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「芸術神学」批判序説 ~ 新しい公共劇場の在り方を模索するための省察 ~(2)

2.「芸術神学」、その礎石的「信仰」その1
  ~ 芸術は何の役にもたたないからこそ美しい? ~

 さて、「芸術には絶対的価値がある」とする「信仰」を、略して「芸術の絶対価値論」と呼ぶことにしよう。この「絶対価値論」は、世間では「芸術のための芸術」あるいは「自律的芸術」とかいった名称で流布している。
 この、「絶対価値論」のルーツはどこにあるだろう。
 私見の範囲では、近代ドイツ思想(美学)まで遡れると思っているが、もちろん、近代ドイツ思想(美学)がある日突然パッと生まれたわけではないので、それなりの前史はあるだろう。
 前史も含めて、「絶対価値論」を思想的に支えてきた礎石は、主に次の2つだろう、そのようにぼくは考えている。

(1)自己を目的とする自己目的的な存在こそ最高価値があり、何かの手段でしかないものは価値が劣る、とする西洋ローカルな伝統的価値基準。
(2)ゆえに、自己充足的に存在している「真理」にも最高価値があり、その「真理」を内に宿す芸術作品もまた、最高価値がある、とする信念。

 順番に説明し、補足していこう。

 まずは(1)。
 これは、日本人にはとても理解しにくい。たしかアリストテレス(紀元前のギリシャ哲学者)とか、「哲学は何の役にも立たないからこそ、最高の学問だ」的なことを書いていたと記憶しているが、これなども同様のパターンだが、意味が分からぬだろう。
 ところがじつは、西洋思想では、自己を自己目的とするものに最高価値を置く、という伝統的な価値基準がある。
 具体例を出すと、分かりやすいかもしれない。
 たとえば「神」がソレだ!
 「神」は、誰かの手によって造られたものではない。また、ハサミとか机とは異なり、何かのために(道具として)造られたものではない。「神」は純粋に、ただ単に、在る。「神」は自己が在ることを目的として、自己目的的に存在している。この在り方を、ここでは「自律的存在」と呼ぶことにしよう。
 「神」は、「自律的存在」。
 西洋思想は、こういった「自律的存在」に価値を置く。そしてもちろん、究極的な「自律的存在」こそ、「神」である。
 ちなみに、西洋「神」と東洋「神」は根本的に異なる。たとえばみなさん普通に神社へ行ってお参りするが、これは西洋「神」のロジックではありえない。密教的な加持祈祷の類もありえない。なぜなら、「神様にお願いして、何かしてもらう」の類は、端的に言って、「神」を手段化(ツール化)するのと同じであり、「神」=「自律的存在(一切手段にはならない)」の定義に反するからだ。お願いを聞いてしまう神様というのは、自らの存在価値を否定しているに等しい。
 わりとここがポイントだ。一神教の「神」、「超越神」と呼んでもいいだろうが、この「神」の在り方が、日本人には分かりづらく、躓きポイントの一つである。
 

 さて、「自律的存在」の反対側にあるのは無論「他律的存在」、たとえば「道具」である。「道具」とは何かの役に立つものであるが、まさに何かの役に立つものであるが故に「自律的存在」に比し、西洋思想では価値の劣るものだとされてしまう。また、「道具」をつくる職人=クラフトワークもまた卑しい仕事だと見なされてしまう。たとえば、かのシャネル(1883-1971)は、たしか「自分のしている仕事は芸術じゃないから」とかいう感じで自嘲していたと記憶している。ファッションデザイナーが創るものは「服」であり、「服」は道具であり、ゆえに価値は低い、という論法がまかりとおってしまうのが西洋思想。
 ちなみに、移ろいゆくものに「美」を見いだす日本思想とは違い、西洋思想は堅い(固い)ものに価値を置くため、たとえば彫刻は高く評されるが、移ろいゆくモード(ファッション)はさらに貶められることになる。なぜ堅い(固い)ものに価値があるのかというと、後述することにも関連するが、たとえば「真理」がとてもとても堅い(固い)ものであることを連想すればイメージがつくかもしれない。
 「堅い(固い)ものは、良いものだ」By西洋思想。

