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振りまわされる(線状について・05)

 この記事では、ミシェル・フーコーとノーム・チョムスキー、およびジャック・ラカンの動画と、古井由吉と蓮實重彦の作品と著作からの引用文を題材にして、生きていないものの身振りに「振れる」行為について考えてみます。


Ⅰ 人の身振りに振られる


 最近、ぼーっとしながら見ている動画あります。ぼーっと見ていると、なんとなく楽しいのです。

ミシェル・フーコー、ノーム・チョムスキー

 以前はミシェル・フーコーとノーム・チョムスキーの対談を、よく見ていました。


 私は中途難聴者で、三十代から難聴が進行し、いまでは補聴器なしではほとんど聞こえないのですけど、この種の動画は英語の字幕で見ています。

 とはいうものの、英語はけっして得意なわけではありません。

     *

 得意でもない英語の字幕と、ふたりの表情や仕草、その場が醸しだしている雰囲気や緊張感をぼーっと眺めているだけです。それでも、けっこう楽しめるのです。

 もちろん、何を言っているのだろうと考え、字幕の英語の単語を目で拾うこともありますが、ややこしそうなので、そのうちにやめます。

 ぼーっと見るのに限ります。

     *

 うわの空ですから、別のことを考えているのが大半かもしれません。集中力がないほうなので長くは見ていません。

 ぜんぶ見たことはありません。断片的に見るだけです。

 ですから、何を言っているのかぜんぜんわかりません。それでも快いので見ていました。

ジャック・ラカン

 話をもどしますが、このところ見ているのが、以下のジャック・ラカンの動画です。もちろん、英語の字幕で、です。

 真剣に読むことなどできません。ぼーっと眺めています。まばらにまだらにという感じ。これが、まばらでまだらな私にとっての自然体なのです。

 ときどき単語というか文字列を拾って、何を言っているのだろうと想像するのも楽しいです。


 話は聞こえませんから、話し振り、手振り、身振り、顔芸を楽しみます。ふと気がつくと、同じような振りや顔つきになっている自分がいます。

 会ったこともない人です。というか、そもそも見ているのは生身の人間ではなく、液晶画面で見る動画でしかありません。つまり生きていないもの(映像)を相手にしているのです。

 それでも、振れている自分がいます。

ともぶれ

 人と人、人と物、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、ともに、ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる、ぶれる、ゆれる。

 向こうにあるのは振りだけ。こっちにあるのも振りだけ。

     *

 振りだけ――このことについては「振り(線状について・04)」という記事で書きましたので、よろしければお読みください。動画だらけの記事なのですが、動画はぼーっとしながらご覧いただいて、いっこうにかまいませんので。

振る、振れる、振られる

 ラカンの動画をぼーっと見ながら、その振りに振れている自分を感じながら、最近ふと思ったことがあります。

 私は振られているのではないか。そんな思いなのです。

 しゃべっている人が映っている動画だとはいえ、その身振りや手振りや表情という「振り」に振られている私が、何かが分かったとか、理解できたとか、ましてや悟ったという状態にないことは確かです。

 振りを目にしただけで、分かったり理解したり悟ったりできるわけがありません。私はそこまで楽観的でもないし欲深くもないつもりです。

     *

 話されている言葉が分かっているわけではない、字幕を見てはいるものの読んでいるわけではない。また、その人の身振り、手振り、顔の動き、表情は、私にとっては異国の人のそれであり、生まれ育った環境で馴染み親しんでいたものではありません。

