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描写、物語、小説

 今回は、言葉による描写と写生と語り、そして物語と小説について思うことをお話しします。なお、記事の最後でも書きますが、しばらくnoteをお休みいたします。


かげ、影、陰


 かげという言葉が好きです。「かげ、カゲ、影、陰、蔭、翳、景」という字面をみているだけで、気が遠くなりそうになります。

 呼びさまされるイメージに圧倒されるのでしょうか、息が苦しくなり収拾がつかなくなるので、深呼吸をして心を静めます。

 寝入り際に、かげについて思いをめぐらすことがあるのですが、そんなときには幸せな気分になります。

 昨夜は、影と陰にについて考えていました。

 大きな木の下を夢想しながら、かげについて考えていたのです。それを思いだしながら、文字にしてみます。

言葉のかたち


 木の陰で木の影について思いをめぐらしていたのです。夢うつつの中での話です。

 まず影と陰の違いを見てみましょう。影と陰の使い分けは、例文で見るのがいちばんです。以下の例文は私が作文したものです。

・葉の落ちた地面に、木がを落としている。
・庭の池に木のが映っている。
・散歩の途中に木ので一休みした。
・犬が木で身を横たえている。

     *

 影は光をさえぎってできる、あるいは水や鏡に映った形や姿です。一方の陰は、日の当たっていない場所です。

 かげが影と陰という言葉で分かれているというよりも、かげの使い分けが漢字の使い分けにあらわれている気がします。

 まず現実での体験があって、言葉は後という意味です。本来は。

 でも、いったん言葉ができてしまうと、人は言葉から現実に入るようになります。

 とはいえ、言葉、とりわけ文字は後付けです。理屈なのです。

 事分け、言分け、たわけ。

 分けなくてもいいものを分けているのか、分けるべきだから分かれているのか。分かりません。「分け」が「分からない」

記憶の風景、記憶のかたち


 昨夜の寝入り際の夢うつつの中で浮かんだ景色を、いま思いえがいています。

 言葉にしてみます。

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 草原を歩いていると、遠くに大きな木が見えた。近づいてみると、木のそばには池がある。草の生えた地面に木がくっきりとした影を落としている。

 池には、その大きな木の先端の影が映っている。草で被われた地面に落ちている木の影が伸びて、水面に映る木の影につながっているように見えなくもない。

 どうなっているのだろうと興味を覚え、歩を進めて木の陰の中に入った。地面に映った木の影が池に映った影と重なっている。

 不思議な気持ちでそのさまに見入っていると、そばで何かが動いた気配がしてぎくりとした。

 木の陰で身をひそめていたのか、猫がこちらを見ている。灰色っぽい毛の痩せた猫だ。

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 この後に、寝入った記憶があります。昨夜と今朝の夢では影も陰も出てこなかった気がします。

写生と描写


 以上の作文は、昨夜の寝際に浮かんだ風景を思いだしながら作ったものですが、読みかえしてみると、その嘘っぽさに恥ずかしくなります。

 記憶を頼りに何かを思いえがいたり、ましてやそれを言葉にすることの困難を実感しただけでなく、そこまでして言葉にしようとする自分の執念にたじろいでしまったのです。

 影と陰について意識的になっているために取って付けたような作文になっています。いかにも作りものっぽいのです。

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 文章を書くという行為は、ふつう室内でおこなわれます。私の場合には自宅の居間でパソコンを使って書くのが習慣になっています。

 何かを、あるいは何らかの風景を見ながら、その場でノートやメモ帳にペンで書くとか、スマホに文字を入力して書くというのは想像しにくいです。

 書くことを職業としている人なら、現場で取材メモを取るでしょう。いわば言葉によるデッサンでしょう。でも、清書するのは帰ってからの屋内だと思います。

 俳句や短歌や短い詩の場合には、その場で言葉を口にして、何かに書きとめたりすることは十分に考えられます。俳句だとそのまま、作品になるのかもしれません。

(いや、そうでもないかも。印刷される前の『奥の細道』の草稿(?)に推敲の跡があった(?)とテレビの情報番組で言っていた記憶があります。たしか江戸時代の話です。あやふやな話で、ごめんなさい。)

 いずれにせよ、写生という言葉が、明治になって俳句の関係者たちの間で口にされるようになったのは、分かりやすい展開だと言えるでしょう。

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 絵画と文章を同列に扱うことはできませんが、デッサン、素描、写生、描写という共通の言葉で論じることは多いです。私もやっています。

