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サーバインフラ業界に思う

最近テキストアウトプットがメールかチャットかパワポでやるだけになり、更に効率化のため仕事にWrike導入したらメールすら殆ど開かないでもいいんじゃという状況になっていて、キーボードを触る機会が失われつつあることにちょっと愕然としたので、この年末の忙しい時期に(忙しいのは自宅の掃除だったりするんだけど。クリスマスの飾り付けとか)ふとキーボード叩くなりけり。長文エントリだから覚悟してから読もうね。あと、この文章は校正も時代考証もまったくしないまま書いているので時系列が間違えている場合があるよ。技術的なツッコミはこころの中でやってくれ!

インフラ離れてはや5年

ふと今年を終えたらついにサーバインフラ業界を離れて5年になってしまうことに気づいたわけです。5年ですよ。そりゃ長男も小学生になりますし、次男も大晦日には4歳になっちゃうわけです。

ネットワークインテグレータなる会社でセールスエンジニア的なことをやっていたころ、このままでは自分がやりたいシステムに携わることは一生ないなあと思って、子供ができたばかりで嫁さんが育休なのに転職活動を始め、誘われたし高収入だからって独立系ソフトウェアハウスに飛び込んだのが2015年。

そこで音声感情解析エンジンを利用したモチベーション・マネジメントサービスを立ち上げようと頑張ってみたものの、諸事情から状況がブラック化、アプリはおおまかには出来上がっていたけれど、ビジネスモデルが確立できないまま放逐。

その後、時代はアナリティクスだー!と外資系アナリティクスファームに所属したけれど、実際の所セクシーなデータ・アナリティクスなんて程遠い、単なるWEBアクセス解析だけに時間を費やした(とはいえアナリティクスなのでマーケティングやデータインフラに関する勉強はさせてもらった)。

鬱々としている中で、現職の同僚から「Youウチ来ちゃいなよ」と誘われたのが2017年の年末。酒飲みながら「あーいっすねー」と答えて、2018年の新年会の名目で自社の社長と呑んで、「じゃ、いつからこれるんだ」「いつでもいっすよ」というやり取りがあって今の会社にいます。

今の会社に入ってからは幸いながら数社様と契約をいただき、新事業をビジネスモデル構想から一緒にやらせてもらったり、パートナー企業を探索するお手伝いしつつ実際にMVPをつかってPOCしたり、インサイドセールス組織を立ち上げる支援をしたり、マーケティング戦略そのものを考えるお手伝いをしたりすることでコンサルっぽいお仕事だなあと思って生きています。

そんな中で、ここ半年、HCI(ハイパーコンバージドインフラストラクチャ)製品のWEBサイトのデジタルマーケティング戦略を考えたり、実際のコンテンツづくりのお手伝いをするお仕事をさせてもらっているのですが、サーバインフラ製品(というのは少し語弊があるけど)に携わるのが5年ぶりだから業界自体再編されまくってて、ほんまもう浦島太郎状態だなあと自分のことを認識しつつ、人生の中では10年以上関わっていたサーバインフラ業界の変貌っぷりに驚いている次第。

むかしばなし ~IBM系システムインテグレータ~

ぼくが新卒で入ったのはIBM系SIerというカテゴリでした。

なんでそこ選んだのかなんて、もう恥ずかしくて書きたくないところだけど、当時ぼくは頭の悪いミーハーで、自分の知っているありとあらゆる有名なところ全部受けたんです。父親の影響で出版関係も大きなところから順番に全部応募したし、当時騒がれていたライブドア・楽天その他有名どころのインターネットベンチャーにも応募したし、たぶん初動で50社ぐらい応募しまくったんじゃないかな。・・・で、落ちた。
そりゃ落ちます。

だって、何も考えてない調子乗ったバカが、会社のこと調べもせず、なんとなく良さそうな会社だから~みたいな感じで応募してきて、大学だけはそこそこいいもんだから全部一次面接とかグループセッション的なものには呼ばれて、呼ばれたものの企業研究なんてしてないから全然熱意もなく(一回面接で「カネがほしいから応募しました」とかまじで正直言った記憶がある)、グループセッションではイニシアチブとって議論をしっちゃかめっちゃかにするんだもの。
落ちまくっていく中で、企業システムそのものに確か興味を持ったんだったか、それとも何か「中小系企業で営業やろーかなー」とかそんな適当な思いだったか、切り替えて探したのがSIer。そのころにはもう100社ぐらい落ちていた。

IBM系を選んだ理由は、Thinkpadが好きだったからという単純な理由だった気がするし、IBMは応募したかすら覚えてないけれど、最終的にひっかかったのがIBMパートナーの会社だった、という流れ。

もうSIerというのもおこがましいなあと思うけれど、昔はIBMが日本のパートナー各社に少しずつ資本入れて(10%とか)、一次店、二次店、三次店とヒエラルキーを作っていました。

当時のIBMにすごいなあと思ったのは、自社製品を売るパスが直販だけでなく、基本的にローカルに関しては一次店をコアとする流通を敷いていて、一次店には年次の売上コミットとともに、一定数の有資格者の保有を課していたというところ。

これは今やどの企業でも取りうるパートナー戦略となっているし、もうデジタル化時代には時代遅れの産物となっている戦略なんだけど、これによって一次店も二次店も「IBM製品を扱っていること」で食いっぱぐれのない世界を創り上げていたことがすごかった。ほんと。

僕が入ったところは自分で「御三家」なんて言ってたんだけど、当時日本では三社しか一次店がいなかったAS400を扱っていて、それの構築・運用・保守でメシを食っている、そんな会社だったんです。

AS400狂騒曲 ~なにそれおいしいの~

AS400とは何かを書こうとすると、自分の中の闇がすごい溢れ出てきて先程数百字書いた所でハッとなって削除しましたが、ありていにいうなら頑丈・頑健なサーバです。

(ここでコンピュータそのものの成り立ちとか凄い書いたけど軍事が云々とかすごいヲタな話になるので削除)

商用コンピュータの先駆けだったSystem 360。メインフレームという名前で各企業の業務をすべて統合し、カネの流れ、モノの流れ、ヒトの流れをシステムとして処理することができるようになったものを、徐々にダウンサイジングしてちっさくして中小オフィスでもつかえるようにしたのがオフコン・・・オフィスコンピュータと呼ばれるようになったんだったかな?

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Dave Ross - Flickr: IBM System/360 Model 30, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17268674による

メインフレームはでっかい物置数個分ぐらいの大きさだったりした(バックアップ用のテープ装置とか含めると一軒家超えてたんじゃなかろうか)のが、オフコンでは冷蔵庫や洗濯機ぐらいまで小さく、さらに高性能になった。

オフコン全盛期が1980年頃らしいので僕生まれてないよと本気で思ったことがあるけれど、そのころはサーバ業界的にまじでバブルだったみたい。土地バブル・株バブルとは違う方向で、どの会社もカネが儲かってる中で業務を効率化しようとしたのか、単に儲かってるからウチもやろうってなったのか知らんけど、いまの50~60代ぐらいのシステム業界のおじさんたちと飲むといくらでも自慢話が聞けるぐらい、飛び込みゃ売れるし、いつでも買いたい問い合わせがいっぱいだったし、数千万~数億でもサーバが売れてた。

オフコンってハードもソフトもすごい長持ちするように作られていて、ハードはだいたい5年で標準保証・保守が切れるんだけど、延長すれば10年ぐらい当たり前のように動いちゃうし、ソフトもRPGやCOBOLで書いてあれば、後方互換を担保しちゃっているのでいつまでも使い続けられますというのがウリ文句だった。

それがいけなかった。

たぶん、初めてAS400を導入するときは、お客さんも、それを売る営業もずっとずっと考えてた。前述のようにバブルなのでカネ余ってるから買う、みたいなところももちろんあっただろうけれど、それでも数千万~数億の投資。だれだって会社が投資するためには理由が必要。