 しかも、相手にしているのは映像(生きていないもの)であって、人ではないのです。

 この無い無い尽くしの状態で、振りに振れている。

 私は振られているのです。

 じっと見つめているラカンさんに私が振られた、と言えば、別の意味に取られかねませんが、そのニュアンスとイメージを含んでの「振られる」についていま考えています。

Ⅱ 文字の身振りに振られる

空振り

 文字は物です。生きていないものです。生きていないのに生きた振りを演じます。それは人が読むからにほかなりません。

 もしも、地球上からヒトが消えたとすれば、文字を読むものがいなくなりますから、文字はもはや振りを演じることはありません。

 空振りです。ヒト以外に読むものがいないかぎりは、永遠の空振りでしょう。

     *

 なお、いま上に書いた部分をご覧になるとわかりますが、「線上について」というこの連載では、「宙吊りにする、着地させない」という記事を書き改めています。

生きた振り、死んだ振り

 文字は生きていないのに、見る人の前で、生きた振りを演じます。死んだ振りもします。

 読まれない文字は、死んだ振りをしているのです。文字はその姿が人の目に映っても、その振りが目に映らなければ空振りだと言えます。

 この死んだ振りと空振りを、仮死とも呼ぶことができると思います。

 人が文字ではなく、文字の向こうに目をむけているときにも、文字は死んだ振りを演じていると言えそうです。

 生きていないから、生きた振りができる。生きた振りができるから、生きた振りをしながら死んだ振りもできる――。そこにあるのは、振りだけなのです。

動詞を揺さぶる、動詞を宙吊りにする

 このところくり返し読んでいる作品と文章があります。

 古井由吉の書いた『杳子』『妻隠』(つまごみ)(新潮文庫)、蓮實重彦の書いた「批評、あるいは仮死の祭典――ジャン=ピエール・リシャール論」(『批評 あるいは仮死の祭典』所収・せりか書房)、やはり蓮實重彦による「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差違と反復』を読む」(『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収・河出文庫)です。

 くり返し読むといっても。はじめから終わりまでを通して何度も読むわけではなく、その時々で気になる箇所を何度もながめている、さらに言うなら、まばらにまだらに見ているというのが、正確な言い方だと思います。

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『杳子』では、「見る」「見える」「目にしている」と書かれていても、それが必ずしも「見ていない」し、「見えていない」し、「目にしていない」と感じられる描写が多々あります。

『妻隠』では、「見る・見える」ことが、まわりの世界の異物性の確認であるような描写が目立ち、そのいっぽうで「聞く・聞こえる」ことが、世界を生き生きと思いえがく行為になっていると感じられる描写が目につきます。

 さらに『杳子』では、「感じる・感じ取る」という行為が、事物の力に向けられているという特徴的な描写がいたるところに見えるのです。

『杳子』と『妻隠』は、いま挙げた動詞の通常の語義や意味やイメージを揺さぶる、あるいは宙吊りにするという点で、私にとってはきわめて刺激的な作品だと言うことができます。

     *

 いっぽう、蓮實重彦による上述の二本の文章を読んでいると、動詞にかぎらず、名詞、さらにはあらゆる品詞の言葉の通常の語義や意味やイメージを揺さぶり宙吊りにするという、言葉の身振りがほぼどのセンテンスにも、見られる気がします。

揺さぶり宙吊りにする言葉の身振り

 以上、総論ばかりを述べていたので、具体的な例を挙げてみます。

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 以下で、『杳子』から引用するのは、谷底での二人(作品の視点的人物である「彼」と杳子)の出会いののちに、杳子の語った話が伝聞として彼の視点から記述されている箇所です。

誰かが上のほうに立って、彼女の横顔をじっと見おろしている、その感じが目の隅にある。たしかにあるのだけれど、それが灰色のひろがりの、いったいどの辺に立っているのか、見当がつかない、見当がつかないから顔の動かしようもわからない。 
(『杳子』p.15『杳子・妻隠』新潮文庫所収、以下同様)

 この杳子の発言ですが、見ているとか見えていると言えるのでしょうか。私は二回くり返されている「見当がつかない」に注目します。見当識という言葉を連想するからです。

 見当識を簡単に言うと、「ここはどこ?」、「いまはいつ?」、「どちらさまですか?」という感じの、障害と言っていい状態を指す語です。認知症について語るときに、よく出てくる言葉です。

