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ルパン三世 五ェ門の場合Ⅱ

ルパンたちと群れていても、五ェ門はポリシーに合わないと離脱する。不二子や次元でさえも、不利な話は参加しない。

まるでフリーランスのクリエイターやIT技術者のようにどこまでも「個」として動くメンバーは、プロジェクトの度に収集され、プロジェクトが終わると解散し、仕事や住まいに縛られずフリーなライフスタイルを謳歌するノマドのようで、昭和の時代の話なのに、むしろ現代的な生き方の一つとして新しい。

ジェンダーに関してもビジネスに関しても、常にルパンたちは新しく未来予言的で、原作者や当時の関係者たちの感性の鋭さに驚いてしまう。

そんな仲間たちを中小企業の経営者やプロジェクトの統括責任者よろしく、時に対立しながら信頼し、仲間を救うという形でいつでも途中参加出来る場を残しておくルパンは、優秀なリーダーやプロデューサーにしか見えない。

ルパンはヒーローというよりも、リーダーとしての天分に秀でており、自分が一番優秀で自分が一番働いているのに、仲間をリスペクトして驕ることはない。それはルパンが自分の限界を知り、自分よりも一芸に秀でたメンバーを仲間にしているから。

どこかのビジネス書のリーダー論で取り上げられてもおかしくない程。


それは愛や友情、努力とかで仲間を引っ張って行くジャンプ的なリーダーシップではなくて、個の意見や立場を尊重し、各々の特性を活かしながらパズルのピースように組み合わせ、誰も何も犠牲になることなく全体が一つとなり達成していく理想的なスタイル。

作詞作曲を担当するボーカルやリーダーを中心に、仲間割れも脱退もなく長年安定して活動を続けているバンドのようなイメージ。各々の楽器が各パートで主役になりながら、全体として一つのハーモニーや楽曲を成立させる、ジャズやオケーストラを思い浮かばせる。

ルパン三世が何から何までとてもジャズっぽいのは、2nd以降のサントラのイメージや影響もありそう。


パンチ先生はルパンには教訓的なことは何もないと仰っていたけれども、ルパンたちのチームワークやワーキングスタイルは、とても教訓的で普遍性がある。一方で現代日本の労働問題が、「生き甲斐」や「やりがい」で労働者に犠牲を強いるのは、「愛・友情・努力」をスローガンに仲間への貢献を強いるジャンプ的な思想の影響もあるように思う。

ちょうど全盛期のジャンプで育った世代が、その労働の犠牲になったことも偶然ではないと思う。


五ェ門は、時代についていくための知識やスキルを学ぼうという姿勢もなく、困ったら周囲の手を借りればいいと思っている。自分に出来ること出来ないことの線引きが明確で、出来ないことに対して悩むことも引け目を感じることもない。

出来ることでルパンたちのような仲間を得、生活の糧とし、剣の道を極めることが自分の本懐であり、本分だと信じそれ以上を望まない。そして出来ないことは他人の力を潔く借りる。

昔の職人のようなライフスタイル。五ェ門が師匠に付いて徒弟制度の中で育ったせいもあるのだろう。


個の確立や他人との線引きがはっきりしている点では、欧米的なルパン以上だと思う。個人主義が欧米からの輸入物なのを考えると、古い日本人を象徴する五ェ門の「個」の意味は大きく、感慨深い。


自分が出来ること(やりたいこと)と出来ないこと(やりたくないこと)の線引きをはっきりさせているので、他人との線引きもクリア。自分が出来ることを惜しみなく与え、出来ないことは他人から惜しみなく与えてもらう。

そのため他人を尊重し感謝することが自然に出来るし、また自分自身も他人からそのように扱われる。


これは「自立(ほとんどが経済的な意味)」という名の下に何でも自分で出来るようになり、そのために孤独も深まる現代社会とは対照的で、とても合理的だと思う。出来ないこと(やりたくないこと)をするために悩んだり、時間を無駄にする必要がないからだ。


五ェ門とは対照的に、ルパンは「何でも出来る」男である。ルパンから見れば五ェ門は世間知らずで敵の策略にも脆く、女にコロッと騙される。子供のように未熟で特殊能力や職人芸以外は愚かにに見えるかもしれない。でも果たして本当にそうだろうか?

何でも出来る癖に独りじゃ抱えきれない孤独を持ち、次元も不二子も居ないと耐えられないルパンと、自分の技にプライドを持ち、社会人として出来ないことが多いけれども、常に誰かの助けを借りることで、たとえ一人で居ても孤独に陥ることはない五ェ門。


ルパンを欧米、五ェ門を日本と捉えてみると、意外と職人気質の日本人が個人主義で孤独に強く、合理的に見える欧米が非合理で、孤独にも弱いことが見えて来ると思う。

欧米は日本よりもカップル文化で、結婚相手にしろ恋人にしろパートナーがいないと一人前にみなされない所がある。一人旅もあまりない。それはルパンが常に次元を従え、次元がルパンに寄り添っているのと似ているかもしれない。

村八分を恐れ個性がないように言われる日本人の国民性だけども、実は日本的な「個」の在り方が、ただ輸入物とは違うだけなのかもしれない。


煩悩のままに生き煩悩を極めているルパンと、煩悩を捨てるが如く修行僧のように生きる五ェ門。まったく対照的で異なる個性のルパンが五ェ門を愛して止まないのは(そのように見えるのは)、底なしの孤独を抱えるルパンには、五ェ門の生き方に対する憧れがあるように思うのだ。

パート5では五ェ門がルパンの愛を疑いにかかったけれども、本当はそんなものは微塵もなく、ルパンの方が五ェ門に癒され愛を求めているように見えてしまう。

なぜなら五ェ門は他人との線引き、生き方の線引きが非常にはっきりしていて、足るを知っている人なので、物に関しても愛情に関しても、何かを欲しがるというのがない。

他人の物を羨んだり執着することもない五ェ門と、他人のお宝をすべて欲しがるルパン。

浮世絵をコレクションする東洋趣味の西洋の金持ちのように、ルパンが五ェ門というオリエンタルで時代遅れの遺物に強い憧れを抱いていて、コレクションとして身近に置いておきたいと欲してても何ら不思議ではなく、その逆はあまり想像出来ない。


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