それまでシステムを使っていなかったということは、すべて紙でやってたわけだ。営業はちらしを持って客先へ行き、電話をつかって事務に連絡をし、FAXをつかって注文書を送り、郵送や手持ちで請求書を発行し、会計・経理はそろばんや電卓で記帳してたわけだわ。昭和の時代は。それにどれだけの時間が費やされていたのか。

それがシステムをつかうだけできちんと計算され、月末月初にはきちんと会社の状況がわかるわけで、企業経営者としては使わない理由が思いつかないレベルの革命であり、ROIがあり、そりゃシステムに投資したわけだ。

それが、僕が新卒入社するころにはもう状況が変わってた。

まあ、そりゃそうですよ、80年代にバカ売れしたオフコンも、僕が新卒入社した2006年にもなると、もうバカ売れなんてするわけのないものになってたわけです。

最初は「システムを」入れる目的の投資だったのが、前述したとおり頑丈で、かつソフトをそのまま使えるようなサーバなもんで、数年~10年に一度機械を入れ替えるだけで使い続けることができるから、ハードはリプレイス商売しかすることがない。それに追加して何年かごとに業務自体の流れを見直す=ソフトを書き直すところでシステム開発商売となる(で炎上させたりするんだけどそのポストは今度にとっておこう)。

オフコン商売でなりたってた会社は、新しいシステムを創り出すような会社ではなく、ただただ企業の下請けでメンテしているだけでメシを食いつなぐ会社になっていた。

そんな会社の営業や、エンジニアが、どうなるかわかりますか?
くさるんです。もう、くっさくさに。腐るんですよ。

僕が入社したとき24歳。新卒4人で入社したんですが、そのときには大まかに見て4段階ぐらいに世代が分かれてたように思います。以下のような感じです。

1.初回のシステムバブル期を体験した50~60代
2.システムバブルをすこし体験したか、そのリプレイスで儲かった40代
3.そのリプレイスで儲かった30代
4.ぼくら
                         ※2006年時点

呑み会のたびに自慢話がってのはどの企業もあるのかもしれませんが、IT業はそのケが凄いあるのかなあと少し冷めた目で見てしまった自分がいます。ただ、1の世代は切り開いたので尊敬していました。

問題は、2、3の世代ですね。結局AS400ってハードウェアリプレイスかソフトウェアの手直しである程度仕事が定期的に見込める&それが数千万になるので、営業としてはすごい楽な商売なんです。ルート営業って言えばいいのかな?単にAS400を持っている企業をまわって、そろそろ古くなったから今年リプレイスします~?リプレイスするとこれぐらい処理が早くなって便利ですよ~。とか、組織変更されたんですね、業務処理変わるのでソフト開発しましょうか~。で、案件取れちゃうので。

だから営業のすることって医療の一時期のMRとあんまり変わらなくて、企業へ訪問してシステム部門へ行って状況聞いて、今年のIT投資枠聞いて、必要なものを持ってきて、ちらしと見積書つくって、出すだけである程度取れちゃうと覚えちゃったのかなあと思います。いまになって思うと本当に可愛そうな世代なのかなあとも思いつつ、時代的にはAS400が「負の遺産・レガシー」とか、「滅びゆく恐竜」と言われていた時代を生き抜いたという意味では頑張ったとも言えるのかな。ただ、そのせいで目が死んでたというのもあるけれど。

僕が入社した2006年ごろは、逆に今度はメインフレーム、オフコンがその頑強さや信頼性から再評価されていたころで、ちょうどAS400から名前を「System i」なるものに切り替えたぐらいのタイミングだった。
そんな状況なので、新卒入社の営業はみんなブラザー(先輩)と一緒に客先をまわり、顧客に覚えてもらい、今年の投資予定を聞き、購入する次のAS400のモデルを決め、IBMに特価依頼(たんなる値引き申請)し、そこに自社の粗利をのせた提案という名前の見積を出し、いつもの感じで発注をもらい、IBMにオーダーするのを事務にお願いし、納期調整(という名前のIBMパートナー営業へのPush)をし、客先でSE(実際はCE…コンピュータエンジニアだ)がサーバを起動し(AS400はIBMが構築してから持ってくるのでキッティングすらない)、データを移行し、ちゃんと動くなあとお客さんに確認してもらい、検収を取って請求書を出すのが「オシゴト」だったし、そう覚えさせられるのが、OJTだった。

ほんとルート営業だった。それで売上が立ってしまうから。

僕はなんかそんな道がすごい嫌で、単に先輩のコピーになるんじゃなくて、営業として新しいお客さんと話したいし、例によってリプレイスがという話だけじゃなく、もっとシステムそのものを変えないと困っているような「課題」を聞きたくて営業になったので、先輩から顧客を引き継ぐこと自体をすごい嫌がった。結果、先輩から嫌われたw

で、そんなくさくさしている中で、IBMから出向してきていた(当時パートナーにはIBMから出向という名の離れ小島で営業している社員がすごいいた)上司が目をかけてくれて、課題を与えてくれたわけです。

それがキャンバス(飛び込み)。地獄を見ている僕にさらなる地獄を…

キャンバスってやること簡単で、単に社名と住所と電話番号とその他業種情報とか載っているリストを渡されて、一つ一つ電話かけてくんですよ。
「○○のナガオカともうしますが情報システムの方おねがいできますか~」「○○で貴社担当となりましたが○○についてご検討ではないでしょうか~」って、ひとつずつ。

基本的に門前払いと言うか、ガチャ切りもされるし、電話口の総務とかのおばちゃんから「そういうの断ってますので!」とか言われるし、かなり心がメゲます。まあ、うん。正直いってくさくさしているし数字出せてない新卒営業だったので、これでダメなら辞めるでしょとかだったのかもしれんね。

最初わたされたリストが数千件あったんだけど、もう最初の50件ぐらいでダメだこりゃとか思い始めた。ただ、見かねたのか先輩がいくつかかけてみてくれて、一件アポ取れたときに「ああ、そっか。アポ取れりゃ行けるし、行ければ後はどうにかなるなあ(あと外出してえなあ)」と思ってから切り替えて、「ご挨拶だけでも~」ってやってからアポ取れる率が10~15%になったなあ。

そんな感じでテレアポキャンバスやって、客先にAS400あるならどこの会社から入れているかを聞き出せれば、自社の傘下の二次店、三次店じゃなければ「コンペさせてもらえませんか?」と。さすがに自社傘下の二次店から奪い取ったら揉めるけれど、御三家の他の傘下であれば奪い取っても良かった。
IBMからしたら結局企業がAS400使い続けてくれればそれはそれで良くて、保守とか維持やってるパートナー企業がどう入れ替わろうとどうでも良かったわけです。

そうやって僕は新規(という名前のIBM利用企業を自社に持ってくるだけの)営業を進めていった。だいたい2~3年で2000~3000件か電話かけて、そのうち200社アポ取って、結局リプレイス提案なんだけど自社にとっては新規顧客を増やすってことが固まってた。

ただ、やっていく中でシステムインフラそのものの流れが変わってきた。
「オープン化の波」というやつだ。

オープン化の波がやって来た!ヤァ!ヤァ!ヤァ!