 重症のうわの空状態とも言えるかもしれません。

「見当」は古井由吉がよくつかう言葉で、もうろうとした状態を描写したり説明するときにもちいられます。

     *

 次も『杳子』からの引用です。

河原に立ったとき、彼女は谷底にのしかかる圧力を軀にじかに感じ取ったという。
(p.16)

「という」からわかるように、ここも杳子の言葉が伝聞として記述されている箇所です。

「感じ取った」のが「圧力」つまり「力」、しかも方向性をもった「力」であることに注目したいです。この伝聞からなる部分には、「感じる」と「力」のバリエーションの語句が頻出します。

 方向というと、さきほど述べた見当と似た言葉ですが(「見当」を辞書で引くとわかりやすいでしょう)、ここでいう方向性とは、何か(どこか)から別の何か(どこか)へと働きかけるという意味です。

 杳子は方向性をもった力を感じ取る人物として描かれているのです。見ることは見る、見えることは見えているのですが、対象の像を見ると言うよりも、対象の姿から対象に内在する力を感じ取ると言えます。

「感じ分ける」ではなく「感じ取る」です。感じ分けるのは、むしろ「彼」のほうでしょう。

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 杳子の場合には、見ることによって方向性をもった「力」を感じ取っています。その物が動きそうな、あるいは働きかけてくる気配という感じでしょう。その物に内在する方向性や志向性(指向性)という言い方もできそうです。

 視覚的な像は言葉にしやすいですが、気配や方向性・指向性を言語化するのは至難のわざなのかもしれません。

「何と言ったらいいのだろう」(p.15)、「してしまうみたい、そんな風……」(p.15)、「そんな気がした」(p.15)、「どう言ったらいいのかしら」(p.18)、「遠い遠い感じで」(p.19)。

 このように杳子の口調はきわめて歯切れが悪いのです。

「そんな感じ……。それともすこし違うみたい」と杳子は言い、今度はほとんど正反対なことを喋しゃべり出して、彼に首をひねらせた。
(p.19)

 しどろもどろだとも言えます。本人も相手も苦しいでしょう。

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 言語活動(とくに文字を書くこと)と視覚(見る)は親和性が高いと思います。

 いっぽう、心(感じ取る)は言語化が困難であり、言語活動のなかでは声で語るよりも、むしろ、流れるように声でうたう(歌う、唱う、謡う、詠う、詩う)という形で、ほのめかしたり、心や身体に働きかけてうったえる方法を得意としている気がします。つまり、詩の方法です。

 杳子は言葉を記したり言葉を奏でたりする(うたう、詩う)のに長けた人物としては描かれていません。そして、それは散文であるこの作品では必然だと私は思います。

 言語化が困難な対象をあえて言葉で描写するのが、この小説の主眼となっているからです。流れるような書き方が選ばれていないという意味です。

 見損じる人でありながら、ある程度言語化できる「彼」の視点で、感じ取り損なう人であるうえに感じ取ったものをうまく言語化できない杳子との交流を記述する。杳子の名から取った『杳子』は、そんな小説なのだと私は思います。

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 以上、三箇所だけの引用を例にして恐縮ですが、今回私が指摘したいのは、『杳子』のあちこちに見られる動詞(とりわけ「見る・見える」と「感じ取る」)の失調なのです。

 いま述べた『杳子』で見られる動詞の失調は、次に引用する「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差違と反復』を読む」の冒頭の大一文で見られる言葉の身振りとよく似ている。私にはそう思えてなりません。

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「1――洞窟の怪物」という大見出しの次に「黒さの深まりと浮上」という太文字の小見出しがあり、以下の一文が見えます。

