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財布落として非常停止ボタンに対する現役鉄道員の雑感。

概況。

 2022年7月4日20時台に渋谷駅で、線路上に財布を落とした旅客が、駅係員に拾得を依頼。5分経過しても拾って貰えない状況から、財布が電車に轢かれてしまうと思い、駅に設置されている非常停止ボタンを押したことにより、駅係員が激高している動画がTikTok上に投稿され、拡散したことが発端となっている。

 動画内では駅係員が「なんだその態度は」「山手線停めてんだぞ」「警察行くから今日帰れねえからな」と終始強い口調で応対している形で切り取られている。

 JR東日本東京支社は、「危ない場合に強く制止するという対応はします」とした上で「言葉遣いは適切ではありませんでした」と話した。

駅係員の対応について。

 筆者は民鉄ではあるものの、駅員を4年半経験している他、合理化に伴い駅長や助役などの管理職が不在の駅で、管理職代行業務を行った経験もあるため、駅全体の動きを把握しているつもりである。当然、旅客に非常停止ボタンを押された経験もあるため、ここでは駅員目線での対応方を記していく。

 駅非常停止ボタンは会社によるが、首都圏では1両(20m)間隔で設置されていることが多く、山手線は11両編成で運行されているため、配線が上下線のみの駅でも一駅に20箇所以上設置されているものと思われる。

 駅事務室内にはこれらをモニタリングする監視盤があり、どれかひとつでも押されると、警報音と共に何番のボタンが押されたかをランプなどで知らせる仕組みとなっている。

 ここでまず行うのが、運転指令への一報である。「〇〇駅です。非常停止ボタンが動作しました。これより確認に向かいます。」連絡後、業務用電話(会社によって携帯電話やトランシーバーなどの差異あり)と、列車に合図を送るために手旗・合図灯を携帯して現場に急行し、当該の非常停止ボタンの近辺に居るであろう、直接押された方に事情を伺う。

 人が転落した、急病人など状況は様々だが、指令所に状況を続報し必要に応じて関係各所(警察、救急、保線、電気、信号など)へ連絡。救助などの対応を行い、運行上の安全を確保した後、運転指令と運転再開の打ち合わせを行い、運転再開の許可が下りたら一件落着と言った具合である。

 当然ではあるが、通常非常停止ボタンを旅客が押しただけでは、駅員が拡散された動画のような口調にはならないし、押された理由が例え本件の様に緊急性に欠ける場合や、悪戯であっても怒鳴ることはなく、悪質だと判断すれば警察に通報するまでである。

 つまり、動画の駅員さんが激昂するだけの、相応な理由があったことが伺える。その証拠に、JR側は「線路内に降りようとするなど危険な行為をしており、それを制止した後のやりとりになります」と答えていることからも、以下のような状況であったと推察される。

わざと煽って激昂させた?

 また、ソースがTwitterと信憑性に疑問は残るが、財布を落とした旅客は、駅係員に対して「なにやってんだよノロマ」「はやく取れよ」「そんなんだから給料安いんだろ」などと煽るだけ煽っておいて、係員のイライラが頂点に達したタイミングで録画を開始していた可能性がある。

 YouTubeなどにアップロードされている、鉄道員激怒系動画は往々にして、事の顛末に至るまでの前後関係をバッサリ切り落とし、投稿者の都合が良いように、裏を返せば係員側が悪い印象となるように切り取られた、ファクトを装ったフィクションとなって拡散されるのが常である。

 周囲の同僚や先輩方も、この手口で嵌められているが、私は心理学の知識を持ち合わせているが故に性格が悪く、今のところ相手の悪巧みにまんまと嵌められたことはない。

非常停止ボタンの経緯。 

 非常停止ボタン導入の経緯としては、2001年の新大久保駅で、転落した酔客を救助しようと線路に飛び降りた2名の方を含む3名が死亡した事故で、同じ山手線である。

 この事故が発生した時間帯は19時台、今回の一件も20時台と夕ラッシュ帯で、3分20秒間隔で運行されている時間である。当該旅客は最初、線路に降りて財布を取りに行こうとしていることから、一歩間違えたら人身事故につながるような自殺行為であることは想像に難くない。

 それに、JR電車区間のプラットホームの高さは1.1mと高く、子供や身体の硬い人、運動音痴な人が万が一線路に転落したり降りた場合、自力でよじ登るのは難しい。

 また、列車が接近してパニックになった際に、鉄道に関する知識のない方が、即座に近くにあるホーム下の退避スペースに避難するという機転の利いた対応で大惨事を免れられるかと言えばこれも難しい。

電車は急には停まれない。

 自動車教習所で、車は急には停まれないと教わるが、電車はそれ以上に停まらない。自動車タイヤ4輪の接地面積がハガキ1枚分と言われてるが、鉄道車両4軸8輪の接地面積は切手1枚分にも満たない。

 それも、ゴムとアスファルトではなく、鉄と鉄で摩擦係数は自動車よりも明らかに低く、接地面積が切手1枚分にも満たない中で、高速走行中の1両20tを超える鉄の塊を停めるのである。

 鉄道運転シミュレータである電車でGO!でも、BVE Trainsimでも、Train Driver ATSでも構わないが、一度体験してみれば、電車が自動車以上に急に停まれないことはお分かり頂けると思う。

