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『ブルーアワーにぶっ飛ばす』のは、一生懸命生きるって決めたとき

一日の始まりに一瞬だけ訪れて、空が青色に染まる静寂の時間、「ブルーアワー」。

夏帆演じる主人公の砂田夕佳は、幼少期の原風景にその「ブルーアワー」を持っている。無敵の時間、パーフェクトワールド、夢の国…。怖いものなしだった子どものころの記憶は、大人になったいま感じている世界とは些かズレている。


ズレたビートで演出する心地の良いリズム


この映画は「ズレ」の使いかたが巧みだ。例えば作中に登場する台詞は、「砂田の話す日本語」「砂田の両親が話す茨城弁」「砂田の兄が話す早口な日本語」「キヨの話す奔放なカタコトの日本語」これらの四つがおもに使われているが、それぞれに異なるリズムが与えられており、極めて意図的に、異なるアクセントが「音」になっている。それが、映画の持つ作品観に独特のビートを生み出す仕組みになっている。

また、カットごとの編集をあえて不自然な継ぎ目に配することで、一定のビートを刻んでいた映画のリズム観に微妙な「ズレ」を生じさせている。ドライブシーンから河童(?)の青銅像につなげたり、田園風景を眺めながら天気予報が淡々と流れたかと思うと土砂降りの大雨、朝食どきの次に映るのは昆虫のアップショットである。こうした編集をすることで、テンポよく運んだ物語に絶妙な気怠さとブレイクタイムを挟み込むことに成功している。

観る側としては、虚を突かれたというか、少しタイミングを外されたような気分になる。

さらに、映画を始終とおして、シム・ウンギョン演じるキヨは、ほかの登場人物とは明らかに違うリズムで活写されていることもスパイスになっている。これは物語の根幹に関わってくるが、少々奇妙なほどずれている砂田とキヨが噛み合っていることが、映画の最大のポピュラリティを背負っているとも言える。

批評分野の表現で特定の映画を「オフビート」と言うことがある。緩やかに起伏なく展開する映画を指すことが多いが、原意は「強拍を裏拍におく」という音楽用語である。そういう意味では、砂田がビートを、キヨがオフビートを担う関係でリズムが成立しており、「静」を志向した映像のなかの息のあった隙のない台詞まわしの仕組みはそれである。この映画の心地よさ、あるいは居心地の悪さの理由は砂田とキヨによるリズム感に起因している。


みんな「ズレ」ている


このように砂田とキヨの関係、コミュニケートのズレ、そして前述した奇妙なカットのつなぎかたなどで、徹底して「違和感」を強める手法を今作ではとっている。見ているあいだになにが真実なのか解らなくなる錯覚にさえ陥る。これは最後に腑に落ちることなのだが、とにかくおかしな「虫を殺した」エピソードなど、友人と旅行してするような会話ではない。そんな自分の過去を吐露するエピソードの不可解な挿入など、どことなく違和感、不穏感を孕む展開が続く。

そして、祖母との再会。

「一生懸命、生てるんだけどねぇ」この台詞は、この映画で最も重い。大嫌いな田舎から出てきて、仕事をしている。でもその仕事やプライベート、人生については満足していない。でもそれでも結果、夕佳は「必死」で、「一生懸命」生きているのだ。

大人になると、何度か親に「さよなら」を告げる場面と遭遇する。一時的な別れではあるが、そのとき、見送っている親の姿がどんどん小さくなっていく様子に、なんともいえない寂しさと泣き笑いのような思いを経験したことがあるひとは多いだろう。

だれもが持っていながら、普段は心の奥深くで眠ってしまっている原風景というものを、この映画は思い出させる。子どものころなりたかった自分と、いまの自分のギャップに悩み、苦しみ、足掻き藻掻きしてみることだってある。奇怪なビート生み出すリズムは、存外普遍的なものである。

砂田も、母親とおなじように、メールに電話で返すのだから。


ブルーアワーをぶっ飛ばす


「もともとダサいっすよ。ダセえの最高じゃないっすか。生きてるぜって感じで。」

キヨのこの言葉は、ズレを抱えて生きている砂田への肯定である。この言葉を聞いて、ようやく砂田のイマジナリーフレンドであるキヨの存在がなくても、彼女は生きていけるようになるのだ。

そしてこの映画はブルーアワーを背にして夕焼けに向かい突き進む。夜に向かう。

キヨという存在。それはまさしく、砂田が幼少期にブルーアワーに走っていた無敵そのものである。「ブルーアワー」に感じた、砂田の理想的な生きかたをしていたキヨ。砂田の心が生み出した虚構の友人キヨに、いまの自分を許されたこと。そのままでもいいのだ、と告げられて彼女はようやく、真に自分の人生を肯定することができたのだ。

ブルーアワーをぶっ飛ばし、夕焼けを突っ切り、夜を迎える。でも、それでも夜は明ける。理想的な人生でなくとも、それでも一生懸命生きること。それには意味がある。そのことに、砂田は気づいたのだ。

理想と現実。それがズレていようと、どんなにダサい生きかたでも、それでも生きていくことは素晴らしいこと。そう背中を押してくれるメッセージがある。


結び


キヨの正体がわかると、彼女の職業である「イラストレーター」それが砂田が幼少期に絵が好きだったことにもつながる。終わってみて振り返ると、不自然だった多くの点が腑に落ちて納得する。

我々はいつまでも自分のリズムで無鉄砲に生きていたいが、学校に入り社会に入り、大人になればなるほど、いつしか周囲とリズムをあわせることを憶え、それは「成長」などと呼ばれる。時間は前に向かって刻一刻と流れる。その流れのなかで、自分の思うようなリズムを刻めないもどかしさを、社会のリズムに合わせなければならない葛藤を抱えながら、生きていかなければならない。

多勢多数が「朝はパン派」でも、わたしは「朝はごはん派で、味噌汁が必須だ」と、声高に生きていくことは、それは強さである。

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