AS400がメインフレームの流れをうけたオフコンというのは書いたけど、基本的には企業の販売管理とか在庫管理とか会計管理といったありとあらゆる業務をすべて一台で透過的に処理しようというサーバシステムだった。基幹系システム、なんて呼ばれることもあったな。もうちょっと古い言葉で言うなら電算化とか電算センターか。どっかの会社でも電算室がまだあった。

その一方で、1995年から変わった流れがひとつ、Windowsの台頭だ。

改めて書くとこれだけで1万字とか書けちゃうから端折るけれど、Windows3.1、NT、95、98、ME、2000、(CE)、XP、7、8.1、10と、僕の半生はそういやWindowsOSの進化とともにあるなあとしみじみしてしまうけれど、WindowsはPC…パーソナルコンピュータとして一気にひろがったわけだ。それこそ、個人の自宅から、法人まで、すべて。

オフィスではワープロだけでなくExcelで表計算も可能だし、更にグラフィカルに表示することができるようになってPowerPointのような表現方法も進化して、ビジネスそのもののやり方が変わっていった。

インターネットの台頭もそれと並行して一気に加速した。最初モデムでパソコン通信していたのがいつのまにやらISDNになり、ADSLになり、FTTHになり。そこらへんは人類普遍の欲望「エロ」が関わってくると思うんだけど書くのは別の機会にとっておこう。

AS400はもともと扱うときには「ダム端末(dumb terminal)」という、AS400のなかの情報を映し出すモノクロ(というかミドリクロ)の文字を出すだけの画面と、キーボード(入力装置)のみの端末を使ってアクセスし、業務を行うシステムだった。端末側には一切データがないわけで、ある意味いまのシンクライアントの思想そのものだったとも言えるな。

それが、企業にWindowsPCが浸透するのに合わせてPCとダム端末(バカ端末と呼んでるヒトもいたなあ)を別に持っているのがナンセンスってことで、PC用にダム端末機能を実現できるソフトウェア、「Terminal Emulator」が配布されるようになった。そういやあれPCごとのライセンス規約だったと思うけど、当時コンプラ意識甘かったのと普通にCD焼けば使えちゃうからって違反している企業がおおかったような…自分のお客さんのほとんどはきちんとお金貰えてた(あれ利幅すごかった)けどね。

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そんなこんなで企業のユーザのほとんどの目の前にはパソコンが置かれ、徐々に、AS400のグラフィカルでないグリーン画面が鬱陶しくなっていった。あのころのシステム屋のウリ文句はわらったなあ、「まだそんな緑文字見てるんですか」「業務効率の向上は視認性・操作性の向上から」。

実際の所僕はAS400/Sytem iのグリーン画面がそんな悪いものであったとは考えていなくて、業務で必要なのは「いつ」「何が」「いくらで」「いくつ」処理されるかといった情報だけであって、それが24 x 80文字の画面で表現しきれるのであれば問題ないし、人間が一度に認識できる業務情報量なんてそんなもんだし、24 x 80文字ってことは1920字…一度に画面に出す情報量はEBCDICは1文字1byteなので1920byteで、そりゃ電話モデムの64kbps/128kbpsで必要十分なレベルでサクサク動いたわけで…

とはいえ企業というのも情報システム部門だけでなく、ユーザ部門には営業もいて、事務もいて、みんながみんなシステムのそんなところまで考えられるわけでもなく、経営層も含めて「古くせえ」と感じていたのかもしれない。だから、もう2006年頃なんて「ASをやめてオープン系システムにしよう」が主流の流れだったし、ここはちょっとミスリードもある流れだったと思うけれど「ERP」とかのキーワード使いながらその中でのシステムをすべてWindows/Linux系のアプリケーションに載せ替えていこうという流れができあがってしまっていた。

一応AS400も対応するべくWebサーバ機能を拡充して内部プログラムをブラウザからアクセスできるようにして「レガシーをオープンに」なんて言ってたけどアレはムダにメモリ食ったし、そもそもRPG/COBOLやってたプログラマ・エンジニアがブラウザアプリ作っても絶望的なデザインセンスでUX/UI考えてなくて更に使いにくくして爆笑モノだったけれど、まあ、「そういう流れ」だったわけです。

そんな中でもう新しくAS400/Sytem iを導入しようと検討する企業なんておらず、老朽化対策でリプレイスを提案している企業からも「オープン化するかどうしようか考えている」と言われ、新卒から4年たったころは、もう業界的に正直言って落ち目な状態でした。

社長が三年連続で「ことしはV字回復を~」とか年初言い始めるのももうお定まりすぎて飽きてきてましたし、社内の販売促進会議という下らないのに呼ばれ「AS400自体もう衰退期でしょう」って発言したら「そこをなんとかして売るのが俺らの仕事だろうが!」と課長級から言われてゲンナリしたのもそんな頃だったかな。ほんと営業の心が腐っとった。戦略も戦術もないままに「がんばって売る」が方針になっていた。

一方、そのころ伸び始めているなあと感じていたのがVMWareでした。

シュッとした感じのVMWareと、シュッとしすぎたブレードサーバ

初めてVM案件を担当したのが2年目の頃だったかな?

例によってテレアポからの飛び込みやって、某アパレル企業の情報システム部にアポイントを取って、部長さんに自社紹介と自己紹介して、その人が全然反応してくれなくて(後に単に反応がうす気味の人だったと判明する)凹んで帰ってきて彼女(いまの嫁)に慰められて呑んで寝た次の週。ポンっとぼくのThinkpadのNotes/Dominoに着信したメールに目を見張った。なんかRFP送るよとか書いてあるの。NDA交わしてRFP貰って、印刷して読んだら「仮想化基盤構築プロジェクト」とかなんとか書いてあるの。

仮想化対象はPOSマネジメントサーバと基幹のAS400を除いたほぼ全てだった。その頃主流だったWindowsファイルサーバ、Webサーバ、アンチウィルスサーバ、その他諸々あわせて数十台のサーバを仮想化統合してシンプルな運用を実現しつつ、コストも削減したい、と。

その頃はまだサイジングもわからなかったのでエンジニアに頼んで、サイジングしてもらったらIBM BladeCenter + Blade HS21 XMが4枚、ストレージにDS3950か6000だか、バックアップテープとしてTS3000クラスだったように記憶してる。
VMWareはESX3.5時代だったはずで、顧客からの要求となっていたのがHAとvMotionできてシステム落とさず運用できること、は満たせてた。

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Dave Ross - Flickr: IBM System/360 Model 30, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17268674による

要件を満たした構成ができたら、それをIBMに特価出してもらって見積もりだして、ひいひい言いながら(おもに上司が)提案書作って…で、初めてのプレゼンを緊張しながらやって、で、取れてしまった。あれは、嬉しかった。嬉しかったからもう納品も立ち会うわ、キッティングもラッキングも手伝うわ…もともとPC自作してたからキッティングとか楽しすぎて。ラッキングも学生時代の什器設営思い出して楽しかったなあ。

自社ではもともとAS400を担当する部署と、Windows/Linuxを担当する部署に技術部門が分かれていて、AS400を担当する部署のほうが売上も人数も多い状態だったんだけど、そこらへんからじわじわとWindows/Linuxエンジニアを増やしつつ、VMWareの資格も取らせようって流れが少しだけあった。

ただ、まだまだそこがレガシーな会社となってしまったハードルがあって、結局「IBMの」「AS400」をやりたい人が集まった会社で、エンジニアの半分以上がRPG/COBOLしかわからない状態に、オープン系技術は「あんな信頼できないもの」扱いとなっていて、それを教え込まれた若手エンジニアもVMWareなんてわかんねえよとか、Windowsなんてわかんねえよみたいなのがいて、エンジニアの枯渇っぷりが酷いと感じるとともに、教育って大事だなあとしみじみ思ったなあ。。

僕は中途で入ってきた仲良いエンジニアに相談しながら進めることが多くて、最初の案件をやってから仮想化統合案件をいくつかこなしていく中で、(エンジニアが少ないし、お願いすると稼働工数原価かかるから)自分でもVMWare触れるようになっていったので、あの頃が一番サーバインフラ触っていたかもしれない。

仮想化一杯やってく中で感じたのは、企業にはそこまでサーバインフラリソースがいっぱいある必要なんてないんじゃないかな?と。もちろん、用途に合わせたサーバ・サービスが必要となっていくものだし、ユーザが数千人いればそれ相応にサーバリソースが必要となるし、オンラインゲームの基盤のサイジングと設計したときに思ったのは「どれだけ分散しても足りない」だったけれど、一般企業の業務システムを支えるインフラはそこまで爆発的に増えることはないし、必要なときに買い足さなきゃ意味がないよねということです。

