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ルパン三世 ルパンの誇りと死生観

連戦連勝しているように見えるルパンだけど、実はルパン三世を貫くテーマの一つに「リベンジ」があって、ルパンは結構負けている。負けているけど最後には勝つから勝っているように見えるのであって、そのためにルパンはリベンジをあきらめない不屈の精神がある。

それは原作の脱獄囚の話や、「複製人間VSルパン三世」「カリオストロの城」のような映画作品、テレビスペシャルでは珍しい良作「ワルサーP38」などに描かれていて、そのようなルパンの本質を突いた作品は例外なく名作になる。もちろん、PART5も負けたルパンの執念の勝利が描かれている。

ルパンたちの世界で負けることは死を意味するのだから、所詮負けたといっても勝負に負けただけで、生きている限り負けてはいない。だからルパンは自分が死ぬまでリベンジを果たし続ける。その生き様は、生きている私たちの胸を打ち、勇気を与える。


意外とルパン三世は、人生で負けを味わっている時こそ強く響く作品で、ルパンたちの愛が傷ついた心を癒し、ルパンたちの不屈の闘志や執念が、またやる気を奮い立たせる。

仁義なき悪党共の世界を描いていながら、なぜか弱者や敗者の心に響く不思議な作品で、それはルパンたちの現実を容赦なく描いてこそ発揮されるもの。強くてカッコイイだけのお決まりのルパンでは、楽しませることは出来ても、心に響かせ、癒すことは出来ない。


「ルパン三世には教訓的なものは何もない」と生前パンチ先生は仰っていたけども、パンチ先生が亡くなった時、精神的に辛かった時「ルパン三世」に救われたというファンの声がたくさんあったのを覚えている。

思い返すと自分もそういう時期にルパンのアニメだったり音楽に嵌り、リベンジを果たすと忘れる、興味がなくなるというのを繰り返している。なぜかそういう時期にルパンの新作がニュースになってたりして、ルパンの方にも新しい動きがあり、ブームが来ていたりする。


ルパンの方もバブル崩壊後だったり、311の震災の後だったり、日本の社会に停滞感や閉塞感、負けのムードが漂っている時に、再評価されたりリブートされたりする。

平成が始まると同時に第一回目のテレビスペシャルの放映が始まり、令和の始まりと共に初の3DCGの映画公開が完成する。

特に令和元年はこれでもかという程ルパンの新作が目白押しのバブル状態で、極めつけは原作者と声優の逝去という忘れられぬ年になってしまった。


まるでピンチの時や新しい時代の幕開けに、私たちを勇気づけ奮い立たせるために戻って来るような所があって、大人気国民的アニメが私たちの深層意識、集合意識に浸透していて、もはや私たちの一部にまでなっている、と言ったら言い過ぎだろうか。


でも、ルパン三世やその仲間たちほど男女共に長く広く愛され続けているヒーローを他に知らない。


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PART5でフューチャーされたルパンと不二子の関係から、ルパン三世に流れる愛について考えていたけれども、実はルパンの中にあるのは愛よりもプライド、誇りなのではないかと思うことがある。

不二子を愛するのも、自分の敵となるほどの女だから。その女を征服することがルパンの誇りでもあり、女を守るのも仲間を守るのも、敵を倒すのも、誰かを救うのも、すべてルパンは自分の誇り、プライドのためにやっている。


それは愛とも変換出来るし、男だとプライドになり、女だと愛になる、男女の違いでもあるかもしれない。

「裏切りは女のアクセサリー」と言ってのけるルパンの寛大さは、その誇りと対立するように見えるかもしれないけれども。


誇り高きルパンを知るにつれ、まるで昔の日本人、武士のようだなと思う。元々ルパン三世のアイディアは忍者の忍術を、西洋の怪盗に盗術としてやらせたら面白いんじゃないかと考えて作られた、異文化融合のアイディアが元になっている。

ルパン三世と名乗る以外は、原作のルパンたちのアイデンティティは日本人そのもので、西洋的なイメージを間借りしながら、昔の黒澤映画に出て来そうな野武士の誇りと情け、江戸時代の傾奇者のような洒脱や粋に満ちている。元々日本人や日本の伝統にそういう要素がある。


戦前戦後の日本映画が海外で高く評価されたのも、いまだにハリウッドで日本映画が教養の一つになっているのも、黒澤明監督の映画に代表される武士道やアクション、日本人の高い精神性や倫理観や生き様に物珍しさや共感、尊敬があったからで、それは現代の私たちがルパンたちの生き方に、憧れが混じったリスペクトを感じるのとよく似ていると思う。


日本人の誇りとして一番よく現れているのはその死生観で、戦時中から敵に負けるぐらいなら一億総玉砕の歴史があり、今でも究極の選択として生よりも死を選びがちな私たちの国民性は、死と隣り合わせの世界で生きるルパンたちと共通するものがある。

五ェ門の剣は介錯にしか見えないし、ルパンたちの死に対して容赦のなさは、生き永らえて生き恥を晒すよりも、花のように潔く散る、武士道の精神を思わせる。死を尊ぶことで、その生が尊くなる。私たち自身が内に秘めている死生観でもあると思うのだ。


石川五右衛門の時代からルパンのような泥棒たちに国民的な人気があるのも、苦しむ庶民の上に胡坐をかき、豊かさを独占する上流階級や支配階級に対して戦いを挑んでいるからかもしれない。江戸時代から数百年経っても、この国の現実はあまり中身が変わっていないことに愕然としてしまう。




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