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見えない反復、見える反復(反復とずれ・02)

 人において、反復と「ずれ」(差違)は別個に起こるものではないし、対立するものでもないのではないか。そんな話をします。ややこしそうに聞こえるかもしれませんが、歌や詩を例にして具体的に話すつもりです。


見えない反復、見える反復


 唱歌「故郷(ふるさと)」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞)です。

 この歌では、ある反復が起こっているのですが、それは聞き取れるでしょうか? つまり、反復をずれとして聞き取れるでしょうか? 

 また、歌詞の字幕を見て、反復が見えるでしょうか? つまり、反復をずれとして見ることができるでしょうか?


     *

 うさぎおいしかのやま
 こぶなつりしかのかわ
 ゆめはいまもめぐりて
 わすれがたきふるさと

 十音節。十文字。音節の数が――文字にすれば文字数が――見事に一致しています。同じ音節数の列(文字にすれば線状のかたまり)が反復されているのです。

     *

 ひらがなで入っているような歌詞があります。ふいにあれよあれよと出てくるのです。声に出して歌っても、心か頭の中に浮かぶだけでも、漢字をまじえた文字として意識することはありません。

 強いて言えば、丸っこい字面のひらがなで入っていて、ひらがなとして出てくる感じなのですけど、たぶんそのひらがなという文字さえない気がします。

 音だけ。きっと聴いて覚えたのでしょう。譜面や歌詞カードを見ながら覚えたのではありません。

 文字と意味は後付けなのです。

 もともと言葉は無文字だったはずです。個人としての人にとっても、種としてのヒトにとっても、初めはそうであったはずです。

 いま思えば、幼い頃に歌い覚えた歌は、いま考えれば日本語であったり外国語であったりしますが、旋律に乗って口をついて出てくるその言葉は、遠い昔に入ってきたときの名残をとどめています。

 つまり、意味の分からない言葉、意味を知らない言葉という様相を帯びているのです。意味を知らないままに自分のなかに入ってきた、そのときの記憶がふとよみがえる瞬間があります。

 私にとっては懐かしく幸せなひとときです。

反復は差違としてしか感知されない


 それにしても見事ですね。文字にすると音節数と文字数がぴったり合うことが「見える」のです。しかも、それがくり返されていることも一目瞭然なのです。

 こんなことは聞いているだけでは素人には分かりません。漢字まじりの歌詞を見ていても、まず分からないでしょう。

 十音節。十文字。これが反復されています。この「反復」が「ずれ」(差違)として聞き取れなかったり見えないかぎりは、「分からないし知らない」と言えそうです。

 反復は「ずれ」(差違)としてしか感知されない。この点がとても大切だと思います。

     *

 もう少し、いじってみます。

 うさぎおいし かのやま
 こぶなつりし かのかわ
 ゆめはいまも めぐりて
 わすれがたき ふるさと

 さらに、意味の区切りが揃っていることにも驚かされます。

 六音節+四音節。六文字+四文字。この調子で三番まで続くのです。これもまた、素人には、おそらく見てこそ分かるのです。

 こんな素晴らしいものが自分の中に入っていたのですね。そしてふいに、あれよあれよと出てくるのですね。

 私がすらすらと歌えるということは、何度も何度も繰り返して歌い覚えたからにちがいありません。でも、同じ数の音節のつながりがくり返されているなんて、考えたことも、まして薄々感じたこともないのです。

     *

 どうやって覚えたのでしょう?

 この歌を歌い覚えた幼いころには、きっと漢字のまざった日本語として覚えたのではないはずです。

 音のつらなりとして聞いて、真似て、唱えて、覚えたはずです。これは頭というよりも身体で覚えたと考えられます。言葉でありながらリズム(動き・強弱・長短・振り)とか旋律(流れ)なのです。

 こうした反復(リズム・旋律)は反復されることによって、「ずれ」として、人に入ってくると考えられます。

定型詩の暗唱


 幼い頃に歌い覚えた唱歌のほかに、私のなかには次のようなものが入っています。もっと大きくなって学生時代に覚えたものです。


 Il pleure dans mon cœur 6音節
 Comme il pleut sur la ville ; 6音節
 Quelle est cette langueur 6音節
 Qui pénètre mon cœur ? 6音節

 フランス語の定型詩の約束事にそって音節の数が揃っています。ただし、韻(脚韻)に関して言えば定型に即してはおらず、そこそこ踏んでいる感じであり、ようするに破格なのです。