それに対して、最初に入れた「ブレードサーバ」がかなりネックになっているように感じたのが最初の違和感でした。

当時のブレードサーバって、縦に平たいブレード型と言われるサーバが10枚~14枚挿せるシャーシに入って稼働するもので、ストレージやネットワークはその外に漏れてきたり、後にストレージブレードなんてのも出てきたりと、IBMだけでなくHPもDELLもみんなシャーシ買わせてしまえば次の買い足しも挿して電源入れるだけで楽ですよ、というのが売りだったんだけど、それって結局包囲戦略というか、囲い込みそのものの思想だったんだなあと。

でも、一般の中小企業で仮想化統合すると、CPUやメモリの高性能化のおかげで、もう物理的なサーバインフラなんて100台が4~5台に圧縮できちゃうようになってきてしまった。

14枚入るシャーシに4枚しかサーバ入らないんですよ。でも、営業としては「お客様のビジネス拡大に合わせてサーバも増やせるように余裕を持った」構成をお組みしております、と説明しなきゃいけないわけで。お客さん的には別にこれまでのシステムコストが圧縮できたんだなという情報があれば満足できてしまうわけで。それはメーカーがシャーシ100円キャンペーンとかやってたおかげで初期コストは抑えられちゃうわけで。実際の所中長期的には「そのメーカーに継続的に払うコスト」が、ブレードによる縛りのおかげで拡大してしまうわけでございます。

そこまでサーバが多くなかった某カフェチェーン企業の仮想化統合案件で完全にブレードはいらないなって思ったのが、20台ぐらいの物理サーバを、ラックマウントサーバ2台とストレージというシンプルな構成で統合できたときかな。「あ、もうこんなんでええやん」って本当に割り切れたし、正直言ってそのほうが構成的に安かったし、拡張性に関してはラック型足していけば別に担保できるし。そもそもがそもそもで、ラック自体がひとつのシャーシと考えれば最初からブレードなんていらんかったんや、と。

AS400がPowerに、そしてPowerVM(笑)

既にAS400→Sytem iと名前が変わっていたけれど、それをPower Systemと名前を変えますと言い始めたときにIBMが発表したのがPowerVMだった。

そもそもPOWERはCPUの呼称で、16コアとか複数コアになって並列処理が得意なAS400のムダリソースをムダにしないために、8コアで足りるアプリは8コアで、4コアで足りるアプリは4コアで、と、論理的にCPUを分割して利用することで負荷干渉しないようにするLPAR(ロジカル・パーティショニング)をベース技術としながら、その発展版として実装されたAdvanced Power Virtualization (APV)という独自の仮想化技術に名前をつけたのがPowerVM、だと思う。違ったらごめん。

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ThinkIT 論理分割(LPAR)方式の仮想化 
https://thinkit.co.jp/story/2010/07/08/1639?page=0%2C2

PowerはCPUがIntel系と異なるので、もともとAS400系のi5 OSか、UNIX系のAIXというOS以外動かなかったのが、ここらで確かRedHat/SUSEが動くんだZE!みたいなこと言い始めた記憶。ほんと違ってたらごめん。

この時思ったのは、結局AS400が仮想化技術を実装したけれど、AS400でWindowsが動くわけではないし(裏側にWindowsServerが入ったサーバカード挿して擬似的にWindows動いた~!みたいなアホみたいな製品があった)、RedHat/SUSEが動くって言っても普通のx86系サーバと比べたらやたらメモリ食うし、そもそも基幹システムで利用している企業からしたら企業のコアになっている情報の入ったサーバをインターネット側に公開するなんて怖くてできないし、どうしようもなくねえか?ということだった。

まあ、公開用サーバとして利用したり、i5 OS領域の隣にRedHat入れて、Zend動かした上で社内系WEBサーバとして擬似的なオープン化したりってのは結構面白い取り組みだなあと思ったけど、面白い取り組みというだけでそれが完全な主流になるかと言えばならなかった。なんでか?自社で技術部門が分かれたというのもそうだけど、お客さん側でもAS400の基幹系部署と、Windows/Linuxがあつかえる情報系部署という分類ができあがってたからだよ!

AS400の基幹系部署はもう維持運用を淡々とするおじいちゃん部隊、Windows/LinuxはどちらかというとWEB制作とか携帯やPCの運用もやらされるけど比較的新しい取り組みを実行する部隊という区分けが、これはおそらく2010年前後に明確になってきていたんじゃないかな?
そして、概してどこの企業でも仲がわるい(予算の取り合いという意味で)上で、経営層はわかっていない(というのはいつもどおりだ)。

たんに筐体が一緒になったからって技術が統合できると思うなよ!とPowerVMには思った。その一方で、VMWareは着々とシェアを伸ばし、Microsoftが血迷ったHyper-Vは迷走していた。

Hyper-Vなんてありましたね(嫌いじゃないよ)

今書いてHyper-V書くの思い出した、インフラの話だけど一応仮想化レイヤとしてはHyper-Vもあったヮ! Hyper-Vは簡単に書いて親WindowsServerの上で子WindowsServerをいくつも動かせるよみたいな感じの仮想化技術だった。Windowsはみんな使い慣れているし、実際触ってみても使い勝手もわるくないんだけど、結局全部Windowsじゃないとダメだし、親WindowsServerが安定しないせいで親亀こけたら子ガメもこけるねん。

戦略として、VMWareが台頭する前に発表できていたら、もしかしたら?とは思ったけれど、結局後追いになってしまったので結果論デファクト・スタンダードになれなかった可愛そうなヤツとも思う。使える所があれば使うけどさ、という。

他にもVirtualBoxとかXenとかKVMとかTRANGOとかさ、色々あるけど、うん、仮想化技術というカテゴリで話すべきものであってインフラ色々というテーマから外れるのでやめておこうと思います、うふふ。

はじめての転職 ~ネットワークインテグレータ~

僕が新卒の会社にいたのは5年?6年?いまいち記憶がないけれど、東日本大震災のときはまだいたから5年半ぐらいいたのか。あの時は自宅で資料作っているときで、揺れ始めたので玄関ドアあけてから冷蔵庫のドアをあけてビールを手にとったときに大きな揺れになって怖かったなあ。閑話休題。

さて、はじめての転職は結婚に伴う寿退社でした(マジ)。7月に結婚式挙げて、8月有給消化して、9月に退職したの。で、その時点で一つ内定出ていたところ(P社)に納得いかなくなり(SIerなのに家電部門の業績連動とか、上司になる予定の人の人柄とか)辞退して、無職期間2ヶ月を経てネットワークインテグレータなる新たな業界に飛び込んでみたわけだ。2011年の11月のことでした。

Cisco扱ってるネットワークインテグレータとしては日本一だ、なんてことを標榜している会社だったんだけどなんのことはない、「IBM系SIer」と同様に、単にCiscoの一次代理店として大きくなっちゃったのでCiscoから社長が来ているし、Cisco扱っている競合がそんなにいないし、インターネット、ネットワークのバブルがあったおかげで、一気に急成長できたという、それだけのことだ。

ネットワークインテグレータに入ったものの、ネットワーク機器なんてそれまで触ったこと無いひとにIOSなんて教えられてもわからんし、Catalystの型番なんて2960/3750しかわからん人がそれを扱えるわけもなく、なぜかJuniperEXを数台売ったあたりでサーバSI部隊を立ち上げるので、と異動になった。

そこで会社が力を入れているVCE(VMWare Cisco EMC)を拡販していくためのもろもろをやっていたわけです。この頃がハコ売り・インフラ売りの局地だったかもしれない。

IBM系SIerだったころは、AS400の特性上多少はシステム開発の案件もあり、業務の中身に触れたり、活用されるシーンが想定されたり、課題解決は業務によった内容のものが(リプレイス案件であったとしても)あったのだけれど、ネットワーク屋はそんなもんじゃなかった。

