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『小林くん、さようなら。』人生には締切りが必要. _こばやしの近況報告2020.02

 年末から断続的にタスクが詰まってて,07:00〜27:00,28:00まで混沌とした脳みそをアイドリングさせて生きてたんだけど,気づけば年を越して1月が終わり2月になっていた.この生活はまったく苦ではないんだけど,例えば夏休みとかG.W.とか春休みとかの記憶が次第に磨りガラスの向こうに隠れていき,誰と会ったとかどこに行ったとか何を感じたとか,そういう記憶が断片的になってきていると感じている.唯一はっきりしていると公言できるのはその前の冬の札幌ひとり旅.これは刺激が強すぎた.

 日々混沌としていて,慢性的な睡眠不足とメンタルと肉体的な疲労で,常に後頭部には重い何かがのしかかっていて,ふとしたときにそれに気付くと,この程度の生き様でそれであるならば,もう長寿とかはどうでもいい,と決意し,また新たにアクセルを踏み込んでいる.だから最終目標が長生きするとか,充実した老後を送るとかではない.老後の心配とかもはや関係ないつもり.

世の中は締切りで成り立っている.

 電車も納期という締切りのもと製造されただろうし,オフィスビルも空調機も然り.本の原稿も,宿題も,物流も.締切りがなければ世の中の全てが成り立たないと思った.締切りがあるからヒトは頑張れるのでは.
 それは,人生も,そう.

 人生の締切り,つまりそれは自死のことである.

 僕のなかで,その締切りは新しいものを生み出せなくなったときなのか,もしくは半世紀生きたときなのか,それはわからない.未だ決まらない.でも,締切りがそう遠くはないということは,確実である.それは一時的に辛くなった時期だとか,或いは長年の夢がかなった末だとか,そういうものではない.あと100日,あと50日,あと42日,あと7日,あと5日…そういう「締切り」である.

 たった一人の命,2020年2月の僕は空調技術の破壊と創生に使い切りたいと思っている.誰が何を言おうと.(一生をかけて一つのことに懸命に取り組むことはないだろうが.)

 そんな矢先,学校の図書館で見つけてしまった.見つけようとしていたわけではなく,自然に惹かれた.そう,

古市憲寿氏 - 平成くん、さようなら。

 これを借りた日の24:30頃,これから消化しなければならない締切りの迫ったタスクがあり,数時間前にわざわざタクシーに待ってもらいながら買ってきたローソンのメガ・アイスコーヒーを一気飲みした.少し量が多かったらしい.それから30分経ったか経ってないか-くらいのタイミングで,唐突に腹痛に襲われた.

 初めはソファーで横になっていたのだが,痛みがひく気配を感じられなかったのでベッドで横になることにした.そして,平成くん、さようなら。に読み耽った.
ここで本の内容を書くことは避けておくが,「平成くん」-平成元年1月8日に生まれた彼の安楽死を望む胸内と,その同棲者の葛藤に心を打たれた.
 気づけば時刻は28:30を指している.腹痛も治っている.

 僕の脳みそに彷彿としていた人生の締切りが,「平成くん」がもつ締切りと8割型合致した.あぁ,やはりそうなのか,という気持ちと,締切り後は消えていなくなってしまいたいという来世観のない(と思っている)僕の死生観に,かすかに疑問符が浮かんだ.

 自らの最期のタイミングを,比較的自らで意思決定できるホモ・サピエンスに生まれた僕は,心肺停止を「死」とする部分に納得できていない.人生締切り問題は去年の夏…いや,春ころから僕の中にあったが,そんなわけで再燃している2月8日の夜.


 親父が昨日誕生日を迎えた.ソファーで居眠りする親父の顔は,気づかないうちになんだか老けていた.白髪が増えたかな.余生に困ることのない程度の富は手にしただろうし,秒単位のスケジュールに追われる日々も緩やかに収束しそうな親父,僕がこの年齢に達することはもしかしたらないかもしれない.そう感じながら,そっと間接照明を暗くした.

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