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僕のための赤い武装

 高校生のころ、僕にとって服は「武装」だった。

 例えば、羽織を普段着みたいに着たり、古着屋さんで派手な服を眺める時間があったり、とにかく、自分が関わっている人間関係の範囲内にいる人たちが誰も着ていない服を着たい時期があった。自分が変わっていくのが楽しくて、嬉しくて、それを認めてくれる人が味方で、そうじゃない人は敵だと思っていた。
 今考えると、「自分のことが嫌い」という僕の意識が影響して、その考えになったんじゃないかって思う。自分が変わっていくのが嬉しかったのは、嫌いな自分がこの世から消せることと、嫌いな自分にならずにすむことが嬉しかったからだ。そして、人間関係の範囲内にいる人たちが誰も着ていない服を着たかったのは、嫌いな自分と嫌いな自分を知っている人たちになりたくなかったからだ。
 見た目で作った個性がよい影響を与えてくれて、僕自身を変えてくれるんじゃないかって思った、思っていた。見た目が個性的であることが、中身まで個性的で特別であることの象徴だと思っていた。だってSNSにいる特別な、何かに属している人たちは見た目が個性的だから。見た目が個性的になれれば、僕も特別な「なにか」になれるんじゃないかって。

 今はその「武装」にはさほど興味ない。散々試して、見た目の個性が中身に影響を与えないことを身をもって理解できたから。見た目の印象と中身が全く一緒な人なんていなかった。同じ年齢の人とだけ関わっていくときに使っていた見た目の指針は、関わる人間関係の範囲が広くなればなるほど、役に立たなくなっていった。あてにならないから、捨てた。
 それと同時に、どれだけ自分の見た目を個性的に、特別に着飾っても、僕は特別な人間になれないという真実から、どんどん目を逸らせなくなった。「特別な服」は一回きりで、どんどん「いつもの」に変わっていったし、「個性的」はいつだって僕の変化についてきてくれない。
 加えて、一番大きく変化したのは、僕自身が中身の自分と冷静に対話ができるようになったことだ。今までは、同じ体にいる僕が大嫌いで、怒りとか憎しみにまみれていた。そんな相手とは冷静に対話ができないのと一緒で、僕は僕に向き合うことができなかった。
 今は、同じ座席に座るぐらいはできている。そして、たまに一緒に食事をとる。向かい合ってご飯を食べてると、「こいつ食べ方綺麗だな」とか、「同じのばっかり食べてんな」って思う。こんなやつだっけと思った。だから、今までの色々も思い返して、僕が相手を嫌いだった理由を思い返して、「あ、あの時はこうだったからか。」って考えてやることができた。そうやって相手のことを考える時間があってはじめて、僕は僕のことを許せた。

 最果タヒさんの最新エッセイ集『恋で君が死なない理由』(河出書房新社)の中に、『普遍より最高でいて』というエッセイがある。なんとなく共感するところが多くて、例えば、「その瞬間に最大風速で大好きだった妙に凝った服ばかり着てしまう」とか、「変わっていく私を全て受け止められる普遍性など欲しくはなくて、できることならずっと併走してほしいのだ」とか、なんかすごいわかると思った。服装とかの見た目に関する自己表現について、今自分が最大限理解している自分を表出させたいのだけれど、そんな服はないし、そんなものを形の変わらない服に求めるのは、かわいそうだ。そのエッセイの中に、特にいいなと思った部分がある。

「私は服にあんまり『慣れ』とか『愛着』とか求めていなくて、見たこともない可愛さやかっこよさや綺麗さを爆弾のように生活にぶちこんでほしいと思っている。生活と私に鮮度をくれるから服は面白い。」

最果タヒ『恋で君が死なない理由』(河出書房新社)

 服は、爆弾。僕の中にあった、「武装」に対しての興味の薄れを、具現化したみたいな文章だった。それと同時に、生活に変化を与えるための服ってどんなものだろうって、わくわくした。

 今年度は、卒業式の次の日に卒業パーティーというのをやるらしい。僕らの大学は卒業式は制服で参加することが決まっているから、ほかの大学生みたいに袴が着たい場合は、その卒業パーティーで着るみたい。ゼミごとの出席が確認されたとき、僕は袴を着なくていいかなって思った。どうせあれってレンタルだし。そこまで考えて、どうせなら生活に爆弾のように変化を与えるための服を着たいなって思った。もう一度「武装」をするぞって。


 ということで、卒業パーティーには、赤いスーツで参加します。よろしくお願いします。


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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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