これはもしかするとネットワークインフラ・ハードウェアの変遷と関わっているのかもしれないけれど、今の外資系ハードウェアインテグレータのほとんどが「海外から優良な製品をいちはやく持ってきて国内に売る」ことで急成長を遂げた企業ばかりで、それは単にニーズがある・あると思われるものを一社独占できるようにしていくというのが取りうる戦略なのかなと。

そうなるってえと営業の戦略としては「たくさん買ってくれる会社」が良い顧客であって、その「たくさん買ってくれる会社」は、通信サービス業、クラウドサービスを展開する企業、ゲーム企業、金融業、それだけ。なのでだいたいどこの会社も「キャリア営業」「金融営業」「民間営業」の3つに分かれる。もちろん、商社系だったら親会社担当部門とかもいるんだけど。

で、営業が客先に行ってやることは、客先をまわり、顧客に覚えてもらい、今年の投資予定を聞き、購入する次のモデルを決め、Ciscoに特価依頼(たんなる値引き申請)し、そこに自社の粗利をのせた提案という名前の見積を出し、いつもの感じで発注をもらい、Ciscoにオーダーするのを事務にお願いし、納期調整をし、客先でSEが機器を起動し、データを移行し、ちゃんと動くなあとお客さんに確認してもらい、検収を取って請求書を出すのが「オシゴト」なわけだ…あれ?デジャブが…

そんな中で、僕が担当することになったのは「CiscoUCSを中心としたVMWare仮想基盤+EMCやNetAppなどStorage基盤」を総称してプラットフォームと呼ぶ、まあ、単にインフラハード売ってこいという部隊だった。

CiscoUCSとは何だったのか

ほんとなんだったのか教えて欲しいわ…。
IBM製品をそれまで扱っていた僕からは、Ciscoは単なるネットワーク機器のベンダーであって、LANケーブルとか光ケーブルとか挿しておけばなんか動くアレ的な扱いでしかなかった。あと、IBM製品にまけず劣らず高いので、Cisco選ぶぐらいならJuniper選ぶし、ルーターなんて中小ならYamahaでいいじゃん派だった。

ネットワークインテグレータ入社後覚えたのは、グローバルではUCSなるサーバが伸びていて、データセンターでの導入が進んでいる、と。UCSとはUnified Computing Systemの略称ね。

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By Raysonho @ Open Grid Scheduler / Grid Engine - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19469758

初めて聞いた時は「へぇ…そう…。なんか使い物にならなそう…」という感じだった。実際に構成組んでみようとしたらCCW(Ciscoの構成ツール)が英語まみれエラーまみれブラウザベースでイラっとした(IBMはAS400の構成ツールもx86系サーバの構成ツールもクライアントアプリ提供だった)し、シャーシあたり最大8個しかサーバ詰めないやん!と。

スペックベースでバカにしながら、実案件で触れていくと手のひらくるりんぱ、といかないまでも、あゝナルホドこういうところに使いようがあるのかぁ、という感じには特性を認識しはじめた。

基本的にUCSは、ネットワークのCiscoからの視点として「管理されるべきサーバ」であり「ネットワークに繋がっていくもの」という設計の思想のもとに出来上がっていて、統合管理という考え方が大前提にあり、ラックに整然と百台数百台と並んだ上で裏側のケーブル配線がものすごい整然と並んだあのイメージが実現して初めて効果的な管理が実現するのね。

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これがUSで伸びまくった理由は、ただただアマゾン大先生とGoogle大先生とMicrosoft大先生とFacebook大先生のおかげなんやろなーと思ってたら、どこももっと大規模なので自社仕様のサーバを作って管理できるようにしている…だと…?とか愕然としたのが懐かしい。

転職前は大規模と言っても数十台レベルのサーバしか必要のない中堅・中小ばかりを(あるいは大きくても一部サブシステムレベルでしかしなかった)担当していたおかげで、データセンター数十ラックにギッチギチに詰まったサーバなんて想像力が全くなかった僕がそこにはいた。まあ、実際見たところで対して感動はしなかったが。

ぼくは前述の「キャリア営業」「金融営業」「民間営業」のうち「民間営業」…俗称エンタープライズを担当することとなったんだけど、民間営業の担当する企業は商社やら流通やら製造やらメディアやら、とりあえずキャリアと金融を除いた全部のごった煮という部隊だった。後にキャリア部隊からゲーム業、新興クラウドサービスが合流したことで更にカオスになった。だいたい営業は80人ぐらいいたのかな?

これは成り立ちの話なんだけれど、入社したネットワークインテグレータは元々本当にCiscoの国内市場の伸びとともに一気に急成長を遂げた企業だった。インターネットが急速に浸透するとともに通信が高速化する流れがあり、そのなかでルータが必要になり、スイッチングハブが必要になり、更にLAN(というかEthernetか)も10BASEから100BASE、1000BASE、今や10GBASEへと一気に成長を遂げていった。卵が先か鶏が先かではないけれど、ネットワークが早くなったからエロ動画が高精細化したのか、エロ動画を高精細化したからネットワークが早くなったんだろうか。みんなエロ動画を見たかったんだろう。4Kとか8kの進化もそういうことなんだろう。

まあ、そういうわけでCiscoはEtherやTCP/IPの進化をネットワークインフラで支えており、その進化の流れの中でビジネスがものすごい伸びを見せた結果、社員は増え、売上が爆増した会社に入ったわけだ。

そういう売上爆増をなんというか、覚えてますか? そう、バブルです。

やっぱバブルはよくねえわ ~早すぎたんだ、腐ってやがる~

一社目のIBM系SIerでもあったようなモチベーションヒエラルキーがそこには出来上がっていたんですが、60~70年ぐらい歴史のあるサーバコンピュータの歴史と比較すると、ネットワークは40~50年なので一段階ぐらい少ないかな、といったかたち。

1.初回のネットワークバブル期を体験した45~60代
2.ネットワークリプレイスバブルで儲かった35~45代
3.わけもわからず何かもうかってる25~35代
                           ※2011年時点

儲かってる会社に入れたのは、主に収入面でよろしい感じだったけれど、なんというか急成長した元ベンチャーってここまで酷いんだなあって少し感じたのは、結局人が成長する前に企業がでかくなっちゃっているので、どう人を育てていこうかとか、この先どうしていこうかというビジョンの先がないまま日々ビジネスが回転している状態なんですよね。

入社直後に配属先上司から言われた言葉、今でも覚えてる。

「なんでこんなこともできないの?」

確か初めてネットワーク機器の物販案件取ったときかな?AS400みたいな、オーダーしたら海外で製品が完成した状態でShippingされるものと違って、海外製ネットワークハードウェアって、びっくりするんだけどパーツバラバラ・設定なしの状態で届くのね。それを国内で受け取って、倉庫に入れて、キッティングセンターで初期キッティングと初期設定してから、はじめて客先に納品・ラッキングできるという流れなんて、こっちは一切知らないんですよ。

流れ知らない相手に「なんでこんなことも」は普通禁句やろと思ったけど、彼もまあそういう世界があることを知らないのでしょうがない部分もある。まあ、それ以上にブラックな上司だってことがその後次々と露呈したが。

さて、そんな急成長したCisco一次店のネットワークインテグレータで、Ciscoが戦略的に展開しようとしているUCSサーバを扱い、ビジネスを拡大しようとしたらどうなるか?

