差が言葉に導入される。」

・p.170「この二つのものは同じ理由によってずれ﹅﹅の関係にあり、その同一性と差異を語ることは禁じられている。」

・p.171「つまり、同じでも違っていることもできない偏差﹅﹅そのものに名前を与える儀式が行なわれるのだ。こんどの装われた命名は「ディフェランス」という記号を介して遂行される。」

 このように見てくると、さきほど上でとりあえず

・「とりあえず名づける」としたジャック・デリダの身振りは、
・「「命名」を遅延させる」とか、「「命名」を装う」

としたほうが適切だと考えられます。

 なにしろ、いったん命名しても時間の経過とともに(結果的には書物の前後において)、ずれていくのですから。

*名づけて空っぽにする


 文体を変えます。

     *

 名前、名札、レッテル。

 名付けることで名指されたものが空白になる(すり替わる、なりすましが起こる)。
 名前・名札・レッテル・代理 ⇒ 名指されたもの・そのもの・何か

 空っぽになる。ぺらぺらになる。
 からから。薄っぺらいもの。
 空=殻が「何か」の代わりになって、中は「ない」同然に「なる」。
 空=殻が「何か」になりすます。
 人はその空=殻が「から」であることを忘れる。だから、空=殻が「何か」だと思いこむ。空=殻の中に「何か」が入っていると思いこむ人もいる。すりかえに気づかない、から。

 なづける、なすりつける。
 知る、領る、痴る。
 マーキングする。
 ぺたぺた貼りまくる。

 つける、なぞる、ひたすらなぞるをくり返す。

 ところで、「AであってAではない」と「AであってBである」という場合の「A」と「B」は言葉であり文字です。
 言い換えると、「Aというもの」、「Aという言葉や文字で名指されているもの」、「Bというもの」、「Bという言葉や文字で名指されているもの」ではありません。
「A」も「B」もレッテルであり、名札なのです。名札が貼られている対象である「何か」ではない点が重要です。両者は別物なのです。名札とは、名前がぺらぺらした札(ふだ)であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
(拙文「読みにくさについて」より)

     *

 文字。

 書く行為は多対一という選択によって多を消し一を残すこと。

「書く」は「欠く」。
「書いた」ことで多を「欠いた」紙面が目の前に広がる。
「書ける」は「欠ける」。
「書けている」から「欠けている」。

 書く、欠く、消す。

 書く、欠く、消すことで、残る異物。
 文字。掻いた跡。
 人の外にある異物。

 文字だけではなく、映像もそうだろう。

 影であることを忘れた影。
 おそらく自立している影。

 影だけがしつこく残る。
 影だけがだんだんえる。

 影の先に立ったはずの人は、影に先立つ。
 個々人のレベルでも、人類というレベルでも、人は二重に影に
先立つ。

 文字と映像の共通点は薄っぺらいことです(さらに大切な点を言うと、自然物ではなく人の作ったものであることです)。実体がないのではなく、ただぺらぺらなのです。人の作るものは人に似ている。人は自分の作るものにますます似ていく。
 確かにヒトは増えていますが、それよりも文書の数がヒトとは比べものにならないほど増加しているもようです。
 なにしろ、入力と投稿と複製と拡散と保存が同時にしかも一瞬に起きている時代なのです。
 いまや、文字が文字を育てて、文字を増やすようになってもいます。ヒトはもう要らない。自分で増えていく。
 文字は殖えているのです。きっと主導権は文字にあります。人は文字を書いているのではなく、文字に書かされているのです。
(拙文「「読む」と「書く」のアンバランス(薄っぺらいもの・07)」

     *

 声。
 音声。

 話す、放す、離す。

 消えてしまうという意味では、消しながら残っている文字よりは殺伐としていないように感じられる。

 話し、放し、離したもの、消えたもの、なくなったものを、記憶の中でなぞる。ひたすらなぞるをくり返す。

 このなぞをなぞるものはいない。
 おそらく、なぞにもなぞれないなぞがある。

 話し言葉(音声)と表情と身振りは発せられると同時に消えていきます。どんどん消えていきますから、受け手はつぎつぎと現れるものを聞いたり見たりして追いかけていかないと理解できません。
 追いかけっこなのです。しかも現れる順に受けとっていく必要があります。忙しくて大変なのです。
(拙文「小説の偽物っぽさ(小説の鑑賞・07)」より)

*鏡、貨幣、書物、逆行する、裏返す


 今回の記事では、テーマを「命名」に絞りました。

 そのため「Ⅰ」と「Ⅲ」に目を注ぎ、「Ⅱ」がお留守になって残念です。「Ⅱ」でも「命名」は重要なテーマであるはずですので、いつか記事で書きたいと思っています。

 なにより残念なのは、「Ⅰ」で「鏡」と「逆行する」、「Ⅲ」で「書物」と「貨幣」と「逆行する」および「裏返す」に触れることができなかったことです。これも別の記事で書きたいと考えています。

 いずれにせよ、体調が悪いので、体と相談しながら進めていきます。みなさんも、どうかお体を大切になさってください。

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