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コンテキストデザインの誤読 part2(武道編)

 年末年始はコロナのせいで、グダグダしてましたがゆっくり考える時間もありモヤモヤしていたものも整理できて、スッキリした良い休みでした。
 さてさて、前回のpart1 では音楽をコンテキストデザインに当てはめて、関係性と構造を整理しました。今回は二度の誤読と音楽での構造・関係性を他のテーマ(武道)に当てはめて、考えてみたコトについて記していこうと思います。

目次
1. 二度の誤読とは
2. 二度の誤読: 音楽事例
3. 
二度の誤読: 武道事例 ~常足剣道~
4. 二度の誤読: 
武道事例 ~私の誤読~
5. まとめ

1. 二度の誤読とは
 最初に前回のコンテキストデザインの内容で、紹介し忘れていた内容(二度の誤読)について触れたいと思います。本では、一冊だけの本屋:森岡書店を例に紹介されておりました。”Amazonが電子書籍を展開して、無限にいつでもどこでも読める本屋”(強い文脈) をはじめており、本屋の未来が変わってきている社会が仮想的な書き手になっている。この社会に対して、森岡さんは読み手側であり、そんな社会になるからこそ”本と偶然に出会う場所、物理的に本と出会う場所が必要”(弱い文脈)だと誤読し、独立・企業をした。これが一度目の誤読となる。

 そして、一冊しか置かない書店を世に放ち、今度は森岡さんが書き手側、来客者が読み手側と移る。来客者は、一冊しかない本屋で、森岡さんや本の作者から本の紹介を聞き、自分なりに本や書店を解釈して、自身に引き寄せて読み解く。これが二度目の誤読である。

 この二度目(or 二度以上)の誤読を経て、森岡さんの問い”今の時代だからこその一冊だけの本屋がお客さんや社会に必要かどうか”が社会と密接に結びつく。これが、社会を形成するコンテキストデザインの構造になっている。


2. 二度の誤読: 音楽事例
 この二度の誤読の内容を、改めて前回の音楽の構図・関係性に載せてみます。

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 創造の大本は、社会と言う強い文脈に対して社会を誤読して自身の解釈をカタチにする。作詞作曲家は、それを歌詞や楽譜にして歌手や演奏者と共に社会へ発信をする。それが、鑑賞者へ届いた際にその問いかけを自身にも準えて、曲が好きだと言うことやそのアーティストのファンであることを表明する。そのことで、当初の問いかけ自体は弱い文脈であったが、弱い文脈の積み重ねで社会に発信していく流れなのかと。

 事例として、私の中でパッとブルーハーツが浮かびました。ブルーハーツは当時の社会を誤読して、自分たちの思想・態度を音楽として社会に発信しています。この時は、まだ弱い文脈でありますが、その後ブルーハーツの曲を聞いた人々が歌や曲の内容を自身に投影・共感してファンとなり、ブルーハーツ自身が”若者の代弁者”と言われるまでに大きくなり、社会へ大きな影響を与えています。

1990年のブルーハーツの転向(矢野利裕)
https://note.com/llroom/n/n4de703618b1c

 80年代後半のブルーハーツは「若者の声なき声を代弁し、社会のあり方に一石を投じた〝時代の先駆者〟」として、社会派のバンドのように受容されていたが、ブルーハーツが広範囲な支持を得たのは、そのような過激なパフォーマンスの一方で、等身大とも言われるような〈素朴〉な「君」と「僕」の心情を歌詞に盛り込んだからである。「メンバーと自分を勝手に重ね合わせては、思春期特有の青臭い不安を和らげていたのである」といったような受容の仕方は、典型的なブルーハーツ支持者のありかただろう。

 *吉村栄一「ブルーハーツ・ヒストリー完全総括! 第2期 成長期(1987年―1989年)」(『別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評20』前掲)
 *大石始「ザ・ブルーハーツは一種の鎮静剤だった――『TRAIN-TRAIN』で心射抜かれて、僕はブルーハーツ・フ リークになった」(『ミュージック・マガジン』08・11)

3. 二度の誤読: 武道事例 ~常足剣道~
 次からは、音楽で当てはめたコンテキストデザインの構造と関係性を武道(剣道)に当てはめてみます。ココに関しては、私が経験した内容を元にしていて、まだモヤモヤしている部分もあるので、正直やや強引に当てはめている部分もあるかなと思っています。

 私自身は 小学1年〜大学、社会人まで剣道をしており、四段まで持っていますので、経験としてはぼちぼちとあるのかなと思います。大学時に先生から古武術を取り入れた練習方法を教えてもらうこともありました。その関連で、”本当のナンバ 常足” を知る機会もあったので、今回は、この本をベースに一度目の誤読 : 現代剣道に対する作者の解釈と発信と二度目の誤読 : 私自身の誤読・解釈中のものについて紹介をしていきます。

本当のナンバ 常歩(なみあし) (剣道日本)