 文章の場合に話を限れば、その場で文字にして、以後手を加えないという写生は、きわめて稀な出来事だと思います。俳句くらいのものでしょうか。

 デッサン、素描はあるでしょうが、後で清書することになります。さらには推敲もあるでしょう。

 小説、エッセイ、新聞や雑誌の記事、ブログという形で、私たちが読む文章は、現場で撮られた写真とは異なり、現場から持ち帰ったメモや記憶を元にして描かれた絵に近いと言えます。

描写、なぞる


 描写は、写す、映す、移す、撮すと言うより、事物や風景そのものではなく、その影をなぞっているのです。見て写す、つまり写生とは、次元が異なっているとも言えます。

 描写は事物を描き写すのではなく、むしろ事物の影(枠と言ってもいいでしょう)をなぞることではないでしょうか。見なくても描写できます。現場にいなくても描写は可能だし、じっさいにそういう創作がおこなわれています。

 だから、見たことがない事物や目の前にない事物でも描写できるのです。目の前にない影(枠や型や断片、つまり言葉)を寄せ集めれば描写ができます。影を集めて組み立てることが「なぞる」です。

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 意外に思われるかもしれませんが、『夢十夜』を書いたときの夏目漱石は、このことにきわめて意識的であった節があります。

 夢日記の形を取りながらも、あの作品が夢の再現では断じてないからです。細部に見られる優れた描写に目を注げば一目瞭然なのです。

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 つまり、目で見たことがない事物でも描写できます。たとえば、思いでも、です。

 その意味で、なぞるという行為は、必ずしも対象を見ているわけではありません。

 むしろ、影(言葉のことです)そのものの世界に入ってのいとなみなのです。

 影には影の文法があるようです。現実とは異なる文法にしたがって描かれるし書かれるのです。

 絵を描いているとき、もはや対象から離れて、絵を成りたたせている素材と細部、そして絵を描くための道具の「論理」と「文法」にしたがって描かれるのと似ています。

 影は自立しているとも言えます。影には影の論理と文法があるのです。

 影(言葉のことです)をよく見てください。その現物とされているものとの類似は驚くほど少ないのです。別物と言ってもいいでしょう。というか、別物なのです。

言葉の影、言葉というまぼろし


 木の影と似た言い方に樹影があります。木の影と木の陰だけでなく、木の姿という意味もあるようです。

・樹齢二百年という、そのいちょうの樹影がピラミッドに見えた。

 即席に作った文ですが、こんな使い方ができそうです。

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 木という生き物、その木の姿である樹影、その木に日の光が当たって地面に移る影、その木にさえぎられてできる陰。そうした「かげ」たちは、木そのものではありません。

 言葉は、それが指ししめしたり、名指す事物そのものではありません。その意味で、かげに似ている気がします。いわば言影です。勝手に作った言葉ですが、ことかげとか、ことえいとでも読みましょうか。

 言葉には姿があります。文字のことです。文字は形であり姿ですが、文字には音(おん)も、語義も意味もイメージもあります。

 この文字としての言葉の性質に傾いて書かれている(現在形です)のが小説ではないでしょうか。基本は「写す」です。

 音と意味とイメージは目に見えません。それなのに、音と意味とイメージには大きな存在感があります。

 この音としての言葉の性質に沿うかたちで書かれていた(過去形です)のが物語ではないでしょうか。基本は「かたる」です。

 現在は、あくまでもうつすことでかたる、というかたちで書かれる作品が多い気がします。それはそれでいいのだと思います。おそらく、なるべくしてそうなっているのです。

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 音と意味とイメージは、まるで文字の影のようですが、そんなことはなく、むしろ音が先で、文字は後付けなのです。まず話し言葉があって、書き言葉が出てきたのはずっと後のことだと言われています。

 それなのに、目に見える形としてある文字はいかにも偉そうに見えます。人は目に見えるものに信を置きます。一方で、目に見えないものに畏怖の念をいだくことがあります。

 言葉は目に見えるものでありながら(目に見えるものに傾いているのが現代の小説だという気がします)、目に見えないものでもあります(この目に見えないものに向いているのがかつての物語だと想像しています)