 実際、山手線はホーム進入時に70km/h近い速度から減速を始めるが、70km/hの制動距離はいくらブレーキ性能の良いJR車両の非常ブレーキであっても200m弱は必要で、基本的には運転士が異常を目視してからブレーキをかけたのでは間に合わず、報道などでは「ブレーキをかけたが間に合わなかった」と伝えられるのがテンプレである。

人命や安全運行が脅かされる場合に使う。

 新大久保の事故以降、従事員の保安設備としての色合いが強く、一般に周知されていなかった非常停止ボタンが一般に広く周知され、例え旅客であっても「緊急を要する事態と判断した時は、躊躇せずに押して欲しい。相応な理由があれば列車運行を停めてもお咎めなし」という、現在の取り扱いとなった。

 鉄道従事者側にも変化が生じた。以前は周辺の列車にランプや警報音などで異常を知らせ、運転士の判断で停車する扱いだったものが、列車頻度の高い首都圏では、JR私鉄各社で、保安装置や防護発報と連動させて、半径2km以内にある列車は自動的に非常停止する仕様となっている線区が多い。

 つまり、落とした財布を即座に拾得して貰えないからと、非常停止ボタンを押した場合、停まる列車は何も山手線だけでなく、多重事故を防ぐために、並走している埼京線や湘南新宿ラインも緊急停止することになる。

 この影響は東京の山手線内に留まらず、神奈川、埼玉、群馬、栃木、相鉄線、りんかい線と多岐にわたる。その理由が、4万円が入った財布を拾うためが、果たして相応な理由と言えるのだろうか。

 当該列車の遅れ自体は2分程だったとはいえ、山手線車両の定員は1,724名。昨今の情勢で乗車率が低下したとは言え、夕ラッシュ帯の終わりであり、仮に乗車率が90%程度だとしても累計して3103分。少なくとも社会全体で2日強の時間的損失が発生しているとも捉えられる。

 本件の情報を集め、推定される状況を踏まえた上で、一般論では人命や安全運行が脅かされていたとは言い難く、個人的には旅客ひとりの身勝手な理由で、少なくとも累計2日強の時間的損失が発生しているように思い、公共交通機関の従事者としては、到底許容できるものではないと思っている。

損害賠償とかどうなるの?

JR東日本のHPで7/4夕刻の山手線は10分延となっていた。

 よく人身事故で列車運行を止めると、天文学的な損害賠償請求が発生するから、飛び込んではいけないと言った都市伝説があるが、実際は数百万円から一千万円程と、確かに庶民からすれば大金ではあるものの、天文学的な数字となることは滅多に無いというより、内部にいてその手の話を聞いたことがない。

 基本的な流れとしては、総務部に事故損害補償担当などの役職があり、その担当者が顧問弁護士と相談した上で、損害賠償請求を行う形となっている。しかし、ここで請求できるのは、数字が確定している具体的な損害に限られる。

 車両が損傷している場合はその修繕費用、特急などが遅延したり運行不能になった場合の払戻し費用、振替輸送の依頼費用、休憩時間が削られた従業員や、終電が遅延した場合の残業代などが請求できる科目となる。

 しかし、本件のような一個列車で2分、最大で10分程の遅延に対する損害は、上記のような根拠が乏しいため、きっちり算出するのが難しい。

 信用毀損という選択肢もあるにはあるものの、本件でJRが利用者の信頼を失ったことを法定で証明しようがないと思われるため、損害賠償請求は難しいのではないかというのが、一介の私鉄職員としての推察である。

 それに、損害賠償請求を行ったところで、相手方に支払い能力があるとは限らない。手間をかける割に損金が回収できず、徒労に終わることもあることから、保険会社が鉄道会社向けに人身事故保険の商品を展開している位である。

 とはいえ、いくら損害賠償請求をされることが現実的に難しくても、駅係員が悪質だと判断した場合はマニュアルに則り警察に通報する。警察の判断によっては威力業務妨害罪や往来を妨害する罪などの刑事罰が下される可能性があるだけでなく、当事者の個人情報は鉄道会社・警察共に把握している状態であり、仮にその場は厳重注意で治まったとしても、次はないと覚悟したほうが良い。

 社会的に失うものがない人からすれば、賠償金やら罰などが抑止力にならない可能性もあるが、身勝手な行動ひとつで、真っ当に公共交通機関を利用している大多数の利用者を巻き込まないで頂きたいのと、プライドを持って安全運行を支えている鉄道従事員に多大な迷惑をかけることになると、この場を借りて一介の鉄道員が記しておく。

現役鉄道員からのお願い。

 線路内の落とし物に限らず、忘れ物に関しても、自分の思い通りに事が進まず、係員に心無い言葉を浴びせる方が多いが、従事員や旅客の安全、正確な列車運行に配慮した上での対応から時間を要するのであり、決して職務怠慢によってお待たせしている訳ではないのである。

 自身の管理能力の不備を棚上げして煽るのは勝手だが、駅員も同じ人間である。接遇が依頼者の態度次第で変わるのは言うまでもない。

 もちろん、最低限は意識するものの、見下した態度で高圧的に「それが仕事だろ。はやくしろよ。」などと言われるよりも、自身の不備を認めた上で、「お手数ですが、拾って貰えませんか。探して頂けますか。」と申し出るような方に寄り添い、助けたくなるのが人情ではないだろうか。


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