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明るい暗闇

あの小説では、地獄に落ちた主人公の男が、お釈迦様から与えられた、蜘蛛の糸を掴んだまでは良かったものの、最終的には糸が切れて、奈落の底へ、真っ逆さまに落ちてしまう、憐れな結末だったけれど、僕もまた、孤独の淵へ、そしていずれは奈落の底へ、このまま落ちてしまうのか、とにかく不安で、何一つ、先が見えない状況だった。もちろん、ここは、地獄でもなければ、奈落でもなく、とても平和な田舎の町で、窓の外では、若葉がそよぎ、小鳥がさえずり、カーテンの隙間からは、眩しい朝日が降りそそいでいたけれど、僕にとっては、それさえも、なぜか空しく、空々(そらぞら)しくて、明るい暗闇のようだった。こんな時には、僕のそばに、可愛いメルがいてくれたら、僕も少しは気が紛れたかも知れないが、残念ながらメルもまた、やっぱりここにはいなかった。いつもなら、目覚まし時計で僕が起きると、メルも一緒に目を覚まし、僕の身体に飛び乗って、朝ごはんを要求するのだが、今朝はそんな要求もなく、声もなければ、気配さえなく、僕はそれを、受け止めるしか他になかった。それでも僕は、もう一度、試しにメルを呼んではみたが、何度呼んでも返答はなく、あるのはただ、平和な朝の静けさと、明るい暗闇だけだった。だがしかし、この世の中に、明るい暗闇があるのだろうか?暗闇は、暗いからこそ暗い闇と書くわけで、明るい要素は、全くないに等しいし、この表現は明らかに、矛盾している言葉だと、僕は自分に言ってみた。けれど、そもそも人間は、矛盾に充ちた生き物で、いかなる聖人君子にも、邪悪な心はひそんでいるし、罪を犯した極悪非道な人にさえ、優しい心は、きっとどこかにあるわけで。だとしたら、僕は今いる現状に、こうして独りで狼狽(うろた)えつつも、それを愉しむ余裕もきっとあるはずだ。と、僕は返してみたけれど、それに対する反応は、もうそれ以上何もなく、あるのはただ、平和な朝の静けさと、文字通り、明るい暗闇だけだった。


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