 洞窟の淀んだ湿りけがなにやら不吉な重みとして肩に落ちかかり、肌にまといつく黒々とした冷気となって迫ってくるあたりで思わず足をとめ、全身をこわばらせにかかる暗さをぬぐい落とすように瞳をこらすと、わずかにしなやかさをとどめていたはずの視線までが、周囲の薄明かりにようやく馴れはじめたというのに、もうそこからさきはもののかたちを識別する機能を放棄してしまって、距離感も方向の意識をも見失ったまま曖昧に漂いだすばかりで、だからそんなとき、目の前にぽかりと口を拡げた暗黒の深淵に対して、ひたすら無気力な対応ぶりしか示すことができない。
(蓮實重彦「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差違と反復』を読む」(『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収・河出文庫)p.75)

 ここで書かれているのは、視線が、そのもっとも主要な働きである「もののかたちを識別する機能」を放棄してしまったさいの失調の描写だと要約できるかもしれません。

 さらに、その主要な機能を放棄してしまった視線は、「距離感も方向の意識をも見失ったまま曖昧に漂いだすばかり」とあります。

 単純化すると、視覚が本来の視覚の機能を失っているとか、見ているのに見ていない、見えているのに見えていない状態であるとも言えるでしょう。

 いまの私の文では「AなのにAでない」という言い回しが見られますが、これはAを揺さぶろうとし宙吊りにしようとしている言葉の身振りです。

 私好みの言い方に置き換えると、「見る・見える」という動詞が揺さぶられている、そして宙吊りにされているとなります。

 以上の私による置き換えが、上の引用文についての私の感想にすぎないのは言うまでもありません。

反復されながらずれている

 AなのにAではない――こうした事態が起きているのは、Aの代わりにAではないもの(Aとは別のもの)をもちいるという基本的な身振りがあるからです。

 言語活動のことです。誰もが日々経験していることです。いまの私も、この文章を読んでいるあなたも経験しているさなかにあるはずです。

 Aの代わりにAではないものをもちいる。
 AなのにAではない。

 こうやって並べてみると当然のことに思えてきます。二つの文のあいだに「だから」という言葉を置きたいくらいです。

「AなのにAではない」の前者のAと後者のAはずれています。「ずれ」があるわけですが、このずれを差違と呼ぶこともできるでしょう。

     *

 前者のAは言葉、後者のAは事物や現象――。そんなふうに分けることもできるでしょうが、分けて分かるたぐいの話だとは思えません。かといって、「AなのにAではないのなら、BやCやDなのか」という話でもないでしょう。

 このずれの身振りこそが大切だからです。差違と反復――。反復には必ずずれがともなう、という言葉の身振りです。なお、このずれは人の側のずれにほかなりません。生きていないものである言葉の側にずれはありません。

     *

 反復されながらずれている。

 こうした事態は人の生活や人生において多々あります。常時あると言ってもかまわないでしょう。誰もが生まれ落ちた瞬間に、そうした振りが基本としてある世界に放り込まれているからです。

「反復されながらずれている」というのが、蓮實重彦による「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差違と反復』を読む」(『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収・河出文庫)から受ける言葉の身振りです。

「反復されながらずれている」、これは反復(反復の反復でもあります)とずれに満ちた古井由吉の『杳子』に感じる言葉の身振りでもあります。

振る、振れる、振られる


「見る・見える」という言葉があると、人は「見る・見える」という不動で疑う必要のみとめられない確固とした行為があると思いがちです。

「見る・見える」には、「見ない・見えない」という状態や状況も含まれていることを、「見過ごす」、「見逃す」、「見損じる」、「見損なう」、「見まちがえる」わけです。

 こうした事態は、たとえば「聞く・聞こえる」や「感じる」でも起こっているにちがいありません。そうはいっても、ここでは、嗅覚や味覚や触覚(触感)や気配にまで話を広げるつもりも余裕もありません。