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 この本の軽い紹介を最初にしますと、剣道の基本動作には一般のスポーツの基本と異なる性質があります。一般的なスポーツの基本は競技に勝つための合理的な動きを指しますが、現在の剣道の場合の基本は明治以降の”しない打ち剣道”とそれ以前の”日本刀の操法”が動きに含まれています。 

 そこで、著者の木寺さん(教士七段)は剣道の動きを歩き方を中心とした合理的な身体操作から見直しており、日本人の昔の歩き方である「なんば」を中心に動きを考察し、その原理を取り入れた「常足」という身体操作方法を提唱しております。この本を元にして、音楽で当てはめたコンテキストデザインの構造と関係性に当てはめたものが次になります。

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 まず社会の強い文脈です。剣道は昭和40年代に青少年を中心として剣道愛好家が激増して剣道ブームが起きました。その際に試合数が増加し、「勝利至上主義」が問題となり全日本剣道連盟が「正しい剣道」への修復を試みて、昭和50年に「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」とする「剣道の理念」を発信・浸透させてきました。

 もう少し説明すると「剣道」とは、日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じ、剣の理法を自得するために歩む道を指し、剣道を学ぶということは、この剣の理法を学ぶことを意味します。剣の理法の奥にある武士の精神を学ぶことが重要と言われることもあり、剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、その為の一つの手段と見られています。そのため、剣道の目的を人間形成としています。対して、著作としてのコメントとしては

 剣道の修練によって形成される人間(人格)とはどのような人間でしょうか。剣道に真面目に取り組むことによって、昔の武士的な人格をイメージするような立派な人間になるということでしょうか。ところが、剣道の稽古によってある人格が形成されるとするのは無理があるようです。昔の武士は生まれながらにして武士的な人格が形成されるような教育を受けていました。武士的な人格を持った人間が剣道を修練していたと考えるのが自然です。このように考えると剣道の特性の中心を「人間形成」に見出すことは限界があると考えます。

 人間形成の像を武士的な人格としたとき、その人間形成には合わせて、別の教育も必要だと言うコトでしょうか。最初に紹介した剣道における基本動作と競技性(勝敗を決定するスポーツの側面)の矛盾点、そして相手を尊重して相手も自分も充分な状態で正々堂々と戦う剣道や武道の精神(思想性)とスポーツの競技性との矛盾(事例として、20年ほど前から試合で鍔迫り合いから分かれると見せかけて、引き技を打つような光景が目立つなど)からも、将来的には本来武術が保持していたであろう”合理的な身体操作に立ち戻ること”と”武道の思想性”を改めて見直すことを行っていく必要があると述べております。

 このこと自体が明確なきっかけではありませんが、兼ねてからの現代剣道に対する違和感から改めて剣道を見直す過程で、動きの基礎となる“なんば歩き”にヒントがあるのではと研究し始めることなります。(ここでは、まだ個人としての解釈(誤読) で弱い文脈) 、そして研究と実践を経て”常足による合理的身体動作”をまとめ上げて社会に発信をしているような強い文脈へと変化していきます。

4. 二度の誤読: 武道事例 ~私の誤読~
 私の感想としては、人間形成の像は武士的な人格だけでもなく人それぞれが想う理想的な人物像でも良いのかもしれないな〜とか、剣道の理念が作られた時のことを考えると勝手なイメージですが剣道を中心とした生活:時間も経験も剣道に投資ができている生活の流れの文脈だとした時には確かに生活や人生が剣道と結びつくコトが多く人間形成に剣道が関わっていると思う機会が多いのかもしれないな〜と思いました。

 また今現在もそうですが、今後多様な生活や価値観に変わりつつある世の中だとした時には、違う目線で色々な人の生活の選択肢の一つとして剣道を捉えた時に剣道と生活ってどう結びつくんだっけ?って一度解きほぐして・結びつけるコトは必要なのかなと思いました。

 そんなコトを考えながら、本を読んでて個人的に好奇心をくすぐられた部分はですね... 著者が過去の書物:昭和41年森田氏が発刊した「腰と丹田で行う剣道」そして、その本からも引用・考察されていた宮本武蔵の「五輪書 水の巻」の内容から改めて剣道の動きを再解釈し、実践を踏まえて研究・考察をしていることです。
 
 歴史的な重要人物との接点が、”常足”を体感・体得して持てるのならばとても面白いことだなと思ったところですね。現代剣道にも取り入られてない部分もあり、貴重感がありますよね。周りの人はまだ気づいていなくて、自分だけが持てるかもしれない接点。どうゆう内容かは下記につらつら書いていきますと

“五輪書 水の巻” きびすを踏む
 足の運び様の事、つま先を少しうけて、きびすを強く踏むべし、足遣いはことによりて、大小遅速は右共、常に歩むが如し、足に飛足、浮足、ふみゆする足とて、是三つ嫌う足也、此道の大事にいわく、陰陽の足とで云是肝心也、陰陽の足とは片足斗動かさぬもの也、きる時、ひく時、うくる時迄も、陰陽と右左々々踏む足也、返す返す片足踏事有べからず、能能吟味すべきもの也。