     *

 私は大学時代に、福永武彦先生にフランス語の詩を読む手ほどきをしていただいたのですが、先生が詩の音節を数えるさいに詩を音読しながら右手の指を折っていらした様子をいまでも覚えています。

 西欧の定型詩における音節数と韻は、日本語の定型詩における七五調に相当するなんて、学校で習った覚えがありますが、私には別物に思えます。両者が似ているとも思いません。

 引用したヴェルレーヌの詩はもっと長いのですが、原文を音読すると心地よいことは確かです。

 その心地よさが反復から来ていると考えれば、ぜんぜん似ていない西欧の詩のレトリックと日本語の詩歌の定型が近いような気もしますが、それでも納得はしていません。やっぱり、両者は別ものであり、異なり、ずれているのです。

     *

 この詩は学生時代に福永先生ではなくフランス人教師の授業で暗唱させられました。いまでも口をついて出てきます。そのフランス人は音節を数えるさいに、詩を唱えながら、右手の人差指で、開いた左手の指の腹を押さえるようにして数えていました。

 いま思うとその仕草は、日本人が俳句や短歌をつくるさいに指を折って音節を数える仕草に似ています。

 言葉として、とりわけ音声として反復されるものは必ずしも見えるわけではないし、容易に聞き取れるものでもない。むしろ、身体で感じ取るものだ――。

 そんな気がします。だから、指を折ったり指を押さえたりして、反復を確認するのでしょう。きっと体に聞かないと分からないのです。

     *

 いま、「口をついて出てくる」と言いましたが、次に何が出てくるかも分からずにあれよあれよと出てくるのです。出してみないと何が自分のなかに入っているのかが分からないという感じ。

 音の連なりだし、文字にするとはじまりとおしまいのある文字列ですから、おそらく線状であり直線状だと思います。その意味では小説と同じなのです(詳しくは拙文「直線上で迷う(線状について・01)」をご覧ください)。

見事な職人芸


 これが暗唱というものなのでしょうが、不思議でなりません。考えていると気が遠くなります。

 フランス語の授業ではやたら暗唱をさせられるのです。詩だと一編丸ごと、小説や戯曲や論文や哲学書だと一節という具合にです。それがフランス語教育の伝統みたいです。

 この暗唱で、大切なことは身体をもちいた反復であることです。受け身的に、ただくり返し見ている、ただくり返し聞いているだけでは、不十分であるどころか、見当違いだというべきでしょう。

 私は漢文には無知なのですが、かつて広くおこなれていた漢文の素読とそれに続く(次の段階としての)、読み書きを含む漢書の学習は、そうした身体的な反復学習だったのではないかと想像します。

     *

そればかりか、他の類書に見られない新たな趣向がこらされている。視覚的、あるいは聴覚的にフランス語へと接近するのではなく、もっぱら手を動かして、つまり書くことによって肉体的にそれを同化すべく作られている。(……)これらの文章をただ盲滅法に書き写して、ついには原典を見ずに全文がすらすら書き綴れるようになってほしい。(……)いずれにせよ、訳すことよりは、これを暗記して書けるようにすることが重要である。
(蓮實重彦『フランス語の余白に』p.ii・朝日出版社・丸括弧による省略と太文字は引用者による)

     *

 私は高校時代に澁澤龍彦(そして森有正)に傾倒し大学でフランス文学を学んだのですが、当時よく読んだフランスの作品の訳者に堀口大學がいました。堀口訳のジャン・ジュネ作『薔薇の奇蹟』も忘れられない作品です。いまは新訳が出ているのですね。

 堀口大學の名前を出したのは、上で引用したポール・ヴェルレーヌによるフランス語の詩を堀口大學が訳しているからです。原文と同様に冒頭だけを引用します。

 ちまたにあめの ふるごとく
 わがこころにも なみだふる
 かくもこころに にじみいる
 このかなしみは なにやらん

 これはいわゆる七五調で訳してありますが、フランス語の定型詩(韻文)を日本語の定型詩(韻文)に、うつした、映した、写した、移したとも言えるわけで、こういう職人芸のような翻訳が好きです。ただただ素晴らしい……。

 翻訳とその原文とは、とてもよく「似ている」し「そっくり」だとは思いますが、「同じ」には見えません。かなり「ずれている」のです。あくまでも別物です。「ずれている」と「似ている」(「そっくり」も)とが矛盾しないことを体感するのに翻訳は適していると思います。

 七音節+五音節。七文字+五文字。これが反復されています。見えない反復(音節)と見える反復(文字)です。

 大切なことなのでくり返します。反復は「ずれ」(差違)としてしか感知されないのです。

 巷に雨の降るごとく
 わが心にも涙降る。
 かくも心ににじみ入る
 このかなしみは何やらん?  