誰も売らないんです。自分からは。

そりゃそうですよ、元々国内のサーバ市場は国産の御三家NEC、Hitachi、Fujitsuがいる上で、外資系でもIBM、DELL、HPが争っていたわけです。そこに「Ciscoがサーバ出しました」とやったところで、顧客からしたら「へぇ」としかならないです。

また、もう一つの問題として、ネットワークインテグレータに入ってきた営業もエンジニアも「ネットワーク機器を売ってメシを食う」ことに特化して技術を磨いてきたわけなので、サーバ機器を売ることなんてさらっさら興味も知識もなかったわけで。
ある技術の子がこぼしていたのは「そろそろサーバも覚えなきゃいけないのかなあ…」だったけれど、逆になぜネットワーク機器だけやっていれば良いと思っていたのか聞きかけた。自分が逆にサーバ・ストレージやアプリケーションはわかっていてもネットワーク機器を知らないのに気づいてやめた。

どこまでもCisco、ネットワークハードウェア中心の考え方をするようになってしまうと、結局サーバもストレージも何もかも「ケーブルがささるもの」という認識で、だからこそ隣の畑が青いなあと手を出して、手を出したら出したで売れないか、売ってしまった後に炎上させて…を繰り返しているような状況だったわけですね。

なので、僕が組み入れられた部隊はSIというにはおこがましいけれど、ネットワーク機器からつながる、サーバ、ストレージや、サーバを仮想化するVMWareなどを組み合わせて売る部隊、という感じのミッションを持たされたわけです。
だいたい最初は3~40人の組織だったかな?中途で他のSIerから入ってきた人たちをとりあえずかき集めましたという感じがした。当時の某役員が社長から「なんでサーバ・ストレージの売上が伸びないんだ」と聞かれて困って焦った結果漏らした「と、特殊部隊たちあげてなんとかします」が気に入られてGO出たんじゃないかって説に真実味が深み。

こういう浮いた形の特務組織の困ったところって、まずは評価基準が存在しないところですね。人事的には「営業」「技術」「事務」しか存在しない会社に、顧客企業を担当するアカウント部門とは別に「営業」「技術」が生まれてしまうので。
そうなると、組織発生時点でなにをやらなきゃいけないのか? 数字の奪い合いです。押し付け合いとも言うな。よくある組織の理論だ。

職種としては営業として配属された自分でしたが、直接顧客を担当することはなく、民間部隊のアカウント営業が担当している顧客企業をまわって課題ヒアリングから解決策立案、提案、受注したときに取れた数字をどうするか? アカウント営業の数字にするのか?そうなった場合、受注まで持っていった僕の評価はどうするか?

これ半年ぐらい(既に組織としてはビジネスを回転させながら)議論されていた気がする・・・結局「バーチャルに目標数字を設定して評価し、実際のはアカウント営業に数字をクレジットする」というよくわからないことに落ち着いたけれど、主にモチベーション面で失策だったように思うなあ。

CiscoとVMと、時々EMC

そんなことで組織されたプラットフォーム部隊だったけれど、社長の方針で「アプリは絶対にやらない」と決まっていたこともあって(まあ手出ししたら大炎上させまくっただろうから、インフラのみに絞っていたというのは正解であったとも思う)、企業におけるプライベートクラウド基盤であったり、サービサーにおけるIaaSかもう少し上のPaaSまでをCiscoUCSとVMWareとEMCのストレージで作り上げる、いわゆるVCEを浸透させるのがミッションとなっていた。

VCEは3社資本で会社まで作って蜜月関係作ろうとしていたみたいだけれど、結局戦略の違いなのか性格の違いなのか、最終的にはEMCが主導件握ったあたりでVMとCiscoが微妙に離れて、しょぼくれていった感じがしたな。
外資系ってサーバもネットワークもストレージも3tier全部取りに行くんだって思想が経営者の中で出てきちゃうので、どこかで手を組んだとしてもすぐにケンカ別れしているイメージがすごい。あれってなんなんだろうね?

CiscoUCSはそのままOSをのせて動かすような思想ではなくて、メモリやCPU、IOが最初から仮想化を前提とした設計になっていたおかげで、導入案件はほぼすべてVMありきでの提案となっていた。デフォルトでメモリ512GBとか1TBとか1.5TBとか搭載しているし、ストレージは別途持つ前提なのでサーバサイドはVM領域としてSAS300GBx2枚とかで十分だったり。

だからこそシャーシ型で大量に導入するのが向いているし、配線はキレイだし、配線はキレイだけどシャーシにフル導入すると1シャーシあたりの重さが相撲取りレベルだったりしたわけで。ラックにフル搭載すると500kg~1t軽く行っちゃう。顧客のデータセンタでラックの耐荷重超えちゃうから42Uラックなのに20Uずつしか使えないとかギャグみたいなことが起きたりして、サーバインフラ屋としてファシリティのことにも気をつけないとアカンのねと勉強したのがこの頃だな。勉強しないと、ラックマウントした時点で床が抜けちゃう・・・

EMCはその頃たんなるハードディスクがいっぱい入るストレージ屋としてだけでなく、VPLEXのような複数ストレージを仮想化し統合していくような、ストレージ仮想化を始めた頃だった。Isilonも触ったけど、繋げばつなぐほどHDDが多くなるからIOPS早くなるし、繋げば繋ぐほど容量が大きくなるという単純なメリットだけでなくて、ネットワークが繋がっていれば(重要)、例えば日本と香港とアメリカにあるストレージが1台のストレージとして使えるし、RAID5のようにデータ分散させてしまって日本がダメになっても香港とアメリカだけでデータが保護されるような、そんな未来を描いていた。

ここらへんは密結合型のクラスタコンピューティングの考え方だから面白いなあと思ったけれど、実際のところはネットワーク帯域の問題とか遅延の問題があってあまり実現したとは言えない気がする。その頃のはなしだけど。

戦略的なものが嫌なのか、単に金額的に高額になりすぎるからなのか、EMCに関しては全然やる気がおきなかったなあ…vblockとかも。。

Cisco系ネットワークインテグレータにいたくせに、僕が一番触ってたのは他のメーカー製品だった。

HPとDELLと、ひっそり日立

元々IBM屋にいたせいで、HPもDELLもコンペとみなしていた…そんな厨ニ病な時期が私にもありました。完全に敵視してたもんなあ。

それが変わったのは完全に人の問題で、当時付き合いのあったHP一次店の次期社長と呑んでくだ巻いて六本木の路上でぐえーって転がったりした次の日ぐらいからかな(大抵がそういうエピソードにまみれている)、もう全部HPサーバで染めればいいんじゃないかなとばかりにHP製品やっていたら、やっぱり民間企業はHP製品が一番デファクトなサーバという扱いだったので、案件がとれることとれること。

自社のマーケ部門がたらい回しにした2ヶ月モノの問い合わせリード案件ですら、HPサーバ染めで提案したら(なんでCiscoUCSじゃないんだって社内では怒られたけど)取れたしなあ。これはIBMでもHPでもそうだけど、サーバ全部染めると管理ツールが超絶使いやすいよね。逆説的な話だけどiLO使って統合管理しているところにCiscoUCSはねじこめないよね。囲い込みってすごいや。

DELLは某IaaS基盤に採用してもらったけれど、未だに何がいいのかよくわからない。安さ以外に「これがいい!」って理由が思いつかないし、買収に次ぐ買収で総合IT化して(EMCまで買収して、かつ元々いたEMCの人たちがわさわさと逃げ出していくところは笑った)膨れ上がっていっているけれど、国内の営業の人達と会話すると「どうせDELLだし」みたいな空気が感じられて仕方ないのよね。本社のスピード感についていけてないマンが多いのかなあ…。

日立は国産サーバ・ストレージインフラで唯一(多少)触ったことがある機械という感じ。NECのExpressは客先で頼まれて再起動だけやったことがあるぐらいで、なんにもわからないままだ。
当時、日立と仲の良いエンジニアがいて、自社で日立ストレージを扱えるようにする啓蒙活動に巻き込まれたかたちで、小田原工場の見学とかもした。

日立の良いところは石橋を叩いて叩いて…という製品のものづくりにかけているところだなあ、と思ったけれど、悪いところも石橋を叩きすぎてビジネスの地盤が壊れているところだと思います。正直言って高すぎる。製品の性能がとか信頼性がとかどれだけ謳っても、コンペである限り同等スペックで同価格を下回れなかったら終わりですよという状況で価格が頑張りようがないし、頑張りようのないところが人件費そのものの保守費用だったりするので、単にビジネス戦略自体が間違えているんじゃないかなと思う。まあ、製作所というだけあってエンジニアが強い会社だし、エンジニアが信頼性のある製品を作っているからこそ営業がビジネスを勝ち取れたんだろうけれどね。

