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第三の反抗期。

独立心を獲得すべく、社会に反抗する構図。

 以前から日本人の多くは仕事が苦痛だと感じながらも、それを自ら変えようとはせず、そう言うものだと諦めの境地に達しており、おかしいものをおかしいとすら言わない状況を、私がおかしいと、言葉を変えて何度も主張している気がする。

 ことある毎に世間や組織内で真っ当とされている大人たちから、「世の中思い通りにはならない」と言われ続け、それをnoteで「学習性無力感」とか「思考停止」と表現してきたが、私のように人生の主導権を他者に委ねることに違和感を感じて、主導権を取り戻そうとするタイプは残念ながら少数派だろう。

 最近、この状態のことを「第三の反抗期」と表現している書籍に出会い、なるほどなと感心した。確かに反抗する対象が社会全体に変わっているだけで、アイデンティティを確立して自立心・独立心を獲得しようと足掻く構図は似ている。

 とはいえ、心理学の世界では反抗期は幼児と思春期の2回と定義されており、学術的な根拠がある訳ではない。

”残念ながら多くの人は、そのまま世の中に飼い慣らされ、「これが大人になるということなんだ」と自らに言い聞かせて一種の思考停止状態に入り込み、「人生なんてどうせ思うようにはいかないものさ」「仕事でもらう報酬なんて所詮は忍耐料だ」等々の諦めの哲学を吐くようになって、停滞してしまいます。
(中略)
いくら「一人前の社会人」をやってみたところで、何か満たされない。特に物質的、社会的に不足はなくても、なぜか生きている実感に乏しく、生きている意味が感じられない。この空虚な感じこそが、主体を明け渡した状態で受動的に生きている不自然さに対する、真っ当な違和感なのです。ですから、「空虚感」を感じていること自体は、決して単なる不調として捉えるべきではなく、そこからいかに正しく悩み、新たな認識を得て、そこを突き抜けられるかが大切なのです。”

なぜ生きる意味が感じられないのか 満ち足りた空虚について
|泉谷閑示

生きている実感の乏しい不自然な生き方。

 恐らくは私がHSPにも似た繊細さを持ち合わせているが故に、生殺与奪権を他者に委ねる、受動的な生き方への不自然さに対する真っ当な違和感を、社会に出て人一倍強く感じ、そこから逃れようとする強い気持ちが表出して、独立すべくこれまで社会に反抗していたのだろう。

 私の筆跡は性格同様、クセが強く、見栄と世間体とプライドの塊のような保護者のもとで育ったのだから、本来なら矯正されるはずだが、対象となったのは兄弟だけで、私は矯正されることなく今に至る。

 大人のロジックがなんとなく理解できるようになってから、理由を尋ねると、あまりに独創的な字を書くものだから、どこから矯正すれば良いのか分からず、下手に矯正したら独創性の芽を摘んでしまうのではないかと危惧したらしい。

 兄弟には同情するが、大人の価値観に矯正される対象から外れたことで、天性の特異性を保持したまま社会に出て、他者に身を委ねる賃金労働者の生き方に染まることなく、違和感を持ち続けることができた。

 そうして長い間社会に反抗し続け、ようやく今年度末で物質的、社会的には満たされているはずなのに、生きている実感の乏しい不自然な生き方にピリオドを打つ。

リスクの排除が自立心を削ぐ?

 これまで私がまどろっこしく抽象的に表現していた、現代社会への行きづらさと言う名の悩みから、自分自身がどうあるべきかを思考するプロセスは、方向性として正しかった可能性が高い。

 とはいえ、これは思考停止状態に陥った結果、世の中に飼い慣らされて、仕事終わりの週末、もしくは土曜の朝に惰性でテレビの電源を入れては、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られないための、儚いレジスタンスに過ぎない。

 そもそも論、確度の高いエビデンスかも定かではなく、集合知からかけ離れた、ひとりの研究者の知識や研究をひけらかしては叱られるだけの、某番組を鵜呑みにするのは危険だと感じる。それこそ、思考停止に陥っているような気がしてならない。

 それはさておき、大事なのは正しく悩んだ末に、どう突き抜けるために必要とされる、新しい認識を得て、自立・独立に至るかだろう。これに関しては画一的な正解が存在しないため、各々で試行錯誤して得る他ない。

 個人的にはリスクを排除する生き方をすればするほど、生きている実感が乏しくなるのではないか。という仮説を立てた。

 例えるならサラリーマンは動物園のライオンで、独立・起業で生き残っている人はサバンナのライオンである。前者が生命を脅かされるリスクは低いが、生殺与奪権は園長に握られており、反対に後者はリスクが高いが、生殺与奪権は自分自身にある。

 この仮説をもとに、年度末で安定した賃金労働者の道を捨て、金融資産所得で生計を立てるオフロードで、新しい認識を得られるのかを試行する、次の段階に突入する。

 20代のうちにここに漕ぎ着けるまでに費やした、時間や労力は計り知れないし、空虚感を感じる受動的な生き方に、自らピリオドを打ちに行く強い意志を持てたのも、偶然にも若くして大病を患い、人生は有限で、常に死と隣り合わせであることを痛感したからに他ならない。

 これから先、社会の枠組みから外れたことで、自分の身に何が起こるのか。心境がどのように変化するのか。周囲に類似したサンプルなどないのだから、全く予想がつかない。

 金融資産所得で生計を立てる個人投資家と言えど、その手法は人それぞれで再現性はなく、真似したところで同じ成果は得られない。

 だからこそ、否応にも主体的な生き方となり、サラリーマン人生では停滞して、決して先に進めないであろう虚無感から解放され、自立心・独立心を得るための突破口が開ける可能性があると考えている。それが私なりの第三の反抗期なのだろう。


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