 七五調は慣れた人や訓練を受けた人には、初めて耳で聞いただけでも、または上のような漢字混じりの表記で初めて読んでも、すぐにその語調が感じとれるにちがいありません。

 おそらく日本語のリズムとして身体に入っているのだろうと想像します。

まとめ


 今回の記事でいちばん言いたいことを書きます。

     *

*人にとって、学習する前の、言葉(音声・文字)は、音と形と模様でしかない。文字と意味は後付けであり、ヒトだけに通用する、学習の産物とも言える。

*学習(まねる・なぞる・くりかえす)とは身体(とりわけ手と指と口)をもちいておこなう能動的な行為である。頭だけでおこなう受動的な行為ではない。

*たとえば、幼い頃に歌い覚えた歌は最初は音の連なりでしかない。その意味や七五調(七音と五音の反復)や韻(同音や類似の音の反復)は、その反復(反復されるもの)を反復しながら、「ずれ」(差違)として、くり返し真似ないかぎりは感知できない(見えない・聞こえない)。

余白に


【※以下は、蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』所収の「ジル・ドゥルーズ――エディプスと形而上学」の余白に書く文章として書きました。この連載は、この「ドゥルーズ論」の読書感想文として書いているものでもあります。】

     *

 見えない反復/ずれ・見える反復/ずれ、聞こえない反復/ずれ・聞こえる反復/ずれ、感知できない反復/ずれ・感知できる反復/ずれ。

 反復と「ずれ」(差違)――。

 音声の連なりや文字列の反復(くり返し)と「ずれ」は、別個に起こるものではないし、対立するものでもないと思います。強いて言えば、フラットな関係(表でも裏でもなくひたすら表でしかない関係)にあると言えそうです。

 反復されるものは反復されるさなかに、「ずれ」(差違)としてしか人に感知されません。

     *

 人は「似ている」と「ずれている(異なる)」を基本とする印象の世界に住んでいます。「同一」は道具や器械や機械をもちいないかぎり、人には判断できません。「同一」かどうかの判断を、人は道具や器械や機械にまかせている(丸投げしている)という意味です。

 とはいうものの、そうした外部のものに「同一」についての判断をゆだねたとしても、その結果の最終的な判断は、人が「似ている」と「ずれている(異なる)を基本とする印象の世界においてくださなければなりません。

「同一」物の反復は人にとってはありえないし(機械においてはありえても)、おそらく感知されないと思います。つまり、人にとって「同一」や「同一物」は、そしてその反復は、ありえない抽象でしかないのです。

     *

「と」、とは、明確な境界線の明示を使命として持ち、並置された二要素のみだりな溶解や性急な二者択一、一方から他方への演繹または帰納、あるいは弁証法的な対立関係を先験的に生きるものではない。ドゥルーズの言葉が、最終的に希薄さをめぐる希薄なディスクールたらざるをえないことの独創性は、二つの名詞の意味そのものではなく、そこには介在する接続詞があたりに波及させがちな錯覚そのものの中に身を置き、錯覚ならざるものが占めうる場と条件とにその分析が向けられているからである。
(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房刊・p.63)

ドゥルーズは、この書物に限らず、あらゆる著作のうちで、接続詞のうちでも最もありふれた、それ自体としては宙吊りの状態を露呈しつつ機能するしかないあの徹底して非人称的な「と」に固執することによって、結局は何ものかの反映と戯れるしかない体系と、濃密性の神話とに訣別し、進んで拡散の側へ、希薄さの側へと身を埋めていくのだ。

「名詞」と「接続詞」
 そうした観点からみると、『経験論主観性』(五三年)いらいのドゥルーズの著作の大部分が、『ニーチェ哲学』(六二年)『マルセル・プルーストシーニュ』(六四年)『差違反復』(六九年)『資本主義精神分裂症』(七二年)といった具合に、むしろ投げやりと思える簡潔さで並置の接続詞とを含んでいることの意味が、多少なりとも把握しうるように思う。
(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房刊・pp.63-64)

(つづく)


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