 ましてや、五感や知覚機能に関連する動詞以外(たとえば、書く、話す、歌う、歩く、走る、考える……)にまで大風呂敷を広げる予定もないです。

     *

 話をもどしますが、「振る、振れる、振られる」という言葉とそのイメージにだけ、ささやかで地味なかたちで、疑問を投げかけてみたいと思います。

 では、いきます。

「振る・振れる・振られる」なんて言葉が並べられると、そういう行為があるように感じられますが、文字どおり振りだけなのです。

 振らない、振れない、振られない、振り損なう、振り損じる、振られ損なう、振られ損じる、振りまちがう、振られまちがう、振りのがす、振られのがす、振りまわされる、なんてことがありそうです。

 まちがっても、私の書いた振りだけの文章に付きあって、振れ損なわないように気をつけてくださいね。

 それよりも、私の引用した文章の断片や、その文章の出典である原文の言葉(ここでは文字であり、生きていないものです)の身振りとともに、ぜひ振れてみてください。

Ⅲ 振りに振りまわされる

最強の言葉の身振り

 固有名詞(とりわけ人名)も言葉(生きていないものです)にほかなりません。

 人名という固有名詞という言葉(生きていないもの)の身振りの放つ光は強く、まばゆいです。まわりにある言葉を見えなくするほどの強さがあります。

 そんなまばゆさを利用することができます。人名(ただし有名人の名前でないと効果はありませんが)を文章に混ぜたり、タグを付けるだけで効果があります。

 この記事がいい例です。ビッグネームを引用する行為は、必然的に「人の褌で相撲を取る」とか「虎の威を借る狐」に似た身振りを呈します。いい悪いに関係なく、です。その身振りに意識的であるか無意識であるかの違いはあっても、誰でもやっていることですから。

 大切なのは振りなのです。なんと言っても振り。
 振りとは、やってる感だけとか、スピード感をもってというときの「感」であり、○○らしいの「らしい」、○○っぽいの「っぽい」だといえば、実感しやすいかもしれません。
     *
 実体とか実態なんて(そんなものがあればの話ですけど)、関係ありません。
 レストランのウィンドウに並んでいる食品サンプルを見てお腹が鳴るとか、雑誌の写真やネット上の動画を見て、そそられる(もよおす)場合を想像すると、これまた実感しやすいかもしれません。
 それが「振りだけ」なのです。
     *
 リアリティや臨場感に、実体はかならずしも必要ではない。これがもっとも大切な点です。振りには実体が要らないのです。
 素振り、身振り、手振り、口振り、顔振り。フリフリ。
(拙文「振り(線状について・04)」より)

     *

 固有名詞、とりわけ人名、なかでも有名人の名前という言葉(生きていないもの)の身振りほど強いものはありません。

 ただ有名人の名前を出すだけで、人は飛びつきます。

 最強の言葉(生きていないもの)の身振りだと言えそうです。 

     *

 有名人の名前の演じる言葉の身振りに、振りまわされないように気をつけましょう。

 そうです、生きていないものである言葉はあくまでも振りを演じているのです。振りまわされるのは人の勝手であり、自業自得なのです。

 文字は物です。生きていないものです。生きていないのに生きた振りを演じます。それは人が読むからにほかなりません。

 大切なことなので、もう一度言います。この記事(生きていないものである文字からなる文章)がいい例です。

 実感してみてください。じっさいに振れてみないとわかりません。この記事は振りだけなのです。

擬人、人に擬する

 これまでの文章で、「生きていないもの」というフレーズがくり返されていたことにお気づきになっていると思います。くどいくらい反復しました。

 なぜ、何回も何回もくり返したのかと言いますと、つい忘れてしまうからです。忘れがちなのは、ひょっとすると私だけなのかもしれませんが、とにかく私はしょっちゅう失念します。

 何をって、人の映像が生きていないものであり、人の書いた文字が生きていないものであり、人の名前が生きていないものだということです。

     *

 ところで、あなたは愛する人の写真を踏めますか? 大切な人の名前の書いてある紙を踏んだり、ハサミでずたずたに切り刻むことができますか?