 具象と抽象を兼ねそなえているという言い方もできるでしょう。だから、人の外にあって、人の中に入ったり出たりできるのです。

 不思議ですね。謎です。考えれば考えるほど不思議でなりません。

複写、複製、印影、拡散


 まるでまぼろしのようです。幻影のようです。見ているようで見えていない。見えていないようで見える。

 まぼろしは見るものではなく、なぞるものではないでしょうか。なぞるのであれば、目をつむってもできそうです。

 なぞることなら、日向もなく陰もない、したがって影もない闇の中でもできそうです。

 なぞることなら、生きていない物でもできるのです。機械やシステムのことです。

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 見ていなくても、闇の中でも、描写はできます。無生物でも、描写ができます。

 まぼろしはまぼろしも描けるのです。まぼろしでまぼろしを描くこともできます。

 まぼろしをなぞる。さらに言うなら、なぞるをなぞる。ようするに、なぞをなぞる。

 これは、人の外にある出来事であって、人の中に入ったり出たりすることがあっても、つまり人がなぞることはあっても、外そのものなのです。

「外にある外である」とはニュートラルで非人称的なものとも言えるでしょう。だから、機械やAIにも文章が書けるのです。人の外にある、人の外であるとはそういうものです。

 書いていると、書いているように見えるのさかいはありません。さかいがあるのは人においてだけであり、おそらく、さかいは人の外にはないのです。

 たぶん、あらゆるさかいがそうなのでしょう。さかいは人が決めるものです。見境なく境を決めています。だから、線引きをめぐってのいさかいと争いが跡を絶ちません。

 さかいはありません。少なくとも外にはありません。分類、名前、国境、階層、序列といったものは人の頭のなかにしかないという意味です。

外にある線をなぞる


 人は自分で勝手に引いた線(枠と言ってもいいでしょう)をなぞっているだけだとも言えそうです。自分が引いたはずの線が「外にある外である」のは皮肉ではないでしょうか。これは線が自立しているからにほかなりません。

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「(人の)外にある外である」とはニュートラルで非人称的なものとも言えるでしょう。

 これは、いま始まったことではありません。写本、写経、印刷の時代から起きている出来事なのです。

(人が文字をなぞり写すのは、線からなる文字が人の外にあるからです。内にあれば、わざわざ苦労して写しません。)

 そして、複写。コピー(印影と呼びたいです)、複製。さらには、現在のコピーのコピー、複製=拡散が起きているのは、同じ理由でそうなっていると言えそうです。

 いまや、「写す」と「なぞる」は人の手に負えないものになり、人は振りまわされています。いや、これもいま始まったことではないでしょう。

 影が外にある外であるという話は、人が言葉を持ったときに始まったにちがいありません。

作られた影


 写真や映画は作られた影です。地面や水面にうつった影とはそこが違います。

 なんでわざわざ作ったのでしょう? 見るためにでしょう。何を見るためでしょう? 「そっくり」を見るためではないでしょうか。なんで「そっくり」を見たいのでしょう?

 わくわくしたいからでしょう。「そっくり」は枠なのです。わくわくする枠。

「そっくり」を見るためには、「そっくり」が正確で細かくなければなりません。解像度を高めるわけです。これは切りがありません。もっともっとになります。

 何にそっくりなのかといえば、現実にそっくりなのであり、同時にそれは人にそっくりであり、とどのつまりは、自分にそっくりなのだという気がします。

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 作られた影には特徴があります。枠があるのです。フレームとも言います。写真や映画には枠があります。うつす紙やスクリーンにも枠というか限度があります。

 無限に広がった紙やスクリーンにうつすわけにはいきません。人間、そこまで欲張ってはならないでしょう。

 映画であれば時間的な枠もあります。始まりがあって終わりがあるという制限時間という枠、つまり作品の時間ですが、これは長いものを編集したもののようです。

 たとえば、ディレクターカットとか言いますよね。完全版も聞いたことがあります。トレーラー(予告編)もあります。

 いろいろな編集が可能だけど、最終的にとりあえず作られ配給されたのが「作品」みたいです。それぞれ、長さ、つまり上映時間が異なると考えられます。

 いずれにせよ、作られた影には空間的な枠も時間的な枠もあると言えそうです。空間と時間を切り取っているからでしょう。切り取ることにより、切り捨ててもいるにちがいありません。

