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頭の中の解釈が目の前の話し手を通り過ぎる時

令和も丸5年が過ぎ、6年目に入ったのに「もう、いい加減にしたら〜?」と呆れて言いたくなるほど、恐怖心を煽り立てられる様な事柄の陰影や残像というものが見えかくれする。
失った30年と言われる平成という時代は、とにかく恐怖心を煽られる様な事ばかりで、30年かけて染み付いてしまった事が、「たかだか5年でスッカリと消える訳がない。」としか言いようもなく…
でも、失った30年とは言っても中には華やいだ人がいる事も確かで、華やいだ人がいなければ何が失った30年なのかさえ分からかっただろうとも思ってしまう。 

こんな偉そうな事を言っているけれど、何処か自分自身に言い聞かせている様な所がある事は否めない。
言葉のもつ特性からくるものだろう。

私と来たら相変わらずで、何でなのかは自分でもよく分からないけれど、「おめでとう!」とか「よかっね。」と言いたいのに相談に来ておいて、上手くいった時ほど誰も報告に帰って来ないときている。
「困った時ばかり泣きついてきやがって‼︎」と腹が立つ。
でも便りがないのは良い便り。と腹の虫が治らない自分に言い聞かせる。
何かにつけて良い報告しか上がって来ない人がいる中で、何で私の所には?と疑問に思うけれど、ハッキリは分からないまでもイベンテーターでもなければ宴会部長でもなく、押しかけ女房タイプでもないからなのかもしれない。
「…?…?…?」ちょっと待てよ…?
そう言えば…最近では、めっきり押しかけ女房と言う言葉は聞かなくなったなぁ。
殆ど死語になっている。

あぁ…そうか、
男性にも押しかけ女房タイプの人が存在するのに、女性のみに特化したものと、差別用語としてポリコレ
(ポリティカルコレクトの略、通称PC。
PCと言ってもパーソナルコンピューターのパソコンの意味ではない。)に該当してしまうから近年では公の場ではNGワードになっているのかもしれないなぁ。

まっ、要するに「何度、同じこと言わせるんだ!」とか「そんな事も知らずにやっていたのか‼︎」等と激怒しないからなんだろうな。

でも悲し事に…私がいくら激怒して怒鳴っても、相手には激怒している様に受け取って貰えない風貌があるみたいだ。
そんな事を幾度も繰り返していると、体力を消耗してしまう、怒鳴るという行為そのものが無駄に思える様になったから辞めたのだった。

数日まえ、ニュースで旧田中角栄元主総宅の全焼火災のニュースを見た時、これってどんな意味と言って来た方がいたのだけれど、私にとっては、その時に起きた事象でしか全くないのに、その人はどうも何かの因果応報の様に思っている様だった。 
私は小5の頃だったかな?父からニュースと言う英単語はない事を教えられていたから、余り気にも留めていない頃を聞かれると、呆気に取られてしまう事があるのだけれど、ニュースという言葉は東西南北の英語単語の頭文字のみをとって作られた造語で、TVやスマートフォンを通して、その日に国内で起きた出来事を嘘偽りなく、そのままの事実のみを報じられているにしか過ぎない。
だから旧田中角栄元主総宅の出火原因は線香の消し忘れと見出されているけれど、警察と消防から現在、現場検証中のみとだけ伝えてられている様に、それ以上でもそれ以下でもなく、そこに何の深い意味もないとしか私には言いようがない。

強いて言うのであるのならば、
お仏壇が家にある宅や、お墓まいりに行っ事がある方ならば、思い当たる節があると思うのだけれど、線香を立てた時に大体が煙が立ち昇っている間に手を合わせて拝んで帰ってくる事がほとんどで、線香の火が燃え尽きるまで見届けてから帰ってくる人や、立てた線香が風で倒れない位の深さまで刺せているかまでの確認はしていないと思う。
いつもと変わらない動作をしていたはずなだけで、そこまでハッキリとした線香を立てた記憶なんてない事が普通になってしまっているだろうと思う。
ならば、これを気に家を全焼させない様に
教訓としなさいと言う事くらいだろうか。
今、このタイミングで使う言葉として適切かどうかは
ちょっと考え所だけれど、もう少し率直な言葉で表現してしまうならば、人の振り見て我が振り直せという事だと思うくらいのみである。

そこで、ふ…と感じた事があったので書いてみたいと思う。

またまた@KoalaEnglish180こあたんこあらの学校さんのお力をお借りして、日本語圏の人が課題の棲み分けが、上手く出来ない事の中にsoとveryがある。
下記の図を見てみよう。

soは自分も相手も同じ場所にいる場合。
veryは自分と相手が別の場所にいる場合。
を表しているのだけれど、
とかく日本語圏の人はTVで映っている映像自体もsoで考えやすい傾向がある様に思う。

何年か前に医療従事者さんとジャーナリストさんの
伝え方、伝わり方の勉強会に参加させて頂いた時があったのだけれど、医療従事者さんもジャーナリストさんも背びれや尾ひれを付けたりした様な過大な表現や嘘偽りを伝えてはいけないというルールがある中で、災害時や怪我や病状がおもわしくない時は、ただでさえショックが大きいのに、その上に今現時点の状態を
これ以上ショックが大きくならない様にどう伝える事が最適なのかと言う勉強会だった。

そこで混濁して欲しくない事は、ワイドショーである。
ワイドショーはニュースとは全く違うカテゴリーで、ニュースで報じられた事象をコメンテーターと言われるゲストさんの方々が、各々の見解を出し合って視点の違いからくる見識の幅が広げられている番組なのです。
例えば、ディナーショーとかワンマンショーとか表現されるように、あくまでショータイムのビジネスであってワイドと言う英単語の意味は分かると思うのだけれどwideされたshow番組なのです。

そこをキチンと踏まえていれば、何もいちいち詮索する様な事はないと思うのですが…
番組を見終わった後での個々の感想や感覚も人それぞになる事の方が自然な事だと思うのです。
ですが、その感想や感覚を相手に強制や強要をしてしまうのは如何なものかと眉をひそめたくなるのです。

何かにつけて、いちいち詮索されたり、しなければならないなんて気疲れするだけでやってらんな〜い。

〜追伸〜

一見して同じ予想としてくくられてしまいがちだけれど、憶測と推測とでは全く基準が異なってしまう。

憶測とは
想像に基づくいい加減な判断。

推測とは
今まで身につけた知識や経験値、資料など判断材料として起き事象にたいしての予測をする事。

もう少し身近な例をあげるとするならば
憶測は
卵焼きを焼いた事がない人が、なぜ卵焼きが上手く出来なかったのかを論う事。
推測は
卵焼きを上手く焼ける人に、なぜ卵焼きが上手くいかなかったのかを、出来上がったものを見て判断してもらう事。

所々で記述しているけれど、 
私にとって大人の嗜みの中の1つとして
ぬか喜びや安請け合いをしない、させない事としています。


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