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わたし、あなたと違う考えをもっているの

昔からの悩み
私は、どうも世間一般の考えと違う考えを持っていることが多いらしい

それが、法律を学んでから更に増えた
小中5年間徹底的にいじめられて、自尊心を破壊されたところから、自分と私の周りにいてくれた友人との関わりで、自信を育て直した
10人の中小企業で、社長や経営陣と一緒に仕事をしていて、直接聞くことはなくても行動や言動で「こういう経営方針に変えるんだな」「この取引先とはこうしたいんだな」とか察することができる機会が多くなって、また考えが経営陣を知らない被雇用者と違うようになった
株式取引をやるようになって、経済のことを知り、また世界が変わった
メンタルを病んだ友達を持ち、その子の病気のことをネットで沢山調べ、その子と交流をもって色々な話を聞くことで、メンタルの病気についてとても学んだ
自分乳がんになって、がんのこと、「まさか自分がなると思わなかった」など、自分にとって大きな経験をした

それと同時に、私は孤独になった


誇張ではない

私は、私が本当に考えていることが、実の母親にさえ言えなくなった
母がニュースを見てグチを言った時、「いや、これは私はこう思う」「マスコミの視聴率稼ぎだと思う」と思っても言えなくなった
何かきっかけがあって、法学的に言えばこれはこうこうこうで、こうだな、だからこういう結論に達するはずなのに、なんでこうなっているんだとか、考えても、誰にも言えなかった

みんな、自分の意見と違う意見を聞くのが、嫌いな気がするって、思ってる
私は別に、違う意見の人がいてもいいと思っているし、色々な意見があるからこそ、その意見を討論していくことで、更にいいアイデアが浮かぶこともたくさんあると思うの(思想の自由市場)

その人の生きてきた生きざまを否定したいんじゃない

貴方はそういう意見なんだね。でも、私はこういう意見なんだよ


どちらも正解。どちらの意見もその人にとっては正しい。
それでいいじゃないか、と思うのだけれど、何かのはずみで違う意見を口にしてしまうと、あたかも自分自身や自分の人生さえも否定されたような気持ちを与えてしまうようで・・・・不愉快にさせてしまう

そして、また私は貝になり、孤独になる


法学ではあえて議論(ディベート)をして、違う意見同士で議論をするなんてことや大学のゼミなどではよくあるし、意見が違っていても、それはそれ、ゼミの仲間という絆は別。
でもそれはアメリカ的なやり方であって、日本的ではないのだろう
日本的な「みんな同じ考えでなくれはいけない」の鳥籠から私は外れてしまっている。

noteでは、意識や見識の高い方が多いから、私の考えを述べてもいいかな、共感してくれるまではいかなくても「貴方はそういう意見なんだね、面白いね」位は思ってくれる人はいないかなって思って、数個書いてみた
スキすらつかなかった

また私は、貝になろう
当たり障りのない、誰に言っても共感を得やすいことが浮かんだことを書こうかな、と、思った。

でも、誰もが書けそうなことばっかりを書いていたら、それは私の個性じゃない

私が思ってること書かなきゃ、noteやってる意味がない

だから、私は思いついたら、思いついたことを書き続けようと、決めた。

実際、冤罪事件の性質と刑罰制度について書いた記事は、スキはつかなかったが、アクセス数は多かった。
読んで貰えている、興味をもってもらえている、ということだ!
無理やりそうやって自分の背中を押した!
そうやって、私の、みんなとは違う意見を書き続けていく。
それが私の自己実現。

それでも、やはりスキがつかない、貝になろうと思ってしまう瞬間が何度もある。
私は認めてもらえない。わかってもらえない
弱気になる
なら貝になって平穏にやっていこうと、今までそうやって生きてきた
もう脊髄反射みたいになっている
世間一般は政治の話をするのが嫌いだ。考えることもスキじゃない。

でも、私はこういう考えを持っている

このnoteで、小さいけれど、声を上げてみようと思う

いつも貝に隠れていた、ビビリの小さな私の挑戦


・・・この記事も、泣きそうになりながら、びびりながら書いているんですけどね(苦笑)

もし心に響いたならば……投げ銭のひとつやふたつやみっつやよっつ!!よろしくお願い致す!(笑)