 やはり作りものなのです。うさんくささがつきまといます。

筋書きやストーリーのある影


 作られた影には筋書きやストーリーという枠もありそうです。筋書きとは作られたものです。物語であり、フィクションのことです。

 写真であれば目的やテーマという枠です。つまり記念写真だとか、エロ写真だとか、可愛い動物とか、報道写真とか、ブロマイドとか(死語ですか?)、カボチャの成長の記録とか、指名手配とか、漠然と「涼しげな風景」とか、キャプションみたいなのです。

 映画であれば、作品名、あらすじ、脚本、受賞歴、批評家や映画誌での評価、ジャンル、成人向けか否か、サウンドトラック……、あとが続きませんけど、いろいろありそうです。

 いずれにせよ、目的やテーマのほかに、話というかストーリーという枠があります。

 ネットなんかの動画であれば、情報カメラによる映像とか、お笑いとか、ユーチューバーの動画とか、PVとか、MVとか……、目的やテーマやジャンルや用途があります。

 ようするに、地面の影、水面の影、鏡に映った影(像)とは違って、何らかの目的やストーリーがあって作られているわけです。それが枠です。

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 鏡像というのも、じつは作られた影です。そもそも鏡は作るものです。丹念に磨きあげて作ります。かつては鏡は貴重品でしたが、作られた鏡に映る影も特別なものであるはずです。

 自然界で水面を覗きこむのとは一線を画してしかるべきだと思われます。

 鏡には枠があります。何らかの目的があって、作られているし、それぞれの目的があって各人が枠のある鏡を覗きこむわけです。目的があるのですから、その始まりと終りという時間的な枠もあります。

 お化粧、試着、顔色を見るため、歯磨き、うっとりするため、白髪を確認するため、毛の残り具合を確認するため、口内炎の状態を見るため、鼻毛を抜くため……。

 ぱっとしない目的とストーリーですけど、ドラマという枠があることは確かです。じつに人間くさいドラマです。

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 作られた影には作られたストーリーとドラマという枠がある。

 なんてまとめることができるかもしれません。したがって、筋書きがあるとも言えますし、フィクションであるとも言えそうです。

「そのまま」撮ったと言っても、ある視点から撮影したのであり、機器を用いる以上、修正と調整と加工と編集なしには撮影と再生はありえません。

 また、作意も作為もノイズもアクシデントも、撮る者の意図なしに生じるものですから、撮ったものは(写し映したものは)、どうしてもフィクション(作り物)であり、偶然の産物になります。

 こうしたことは、私のような素人がここで指摘するたぐいの話ではなく、現場で撮っていらっしゃる当事者の方々がいちばんよくご存じのはずです。

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 ストーリーとドラマは動きです。

 広い意味でのプレイ(play)、つまり演技、演劇、ドラマ、遊戯、演奏、競技、パフォーマンスがつまっているとも言える気がします。こうしたプレイの場も枠です。

 枠を、板とかボードとか盤とか画面とかスクリーンとかパネルとか額と呼んでもかまいません。⇒ 「人が物に付く、物が人に付く」

 だから、わくわくするのです。どきどきもするのです。ぞくぞく、あらら、という感じです。

 わくわくどきどきぞくぞくするところには必ず枠があります。この枠とは比喩でも、比喩でなくても、です。

わくわくする枠


 人は枠にわくわくする。わくわくするために枠をつくる。

 この世の果て、宇宙の果てるところ、時の果てるところ。果てを想う人は枠をもとめる心を持て余している。

 果てるはずのところにまで果てという名の枠をもうける、捏造する。果てしない枠への思いと想い。

 果てる、果て。動詞(用言)は枠で迷い、ためらい、名詞(体言)は枠で強引にかためる。

 枠は「ある」のではなく、決めるもの。決めて、自らはまるもの。

     *

 無限を思考するときのわくわく。自然にはないはずの枠を自然に見てしまうときのわくわく。

 わくわくする枠に人は嗜癖し依存している。

 We're framed.
 枠は罠なのかもしれない。

影に影を投影する


 作られた影には、作られたストーリーがある。そう考えると、やっぱり現実ではないわけです。作った物ですから当然です。フィクション、虚構です。

 ましてや、影が現実に一対一に対応しているなんて、まさにフィクションでしかないわけです。

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 現実は現実。現実と写真は違う。現実と映画は違う。写真は写真。映画は映画。ですよね。