 私にはできません。

 人が写っている写真には、その人の「何か」が宿っていると感じているからです。たとえば、大切な人の写真を見ていると、その人の声がするとか、その人の身振りが重なって見えることが私にはあります。

 人が映っている動画でも同じです。

 名前でも同じです。名前には「何か」が込められているし、宿っているとさえ私は感じます。

 生きていないのにです。

     *

 これは生きていないものである写真や名前、詳しく言うと、像・姿・形がうつっている紙が生きていないものであっても、生きたもの(ここでは人のことです)の気配を感じるからです。

 その気配を振りと呼んでもいいと思います。

 生きていないものに、生きているものの気配を感じて、それに反応する。これは、ともぶれ、つまり、ともに振れる行為なのです。

 擬人とも言えるでしょう。

     *

 ここでは詳しく触れませんが、ヒト以外の生きているものにも、ヒトはヒトを感じることが多々あります。

 これも擬人だと言えそうです。

呪術の時代


 生きていないものに生きたものの「気配や振り(素振り・身振り・表情・顔)」を見たり感じ取るというのは、呪術と呼ばれているものにきわめて近いと思います。

 呪術の定義はいろいろあるようですが、私は「働きかけ」だと考えています。

 対象が何であれ、その対象に「働きかけてくる力」を感じる。さらには自分からも働きかけようという気持ちになる。そんなふうにイメージしています。

     *

 人類は一貫して呪術の時代に生きていると私は考えています。現代と呼ばれる、いまも人類は呪術の時代に生きているという意味です。

 そして、それはぜんぜん恥ずべきことではないと思います。そもそも人類から呪術を取ったら何が残るでしょう。

 絵、形・姿・模様、しるし・記号・標識、文字、数字、数値、数量、人形、声、音、物語、小説、写真、映画、動画、人工知能、仮想現実――こうした生きていないものに、同類であるヒトの気配や振りや働きかけてくる「何か」を感じる。込められている、宿っていると感じる。

 生き生きと感じる。喜怒哀楽を覚える。一喜一憂する。酔う、酔い痴れる、痴れる。振りまわすのではなく振りまわされる。

 そういうことです。

 生成AIとVRとARは、呪術の完成形だと私は感じています。

はかないもの

 話が大きくなり広がりましたので、固有名詞、とりわけ人名で考えてみましょう。

 人名といっても、影の薄い名前もあれば、存在感のある名前もあります。

 無名人の名前、有名人の名前、超有名人の名前
 赤の他人の名前、知人の名前、大切な人の名前

 存在感に濃淡があります。

 What's in a name?

 名前はレッテル、名前は名前でしかない、名前の持ち主はいても名前は持ち主ではない、名前は紙のうえの文字でありインクの染みであってその人ではない。

 はかないです。儚い。

 蜉蝣、蜻蛉、陽炎、蜃気楼。

 名前は実体ではない。たかかが名前、されど名前。
 大切な名前、愛おしい名前。

     *

 名前の話から転じて、ふたたび話を大きくし広くしてみましょう。

 以下の「振りに振りまわされる」という見出しの文章は、前回の記事と今回の記事の一部をコラージュしたものです。

 コラージュによる、反復と変奏と再構成と異化で要点をまとめてみます。

振りに振りまわされる

 実体とか実態なんて(そんなものがあればの話ですけど)、関係ありません。

 レストランのウィンドウに並んでいる食品サンプルを見てお腹が鳴るとか、雑誌の写真やネット上の動画を見て、そそられる(もよおす)場合を想像すると、これまた実感しやすいかもしれません。

 それが「振りだけ」なのです。

     *

 リアリティや臨場感に、実体はかならずしも必要ではない。これがもっとも大切な点です。振りには実体が要らないのです。

     *

 振りの最大の特性はすぐに消えることです。振りはつぎつぎと消えていきます。真似る、模倣する、反復することでしか、残らないのです。

 模倣、反復、継承。
 まねる、まねぶ、まなぶ。真似る、学ぶ。
 ならう、なれる、なじむ、しむ。習う、倣う、慣れる、馴れる、狎れる、馴染む、染む、沁む、浸む、滲む。

