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ルパン三世 サンプリングとパロディ

「ルパン三世」のスケール感や二次創作の自由度の高さは、原作者のモンキー・パンチ先生の寛大さのおかげで、いろんなビジネスの事情があるにしても、そこには確かに作者の慧眼があったと思う。


漫画の神様と呼ばれた手塚治虫のリアルタイムの存在感が今ではほぼなくなっていることを考えたら、ルパン三世がここまで長生きしているのは奇跡的で、作者の英断は、後にやって来るヒップホップのサンプリング文化との関連を考えてしまう。

まさか手塚治虫のキャラクターよりルパン三世の方が有名になるなんて、50年前なら誰も信じなかったはず。


ルパン三世たちのキャラクターをまるで素材のように、どんなクリエイターにも自由な創作を許可したのは、サンプリングによって新たなクリエィティブの地平を開いた80年代以降のミュージックシーン、ヒップホップやDJカルチャーを思い出す。

作者の意図が及ばないアニメ化も二次創作として、別個の作品として成立するということを、本質的にいち早く理解していたのかもしれない。


それは2ndの放送時に、アニメの話を作者が漫画化してみたり、公式に二次創作を作者自身が試みたのもあるかもしれない。

そもそもルパン三世自体が、東西の文学からのサンプリングで生まれたもので、設定に関してオリジナルな部分はほとんどなく、名作をネタにした漫画のパロディのような所がある。


この文学→漫画のサンプリングの流れで「ルパン三世」が誕生し、漫画→アニメになったのが私たちの知る「ルパン三世」の歴史なのかもしれない。


サンプリングは悪く言えばパクリだけども、表現媒体の進化、新しいメディアの登場において、古いメディアの作品の焼き直しや素材化は、新たな創作の土壌として、時代に合わせてアップデートされたクリエイティブとして、生み出され必要とされる行為なのかもしれない。

同じジャンルのパクリと違って、たとえば新聞記事を2chのような掲示板にコピペして新たな文化が生まれたように、新しい媒体が何かを生み出す時に、旧媒体が素材にされるのはよくあることなのかもしれない。


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作者がどんな作品も、どんな声優も嫌がらず広い心で受け入れてたのは、寛大さだけでなく(もちろんそれもあるけれども)、作品に対する意識が根本的に違っていたのかもしれない。


「ルパン三世」は作者の手を離れれば、ヒップホップの音源のように素材となって行くのであって、使用料さえ払われれば出来上がった曲の出来に文句を付けるミュージシャンなど居ないように、作者の意識もそういうものだったのではないか。


作曲者は自分の曲が使用され、カバーされればされるほど喜び誇らしい。カバー曲の出来に注文付けたり文句を言うよりも、自分の曲が形を変えて生まれ変わり、再び大衆に届くことをミュージシャンが喜ぶように、パンチ先生の意識も作家というより作曲家に近いものだったかもしれないとも思う。

もしくは特許を与えて他者に使ってもらうことでアイディアが生き、技術や製品が進歩する発明家。


作者は他にも作品を残しているのにも関わらず、「ルパン三世」だけが後世に語り継がれる程人気作になったのは、何よりも作者のサンプリングやパロディ精神の塊のような作品だからかもしれない。

そして私たちが何よりも「ルパン三世」を愛しているのは、サンプリングやパロディの持つ軽妙洒脱な批判精神が、そこにあるからかもしれない。


サントラをジャズミュージシャンの大野雄二さんが専属で担当するようになってから、ルパン三世の作品世界もジャズカルチャーの影響を強く受けている。

ルパン三世において、音楽の果たして来た役割はとても大きくて、その世界観を体現するのに切っても切れない関係。

作者も日本屈指のオーディオマニアと言うほど音楽に対する造詣が深く、ルパン三世という作品のコンセプトに、漫画やアニメという枠を超えて、ミュージックシーンの影響も受けている、フィードバックされていると考えるのは行き過ぎだろうか。


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ヒップホップやブラックミュージックのサンプリングは、オールドスクールと呼ばれる過去の名曲がピックアップされることが多い。それによって忘れ去られていた古い名曲が蘇り、若いオーディエンスを獲得して行く。

新しいファンが過去のレジェンドを知るきっかけとなり、過去の遺産が未来へとまた受け継がれていく。


「ルパン三世」にも全く同じことが起きていて、半世紀もの間新作が作り続けられ、新旧のファンを貪欲に獲得している。

手塚治虫作品には残念ながらそのようなサイクルはない。今でもレジェンドとして愛され新旧のファンに読まれているだろうし、再制作もされているけども、新しいクリエイターによって新しく命が吹き込まれるような時代性・現代性があるとは言えない。現役とは言えない。


ルパン三世にそれが可能だったのは、物語が固定されていないからだけども、よく似たコンテンツにドラえもんがある。

ドラえもんは発明品、ルパンはトリックの発明で話を転がし、オチは大体決まっている。登場人物もほぼ固定されている。

どちらも長寿コンテンツで、スペシャルではスケールの大きい華やかな冒険談が作られる。

主要メンバーは5人で、困った時に便利屋みたいに仲間に助けてもらい、都合の良い道具で切り抜けるのもよく似ている。


漫画には共通点が多く構造もよく似ているけども、アニメという二次創作においては事情が全く異なる。ルパン三世と違って、ドラえもんの方には厳格なルールがあるように思う。

厳格と言っても至極当然で、ルパン三世の方が自由過ぎるのだけども、ドラえもんはどのアニメ化においても大きくビジュアルが変わることもないし、物語のテーマやポリシーが漫画とブレることもない。

作品毎に大きくイメージが損なわれたり印象が違うこともなく、一定の品質が保たれているように思う。


それは声優の刷新も制作側によって強制的に行われたのに対し、声優に振り回されっぱなしで絶えず批判に晒されているルパン三世とは全く違う。

作品が尊重され、内容に対しても声優に対しても、すべてがきちんとコントロールされている印象。


元々の漫画が子供用、大人用の違いなどの事情があるにせよ、この違いは何なのだろう。

ドラえもんの場合は、原作漫画のイメージやテーマとブレずに、その範囲の中で物語が作られている。漫画の延長にテレビのアニメ化があり、その延長に長編作品がある。全てのコンテンツが原作から地続きに続いている。


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ルパン三世の場合はその地続きがなく、分断、断絶している。そこにはアダルト向けの漫画を子供向けにアニメ化するという、やはり大人の事情が大きいのかもしれない。

何せほとんどの話をアニメに使えず、ほとんどの台詞が使えないのだから、新たに創作するしかない。

そのため、新規のクリエイターによる新規の物語が可能で、そのためのコンセプトも必要になる。それによって様々に味付けられ、作品世界を押し広げて来たともいえる。


それがクリエイターに対して底なしの自由を与えていて、登場人物を素材化させるほど、物語の権限を他者に委ねてしまっている。作画についても同じである。


クリエイターの自由さと旺盛な創造力、その貢献や成功によって生まれた強すぎる権限(クリエイターにはアニメーターや声優、音楽家も含まれる)が、スタッフ側のコントロールをしばしば失わせ、ルパン三世というコンテンツを迷走させ失速させる原因にもなっているのかもしれない。

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