 現実は現実。現実と絵画は違う。絵画は絵画。ですよね。

 現実は現実。物は物。言葉は言葉。言葉は現実ではない。言葉は物ではない。ですよね。

     *

 とはいうものの、写真や映画という人工的な影に、人は自分を投影したり、現実を投影したり、世界を投影したりするのでしょう。影に影を見ているとも言えそうです。

 影に心を投影する。影に心を投げて、そこに心の影を見る。つまり、枠をなぞる。

 わくわく、ぞくぞくする話であることは間違いありません。

筋書きも、目的も、意味もない影たち


 テレビ、映画、写真、絵画、文学、美術、映像、動画――こうしたものは人が現実の影、つまり現実と「そっくりなもの」(「同じもの」の代りです、「移す」代わりに「写す・映す」のです)を求めて作った影です。

 目的があり、ストーリーやドラマ、つまり意味という名の枠のある影です。だからぞくぞくわくわくするわけですが、これだけ意味(枠)に満ちた影に囲まれて生きていると疲れることがあります。

 外に出て、たとえば木々が地面や水面に落とす影たちを見るとき、ほっとする自分がいることも確かです。

 その影たちには枠(意味)がないのです。ストーリーも目的もありません。ただそこに「ある」あるいは「いる」だけです。

     *

 外に出なくても、屋内でまわりを見まわせば、意味のない影たちがいます。さまざまな家具や製品という人工物の影のことです。いま私のいる居間にはいろいろな光源があり、いろいろな物たちがあちこちに影を投げたり落としています。

 映ったり写ったり移ったりする影たちもいます。誰かが動けば、何かが動けば影は移ります。揺れます。時の経過とともにもうつります。そうでなくても、つねにかすかに震えているのが分かります。

 そこには筋書きもドラマもありません。

 空(そら・くう・から)に目を向けても、果てなんていう名とイメージの枠はありません。

     *

 意味に「つかれている」からでしょうか。私は最近、意味のない影たちの意味のない揺らぎに心を動かされます。ほっとするのです。

 影を前にして、人は迂回するしかなさそうです。おそらく言葉という影にまどわされながら、でしょう。

 人が(に)先立つ影に、人が導かれるはずがありません。人は影には追いつけません。気づくのにいつも遅れるのです。全体像を目にすることさえできないのです。

 文字を影にたとえるなら、文字に先立つ人を、文字が見送るという光景です。影におくれるしかない人は、影におくられるのです。

 ぼけーっと影をながめながら生きる。これは人に備わった健全な知恵だと思います。さもなければ壊れるでしょう。だから、ぼけーっとしているのです。きっと夢のなかでうつつという影を見ているのです。

小説から物語へ


 最近、小説を読むのが苦痛でなりません。小説と言っても、いろいろな小説がありますが、いま私の頭にあるのは描写に傾いた文の多い散文のことです。

 文学史的な見取り図はさておき、物語から小説へという流れはあっただろうと想像します。

 説話、神話、昔話、言い伝えといったものを物語とするなら、そこに「ないもの」(小説が当たり前のいまから考えると「欠けているもの」でしょう)は、描写だと思います。

 たとえば『源氏物語』は、たぶんに、いま私の話している物語に近いものだと思います。

 以前に谷崎潤一郎訳の『源氏物語』で読んだだけですが、明治以降に書かれた小説に見られる描写という意味での描写がない気がします。

 物事に視覚的な枠を当てはめていないというか、聞いた話(伝聞)、伝わっていた話(伝承・口承)という意味での枠はあっても、そこには、いまでいう描写や、まして写生はないように私は感じます(むしろ挿入される和歌など「歌」の部分に描写や写生を感じます)。

 そのためか、影も陰も姿も像も反射も、そして光も「かげ」(言葉としての「かげ」です)として、そこにはあるように思えます。

 そんな言葉のありように、ほっとする自分がいます。

 いま柳田国男の『遠野物語』を読んでいるのですが、その書かれ方に惹かれます。小説を読むのが苦になっている自分には、その書かれ方(ストーリーや内容ではありません)が刺激的に感じられてならないのです。

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 果てに来て 影に送られ 雲疾し

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 物語を読むためというわけではないのですが、しばらく読書に傾注したいと思います。

 そんなわけで、noteでの活動はしばらくお休みしますので、よろしくお願いいたします。

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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