 こうやって言葉と文字の身振りを見ていると、振りが、くり返されることで最終的に身体にしみいるさまが実感できます。

     *

 振りは時として美しいです。死ぬほど――死ぬ人もきっといるでしょう――美しい。振りに、みんなして酔うのです。

 かた、型、かたち、形、すがた、姿、うつり、移り、写り、映り、映はえ、栄はえ、生はえ、ながれ、流れ、うごき、動き、様式、スタイルーー様式美。

 こうしたすべての要素が納められている、虚うつろな器うつわが、振りなのです。

 酔う、酔い痴れる。痴れる。 

     *

 おそらく、振りは共有される、つまり模倣され反復されるためにのみ、演じられるのです。振りは、くり返されることで伝わりますが、通じるとは限りません。その意味で、振りは賭けなのかもしれません。

     *

 絵、形・姿・模様、声、音、写真、映画、動画――こうした生きていないものに、同類であるヒトの気配や振りや働きかけてくる「何か」を感じる。生き生きと感じる。喜怒哀楽を覚える。

 Aの代わりにAではないものをもちいる。
 AなのにAではない。――このセンテンスは、ささやかな一筋の直線状の迷路(文字列)なのです。

 おそらく、そういうことです。

タブー

 話が広がりすぎてきたので、「直線上で迷う」にもどします。この連載の原点にもどります。

     *

 小説は直線状です。直線状に進行するのです。小説は直線なのです。

     *

 始まり ⇒ 途中 ⇒ 終わり
 最初の一文字 ⇒ 最後の一文字

 このように、最初の一文字から最後の一文字までは直線状に進んでいます。

 そもそも文字(もじ・もんじ)は点と線からなる「あや・綾・文」(形・模様)であり、書きはじめと終わりがあります。線状なのです。

     *

 小説を読むさいに、目の前にあるのは言葉(文字)です。生きていない文字だけです。

 その文字と文字列に「振り」を見たり見損じたりするのがヒトだと言えるでしょう。文字と文字列を目にして振れたり振れ損なったり振りまわされるのがヒトなのでしょう。

 振りだけ。人だけ。振るだけ。振られるだけ。

     *

 直線上で迷う。直線状に書かれた小説で迷う。

 こう口にするのはタブーなのです。そもそも小説が直線状に書かれているのは迷わないために、そうなっているからにほかなりません。

 言い方を変えると、小説が直線状に書かれているのは、現在・過去・未来と線状に続いているかに思える人生が直線ではなく、くねくねごちゃごちゃしているからです。

     *

 人生が、この世界が、宇宙が、くねくねごちゃごちゃした迷路であれば、すっきりさせたくありませんか。それが人情だと思います。

 すっきりさせるための一つの方法が、線化であり直線化なのです。

 始まり ⇒ 途中 ⇒ 終わり
 最初の一文字 ⇒ 最後の一文字

「直線で迷う」なんて口にするのは、そのせっかくの工夫を台無しにする行為にほかなりません。たとえ、その工夫が誤魔化しとか抽象とか錯覚であったとしても。人は迷わない工夫に迷うという皮肉があったとしても。

 だから、「直線上で迷う」はタブーなのです。

 直線上で迷うなと言っているのではありません。誰もが迷っています。「直線上で迷う」と口にしてはならないのです。

     *

 Aの代わりにAではないものをもちいる。
 AなのにAではない。

 こう口にすることも、おそらく、タブーなのです。口にしたところで、喜んでくれる人なんてまずいません。白い目で見られるのが落ちです。

     *

 模倣と変奏とずれと反復の多いこの文章にお付き合いくださり、どうもありがとうございました。


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