 いささか話が逸れたついでに、もう少し逸らしてしまう。
 公共劇場界隈でわりと読まれている思想書に、ハンナ・アーレント(1906-1975)『人間の条件』がある。個人的にはあまり共感できない一書ではあるが、それはさておき・・・・・・アーレントは、人間がしていることを、(1)活動、(2)仕事、(3)労働と、概念的に区分し、その価値序列を、1位:活動、2位:仕事、3位:労働、としている。
 ここで、おそらく「仕事」と「労働」との本質的違いが、日本人にはとても分かりづらいだろうと思う。
 「労働」とは、簡単に言うと、食って生きていくための「手段」である。だからアーレントの分類では最低価値となるのだし、西洋的価値基準からすると、「だよね!」ということになり、感覚的にも受け入れやすい。
 対して「仕事」とは、たとえば椅子や机をつくったりすること、である。え?と、日本人ならここで戸惑うだろう。椅子や机をつくることも労働じゃないの?と。
 違います。まったく違うのです。
 アーレントは「耐久性」という概念(翻訳ですが)を用いる。つまり、「耐久性」のあるもの、言い換えれば「堅い(固い)」ものをつくるのが「仕事」であり、たとえば料理のように、食べたらなくなってしまうようなものをつくるのは(生きて、食ってくための、ただの)「労働」なのである。
 ゆえに、「耐久性」のあるものをつくる「仕事」は、すぐになくなってしまうものをつくる「労働」に比し、価値が高いのだった・・・・・・
 「堅い(固い)ものは、良いものだ」By西洋思想。
 堅い(固い)もの(残るもの)をつくるのが「仕事」、すぐになくなってしまうようなもの(すぐに消費されてしまうようなもの)をつくるのは(その場しのぎの)「労働」、というわけである。
 ちなみに、「仕事」がつくるものの中でも、最高価値があるのは、アーレント的には「芸術」になる。理由は、たしかに椅子や机も堅くて「耐久性」があるが、これは後述することにもつながるが、芸術にはもっと堅い(固い)ものが含まれている・・・・・・そう、「真理」という名の究極的に堅い(固い)ものが含まれているからである。さらに、もっと言うと、芸術は椅子や机とは異なり、何かの「手段」になるものではなく、それ自体で自己充足的に(自己目的的に)存在しているから、とされる。何の役にも立たないからこそ、芸術は素晴らしい!というわけだ。
 ところで、「神」によって定められた罰としての労働観も併せてもつ西洋人と、自然を収奪すべき資源の宝庫としか見ない西洋マインドと、自然との共生思想に溢れた農業(村落社会)を生きてきた日本人とでは、その「仕事-労働」観において、相容れない文化的断層があるが、この断層については、充分に注意を払っておきべきだろう。ハンナ・アーレントを読んで「意味が分からない」というのはむしろ普通の反応であり、逆に分かってしまうほうがアヤシイとぼくには思われる。ぼくは正直なところ西洋かぶれなのかもしれないが、相当かぶれないことには、アーレントは読めないだろう。

 さて、本題に戻る。
 「芸術には絶対的な価値がある」とする「絶対価値論」を支えてきた礎石の一つは、上記したとおり、(1)芸術は具体的な何かの役に立つものではない、手段ではない、がゆえに価値がある、とする西洋的価値観である。
 また、そうであるがゆえに、芸術が何かの役に立ってしまうことは、まさに芸術の自己否定、参拝者のお願いを聞いてしまう神様の自己否定、と同じ類のものなのである。「芸術を手段化(ツール化)するとはケシカラン!」と言いたくなる気持ちも分からぬではない・・・・・・ただし、今が百年前であったなら。
 とはいえ、ただ単に「役に立たないものは価値がある」一辺倒では、「絶対価値論」を支えきれない。そこらへんに転がってる石は役に立たないが、価値があるのか?堅いし、とかいう反論に晒されてしまう。
 もう一つ、礎石が必要だ。
 それが、前述した(2)、芸術作品の中には「真理」が宿っている、と見なす「信仰」である。ここが、じつのところ最大のポイント!

 《また、つづく》



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