そんな感じで様々なサーバ・ストレージインフラ製品を組み合わせて、お客さんにあわせて触ってこれたのは幸せだったのかもしれないなと今更ながら思う。正直いって一社目のIBMベンダのままだったら、x86系がLenovoに行き、LenovoがSuperfishやらかしたり、やっぱり中華なバックドア★だったり、もういっそバックドアじゃなくてフロントドア突き破ってきそうな状況になってたら、確実につまらなかっただろうなと。

ただ、会社的な「アプリ禁止」はちょっとつまらなかった。なので、ソフトウェアベースのレベルでなく、中間値とったミドルウェアに手を出してみた。
DB(我が家ではデブの略称としても用いられる)だ。

Oracleは必ずしも預言していない

プラットフォーム部隊と言いながらもプラットフォームの扱いはサーバとストレージとVMだけじゃねえかとくさくさしつつ、いいアカウント営業といいお客さんに恵まれた僕は、普通のセールスエンジニア・プリセールスではありえないぐらい様々なシステムインフラに触れてきた。

前職ではRDBというとDB/400かSQLサーバが主流で、Oracle?あの年々保守費用が高くなっていく生命保険みたいなやつ?としか認識しておらず、基本的には触れたくないなあというもの(あるいはお客さんがほしいって言ってきた場合は保守運用には関わらず仕入れて売るだけのもの)としか認識していないものだった。

そんなさなか、アカウント営業がやむを得ない理由でいなくなってしまい、僕しかお客さん先に訪問しなくなった某ゲーム会社で、Oracleデータベースのインフラ更改が控えているということを情報として頂いた。
基本的にやれないこたないだろ、と、断らないスタンスの僕は「提案やります~」と気軽に応えたわけだ。

最初にその話を聞いてから足掛け2年か?
ヒアリング、製品選定、提案を何回やったんだっけ?

’12年 既存のDBをDR目的で分散していきたいと聞く
その時はOracleと相談して、お客さんの興味もありOracle Database Appliance(ODA)を提案した。ODA自体は中堅中小規模のOracleインフラとしては素晴らしい機能を備えていて、データベースだけを考えれば完成度が高いように思っていた。2Nodeサーバとストレージという形だけで出来上がった仮想化されたアプライアンスは、対障害についてもよく考えられていたし、拡張性は限度があるものの必要十分と思えるものだった。まあ、ハード面が元SUN部隊なのであまり期待しないでくださいとOracleの人が正直に言った時点で少し覚悟したし、結局保守費用がデータベース並に高いがな!ということで断念したけど。

’13年 既存DBサーバのEOSLが迫ってしまい、VerUp含めた提案依頼になる
こういうとき大体先に限界が来るのは保守期限というやつで、いつかはやらなきゃいけないなあと考えながらもリプレイスを後回しにしていると、ハード保守期限が延長できないところまで迫ってしまうわけで。嫁さん某社のメンテナンスサービス部門にいるからこういう話ものすごく身につまされる。
この時困ったのがCPUコアの増えすぎ問題かな。
当時2CPUで20コア24コア当たり前の時代だったんだけど、お客さん先にある既存サーバが6コア時代のもので、リプレイスするとOracleライセンスが4倍必要になってしまうみたいな絶望感が僕らを包んでいた。
システム構成が本番・テスト・DEVとわかれている至極真っ当な構成だったんだけど、その状況でやるとライセンス費用が数千万増えますねぇ(ニチャア)…みたいな話をせざるを得なくなって、状況的には積んでいた。
最終的にはNode数減らしてサーバはHPのままリプレイス(コア数はなんとか抑えた)、ストレージのNetAppはそのまま拡張するという正道だった。
笑ったのはデータ移行に対して関係者が全員ものすごいハードルを感じていて、バージョンアップと並行してやるためにはマイグレソフトが必要ではとか、NetAppのSnapMirrorをうまく使ってなんとかとか、今考えるとムダな議論にものすごい時間をかけた記憶がある。。

ゲーム関連のサーバって本当にメンテナンス時間が短くて、このシステムの時は4時間以内に移行してチェックしてオープンしなきゃいかんというのが辛い条件だった。(自分が手を動かしていないけど)作業立ち会いしていてそわそわしたなあ…。待機時間眠かったしタバコ吸えなくて辛かったなあ(もはや仕事の辛さではない)。

きわかったのはこの案件ぐらいで、あとはでかい話としてはExadataが云々案件だったり、dataplexがほげほげという案件など、データベース周りは結構面白いけど実際考えると怖いなあって案件が多かった。まあ、ビッグデータ時代の入り口だったんだろう。

NetAppというNAS

Oracleの話出したらNetAppも出てきたのでこれも書かなきゃ…!

NASと書くと今や語弊があるけれど、TCP/IPの世界の拡大とともにNetwork Applianceは急拡大した。文字そのものでネットワークに接続する前提のストレージなわけだ、Network Attached Storageなわけです。NFS/CIFSでの接続が大前提の共有ストレージなわけです。

それがいつの間にやらFCPもiSCSIも取り込んでユニファイドストレージと呼ばれ始め、もうNetwork Applianceじゃなくねというタイミングで社名がNetAppに短縮されたわけだ…名残を残しやがって…だまされないぞ!

NetAppはもうグローバルスタンダードの領域だよね、Go further, faster。それまでIBMのDSや、EMCのVNXや、日立のVSP見ていてモヤっとしていたことがDataOntapでスッキリしたよぉおおおおって本当に思った。SnapMirrorもSnapShotもシンプル伊豆ベストなわけですよ、これでいいじゃんみたいな。RAID6なんてディスク足せば足すほど当たり前のように処理が高速になっていくし、ツッコミどころのない気持ち良い設計。

NetApp案件ばっかり一時期やろうとした結果NASファンになってしまい、そのころ子供の写真沢山撮らなきゃという使命感もあってカメラを買い替えたせいで、ストレージはNAS買うんだと決め、結果僕の自宅にはQNAPが導入されました。NetAppいつか買うんだ…(錯乱)。

とはいえ会社がEMC推しだったのであんまり担がせてもらえなかったな。
しょうがないからって更に錯乱して3PAR売ろうとしたのは狂気の沙汰であった。

ああ、思い出した。これぐらいのときにIBMがXIVのインタフェースをミッドレンジストレージに適用した新しいストレージブランドを出すと言って、見に行ったんだ。

IBM Storwize V3700

さっきWEB見に行ったんだけどシリーズ的にはなくなったのか情報が少なくなっていて記憶を探りながら…

ちょうどこれ日本の初号機売ったんですよ僕が。フル構成で。
XIVインタフェースは元々知っていて、すごいUX/UI使いやすいし、ThinProvisioningとか機能も充実しているし、拡張性ちょうどいいし、価格的にも抑えられそうじゃね?と目をつけているときに、新しいもの好きなお客さんが興味持ってくれて、IBMにデモを一緒に見に行ってくれて、その場でほぼ決まっていたという。

シャーシはNetAppから供給されてたみたいですね、よく見るとフロントエンドのプラスチックパネル全部付け替えたらNetAppに変身しちゃえる。さすがNetApp(違う)。

たしか2段ストレージ構成にして容量確保した上で高速でひたすらDBぶんまわすような構成で、お客さん自体もド変態(褒め言葉)だと思ったと同時に、その利用方法でかなり高性能だなあと思った。

その後フラッシュストレージ全盛期がき始めちゃったので、最後に面白い案件触れたなー。

Flash!!! 