(現代語訳)
 足の運びかたは、爪先を少し浮かせて踵を強く踏むこと。足使いは時に応じて大きく・小さく・遅く・早くするが、常に普通に歩く様にする。飛ぶ、足を浮かせる、腰を落として踏みつける、の三つはやってはいけない。兵法の大切なことに『陰陽の足』という教えがある。これは当流(二天一流のこと)にとっても重要なことだ。陰陽の足使いとは、片足だけを動かしてはならないということだ。
斬る時、引く時、刀を受ける時でも、陰陽の両極を交互に渡る様に、右左右左と踏んでいく。何度も言うようだが、どちらかの片足だけ中心にして、スキップを踏むような足運びをしてはならない。良く吟味して欲しい。

この中での、現代剣道との違いは大きく三つあり
1)飛んだり跳ねたりせず普通に歩む様にする。
2)爪先立たず、両足とも指を上げるようにして、
足の裏(踵)で床を踏んでいなければならない( ≒ 撞木足)
3)斬る時、引く時などは、足を交互に踏み換えてつかう。

 これらは三つとも実際の剣道でやっていることと真逆に教えられることが多いです。(1),(3)の歩み足は日本剣道形には含まれている内容かなと、ただ(2)の立ち方は日本剣道形にもない内容になります。理由や背景などはこちらの内容を引用・調べてみると

・「日本剣道形」-その指導方法を考える-https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/41/3/41_43/_pdf
・  現代剣道と『五輪書』
https://core.ac.uk/reader/229088620
・有信館剣道(神道無念流)の歴史と文化
https://www.waseda.jp/tokorozawa/kg/doc/50_ronbun/2017/5016A029.pdf

 1800年の江戸後期に大石進 氏が「長竹刀 : 5尺3寸:1.6m 」(今の竹刀は3尺9寸:1.2m)を導入・浸透し始めた時にこの長竹刀の柄が長いため、両手の間が長くなり歩み足だと剣先がぶれやすいので、より安定する送り足が使われるようになったとか、同時期の千葉周作氏を中心に展開された竹刀剣術のスピード化によって、その動きに適した送り足が多用に使われて、それを迅速に行うために「左踵を浮かせる」ことや「極度の撞木足」の排斥につながり、現代剣道(日本剣道形にも)に取り込まれなかった要素となります。200年の歴史を飛んで、改めて常足剣道がその要素を見直して取り入れているのならばとても価値の高いことだと感じ惹かれております。

 で、次に私が弱い文脈として発信していきたいと妄想していることは、“常足”は過去歴史上の人物と体験として繋がれる点や文化自体を体感・習得できること点がとても良い価値だと思っているので、まずはこれを学びたいな〜と思っている(実はまだちゃんと学んでいないので) 、また競技の中で使ってみたいとも思いますが体得したこと自体に何か別の意味合いを持たせてみたいとも考えております。
 
 歴史上の人物や過去の多様な流派との接点が持てることもそうだし、他の武道(合気道や空手等)でも似た動きがあるならば、その接点を持つこととのきっかけなどの展開など。その際には、守・破・離のまとまりをもっと分解して、多様な解釈や展開ができないかも考察していきたい。(守・破・離の物事の習得から応用はとても大事な要素である)

 それらって、実際どうやるんだ?と思いますが幸い私はエンジニアでもあるのでカメラや加速度センサ等での動きの解析はできるし、スマホアプリの実装もできるので、それを社会実装しようと思えば時間はかかりますが可能ではあると思っています。まずは最小単位でできることを発信と合わせてやっていければと思ってます。(こうやって少し調べて思ったことを発信することもそうだし) 


5. まとめ
最後に以上をまとめます。

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<一度目の誤読>
・現代剣道の強い文脈
剣道の理念:目的が剣道を修練することでの“人間形成”であることとスポーツ競技としての発展

・木寺さんの弱い文脈
(問) 剣道理念とスポーツ競技性との乖離に対して改めて剣道の“思想性”と”大元の合理的身体動作”の見直しが必要ではないか?
⇨ 動きの基礎となる“なんば歩き“から見直すために研究と実践を始める。

<二度目の誤読>
・木寺さんの強い文脈
研究と実践を積み重ねていき昇華した”常足剣道”

・私の弱い文脈(妄想中)
歴史上の人物や文化との体感としての繋がりができるのが面白そうだから、学んでみたいし発信したい。そして、できたら他の人が体感できるようにデバイスも作ってみたい。

 と言うところでコンテキストデザインの誤読(武道編)でした!デバイス作りも進行中なので、試作品ができたらまたnoteに書いていきます。長文でしたが、読んでもらいありがとうございました。

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