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死なない工夫

死ぬ理由があるわけではなく、生きる理由がなくなったとき、人は自ら命を断つ選択をするのかもしれない。ふと、最近思った。

一応書くと、これは別に、死にたい人を励ますための文章ではない。
自分自身の「死なないためのライフハック」の、覚書に近い。

あまり大声で言う必要もないけれど、わたしはあまり生への執着がない。少し前に「10分遺書」で夫に宛てたものを書いたけれど、結婚するまでは皆無に近かった。

10代の頃は、とても不安定だったらしい。高校の担任の先生に卒業後会ったとき
「お前を死なせずに卒業させないといけないと思っていた」
と、半分笑いながらではあるけれど、そう言われた。意外だった。家族ができて、犬を飼って、それは今どうにか生きる理由になっている。子供ができたら、また大きく変わるのかもしれないけれど、それはまだ想像でしかない。

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「生きる」という行為には本来理由など必要ないのだろうけれど、ふつうに日々は大変である。大変じゃ、ないですか?
明確に「いやなこと」がなかったとしても、人間関係も仕事も、楽しいことばかりじゃない。それでも人々は生きて社会を動かしているから、えらいな、ともう漠然と思う。

でも、えらくないわたしには、生きるための布石が必要だ。
それが、未来の予定である。スケジュール帳の先の日付に移動の予定を入れ続けるというライフハック。生命の方の「ライフ」。
自分でも異様と感じるほどに出張や旅行を入れるのも、それが根底にあると思う。なんとなくそうでもしないと、気を抜いた瞬間に、人生に飽きてしまう気がしている。今年はすでに5回、海外に行った。今月末にも、ミラノ出張が待っている。(今回の写真は、先月ベルリンへ行ったときのもの。)

あまり健康的な考え方ではないのかもしれないけれど、死ねない理由を持つことで、どうにか生きながらえる方法も、たぶんある。人によっては、連載マンガの続きかもしれない。孫の顔を見ることかもしれない。夢を叶えることかもしれない。なんでもいいのだ。

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なんとなく生まれてしまったわたしたちは、なんとなく生きていくしかない。人の命は尊いものだと言われても、全然ピンとこない。(他人の命を軽視しているわけではないが)自分の命の尊いポイントが全くわからないからだ。
産んでくれた親に失礼と言われるかもしれないけれど、親や家族に全身全霊で感謝して、友人を愛して、仕事に生きがいを見いだせるような健康的な精神の人間ばかりでは、残念ながらないだろう。

わたし自身、生きる理由はまだ明確には見つかっていないのかもしれない。いつか見つかるのかもわからない。でもとりあえず、死なない理由を積み重ねることで、どうにかしばらくは、きっとこの世の中にだらしなく居座るのだ。

がんばって生きます。