フラッシュストレージ最初に面白いなあと思ったのはIBMのFlashSytemかな、結局売らなかったしデモ見に行っただけだったけど、1Uにぎっちり詰めたメモリで論理的な?RAIDっぽいことやってるのでデータ保護しつつ、IO設計を極限まで詰めたおかげで遅延なく高速な処理を実現してますとかなんとか。

PureStorageとかXtremeIOとかStoreServとか、もう各社混然とするレベルでみんながみんなALL Flashだ~!って言い始めた時はなんじゃらほいと思ったわ。まあ、ストレージの世界って容量は容量として、スピードが正義で、データへのアクセスが少しでも遅いとユーザからクレームになっちゃうからね。早ければ早いほどいいよね。

でもさ、カネがあるからって全部フラッシュ/SSDにしないほうが良いね。

先日ニュースにもなっていたけれど、HPEのSSDが32,768時間…およそ3年半ぐらいで復旧できないデータ喪失起きたって聞いて、まじで当時売らなくてよかった…って冷や汗かきました。もしくは売った記憶がなくなっててよかった。

こわやこわや。

そんな僕の足元に、VMWare EVO:RAILというものが忍び寄っていた…

這い寄る混沌 EVO:RAIL

これ書いたらもう僕がどこの会社にいたかなんてすぐわかるな。所属していたネットワークインテグレータはとてもVMWareと仲良くて、一時期は日本で一番VMWareのライセンスを出荷している会社といわれていたです。

そんな会社がいきなり「うちはメーカーになります」とかぬかしたのが、あのVMWare EVO:RAILというHCI(ハイパーコンバージドインフラストラクチャ)の入り口だった。

ハイパーコンバージドインフラストラクチャは、IBM PureSystemや日立UCP、富士通のIntegrated System、OracleのExaDataのような垂直統合型システムをまるでダウンサイジングしたような仮想基盤で、おおかたが2Uシャーシに4Nodeの物理サーバノードが入って、ストレージは各サーバノードに内蔵されたディスクをストレージ仮想化技術で「全体がひとつ」に見えるように動くという感じのコンセプト。

その4Node2Uのシャーシを足していくことでリソース追加は簡単にできるし、管理はもともと1画面で全てができるように設計されているというのがものすごいシンプルで、それまでの3tier型システムや垂直統合型システムでは、サーバ担当、ストレージ担当、ネットワーク担当とエンジニア領域がわかれていて、個別に勉強していかないと管理も運用もできないぐらい複雑怪奇だった世界をぶち壊した。

とりあえず初号機売って、客先で起動してびっくりしたもの。配線→起動→クリック一発で仮想マシン立ち上げられるし、管理運用なんてほとんど考えなくてもできるぐらい。ちいさなPaaSがここにある!みたいな。

EVO:RAILそのものは諸事情ですぐになかった事になったけれど、その後EMCがvxRAILとして引き継いでいったり、元々じわじわと広がってきていたNutanixが市場を牽引していくんだろうなあと思いながら、もうサーバインフラ業界で僕が遊べることはなくなってきたことを感じて、二度目の転職を決意した次第。

割愛したい過去

二度目の転職から3~4年はほとんどインフラ触ってなかったのでこのポストでは割愛。最初の方で書いたけれど音声感情認識サービス立ち上げようとしたり、アナリティクスファームでアクセス解析データを見たり、デジタルマーケティング関連の戦略学んだりしながら、ふらふらしてました。

そして現職に引き抜かれ、しがらみが襲ってきた(笑)。

HCI!HCI!(USA!USA!のノリで)

転職してからはコンサルとして新規事業開発のお手伝いをしたり、企業のアライアンス支援をしたり、色々とやっていたんですが、以前ハードウェア関連ビジネスのアドバイザリで話が盛り上がり、こちらからも勝手ながらナカーマ感を抱いていた方から相談をもらい、某製品サイトのデジタルマーケティング戦略の立案・実行をご支援することになったのが今年、2019年。

暑い夏でございましたな今年も。。

4年ぶりのサーバインフラ業界はかなり様変わりしていて、横から少しは見ていたつもりだったし、昔からお付き合いいただいているお客さんからHP Simplivity/OmniStack買いたいかもって相談をされていたので情報を仕入れていたつもりだったけれど、2014~15年当時はもっと消極的な市場になるんじゃなかろうかと思っていたものが、2018年時点でIDCが2018年~2023年の年間平均成長率(CAGR:Compound Annual Growth Rate)を18.1%と予測してるということは、一定のマーケットが出来上がっちゃったんじゃね?という視点に基づくんだろうと思われるし、実際に売れ行きを見ている限りユーザからの期待値が大きい。

これは旧型3tierの考え方が頭から抜けない僕みたいなのが現場から離れて、徐々に若い世代が運用管理を任されていっているという現実なんだろうな。もう、サーバ自体がどうのこうのというのよりも、何に使うかという目的が重要だという意識が明確な気がする。例えば従業員向けVDI環境を整えていくならユーザの仮想マシン領域をひたすら作っていかなきゃいけなくなるので、じゃNutanixでやらないとダメじゃない?とか、ぽこぽこ増やしたり減らしたりしながら動的に負荷分散考えないといけないWEBサーバがある、それこそVMでまとめないとムリじゃない?とか。

ただただ目的が前にあって、それを実現する「ちょうどいいインフラ」がHCIであるということを認識していないと、正直言って時代遅れになりそう。あたまがパーンですよ。パーン。

どうしてもハコ売りの考え方でHCIを担当すると、HCIというハコがあって、それを売るためにはどうしなきゃいけないかみたいな考え方に一瞬陥っちゃうものなんだけど、それって僕が昔AS400かついでたときと何らかわらないわけですよ。AS400がほしいわけじゃなくて、基幹システムとして最適だと判断された(主に放置できるという意味で)AS400、というだけであって、それ以外に堅牢な運用ができる利便性高いものがあって、アプリがAS400対応してなきゃいくらでも切り替えられるものになっちゃうから。

HCIも同じで、○○がしたいから、という目的別導入があるからじわじわと広がっているけれど、もっと大規模にいきなりなるかというと、大規模にやるんなら普通のサーバで構成したほうが安いし、それこそ最初からAWSでもGCPでもAzureでもパブリック選んだほうが楽だし早い。自分が運用する必要のあるハードウェアがあれば、いつまでもそこで仕事してられるとかそんな狭い了見でHCIを選ぶ企業の担当者もいるだろうけれど、そのうち淘汰されるだろうな。運用が楽になっちゃうはずなんだから、じゃあ次何やらなきゃいけないのって、新たなシステムによる業務効率の向上でしょ?売上向上に資するシステムの導入でしょ?例えば、アナリティクス基盤であったり、例えば、ワークスタイル変革を促すVDIであったり、テレプレゼンスだったり、オフィス・ビジネス環境そのものを変えていくことでしょ?

そんなことをHCIが投げかけてくれているような気がするんだけれど、結局ついていけてないロートルは、この先どうなるんだろうね。ほんとに。

まとめ

良い子のみんな、ここまでで27444文字だ!

こんな酔っぱらいみたいな文章を最後まで読んだとしたら、本当に暇な人か、システムインフラ業界に絶望を覚えている人か、狂人です(失礼)。

久しぶりにインフラの世界見ていて思うんですが、4年離れたぐらいじゃ対して変わらないだろうなとも思ってたのが、今後このままだとSIerは死んじゃうなあと思うし、じゃあどうすればいいのって質問に対しては「もっとお客さんのことや業務のことを認識し、考えろ」という単純な答えしか返せないし、だからって単にデジタルトランスフォーメーションやワークスタイルっぽいキーワードの製品・サービスの取扱を増やしただけじゃ「サービスというハコを売る」ハコ売り営業からは脱却できていないし、そんな状況がなぜできたんだろうなあとモヤモヤしたところを書き出してみたら、そういえばAS400でもCiscoUCSでもHCIでも、変わらずバブル的な流れがあって、それを享受した営業・技術は知恵を使わないまま成績を残してしまって、知恵を使わないまま下の世代に何も教えないし、下の世代はそのリプレイスだけでメシを食えてしまうし、そのハコが衰退期に陥ったときになって焦ってもどうしようもねえぞ~、ということが多分このクソ長い文章で伝えたいことなんだろうなと思います。

すごいハードランディングした気がする。

おしまい。

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