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ルパン三世 PART5 モンキーパンチとバイオレンス

過去改変の話を書いてたら、「次元移動」が次元大介と紛らわしいなと思ったのだけど(笑)、今でも漫画のキャラクターに「次元」とネーミングするセンスはとても斬新で、次元と言えば次元大介。次元の前に次元はおらず、次元の後にも次元はいない。

ルパンという名前がルパンだけのものではないのと対照的に、脇役でありながら、唯一無二の名前を与えられている次元。オンリーワンは主人公に与えられ脇役は語呂合わせだったりするのに、ルパン三世は逆なのが面白い。完全にオリジナルな名前が与えられているのは、五人の中で次元大介だけ。

あの頃SFが流行り出した時代というのもあるけども、元々パンチ先生はルパンを使ってトリックや意外性を楽しむ作風で、実験要素のある漫画だった。「次元大介」の次元には、ルパン三世の中にある作者のSF的な関心の高さがあるはず。


この20年近くのルパン三世を観ていると、自由というより船長を失った船が蛇行しているようにしか見えず、もう少し原作者の意思が反映されていたら刺激的なルパン三世が観れたかもしれないと思う。その方が時代とうまく歩を合わせ、ここまで化石状態にはならなかったかもしれない。

もしかしたら、逆にエキセントリックで刺激的な、お茶の間よりも前衛としてのルパンが観れる機会もあったかもしれない。「ポプテピピック」のような不条理ギャグやナンセンスが昨年話題だったけども、原作の変装ネタやトリックや仕掛けは、現実では不可能でありえない、ナンセンスギャグのようなもの。原作漫画はトリックを使ったブラックユーモア、不条理ギャグが満載である。


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2ndのテレビシリーズを受けて始まった漫画の「新ルパン三世」は、前作よりもナンセンスギャグが中心で、せっかくヒーローアニメとして人気が出たのに、作者はルパンを(少年漫画の)ヒーローだなんてちっとも考えていなかったんだなと思う。

悪事を働き最後は制裁を受けるパターン、騙して裏切って出し抜いて利を得る俗物ルパンが、まるで理想化されたアニメに抗うようにこれでもかと描かれている。

テレビの人気に感化されて、少しはヒーローのような理想的な面や活躍を描いてもよさそうなのに、2ndでファンになった子供たちが興味を持ってどれどれと原作漫画に手を出した時(きっとそのことも予想出来たはず)、まるで純真な子供たちを奈落の底に突き落とすような容赦のなさ。

作者は頑なにルパンがヒーローであることを認めず、悪の世に身を置く悪党の一人としてそれ以上でもそれ以下でもなく、その世界に生きる者たちの醜さや信念を露悪的に描いていた。

まるで作者の漫画のルパンが、この世界に若者や子供が入って来るのをひどく毛嫌いし拒絶するように、決して憧れを持たせるような描き方をせず、片目を失い爆殺されるヒーローの惨めな末路を、何の救いのないまま描いていた。あのルパンは作者の本心でもあったのだろう。


犯罪や戦いを決して美化せず、ただ欲深い人間同士の醜い争い、地獄の底を這いずり回る獣たちのうごめきとして徹頭徹尾妥協しなかったのは、同世代の高畑勲が「火垂るの墓」で戦時下の子供たちの救いのなさを描ききったように、戦前生まれで戦中派の作者の、反面教師的な啓蒙の意味もあったのかもしれない。


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地べたに這いつくばって犬のような恰好を晒すルパンの屈辱。かつての相棒も一旦勝負となれば負けた方は制裁を受ける。


そういえば、PART5で物議を醸したのは戦闘シーンの残虐さだった。次元が警察隊を銃撃しただけでなく、EP2では、五ェ門も敵の車の上から刀を突き刺し血しぶきが舞い上がるという殺人技を披露している。敵との決闘シーンも両腕や腹が切断されたり、五ェ門は刀という武器のせいもあって残酷さが際立つ。目を背けずにいられない。

バイオレンスを前提にした小池ルパンは別にして、かつてこれほど血生臭さいルパンシリーズはなく、戯画的な「峰不二子という女」よりもナチュラルに描いている分、インパクトが強い。

小池シリーズでも五ェ門の番は「痛み(バイオレンス)」がテーマで、残酷な描写が徹底していた。ルパンの女房役に徹している次元とは違って、五ェ門は独自の戦いの美学を持っている分、そのアクションもルパンより華がある。毎度まるでヒーローのような見せ場があり、どちらが主役かわからないほど五ェ門は激しいバトルアクションを見せる。

五ェ門が飄々とした次元よりもシリアスなキャラなのは、その戦いの性質のためもあって、あの世間知らずで俗世に疎い純粋さの裏には、容赦なくその手で人を殺める残忍さを秘めている。


PART5では、ルパンたちのバイオレンスもルパンたちの生きる世界の現実として描かれている。ルパン自身も何度も血を流し、撃たれ斬られることで、ヒーローとはいえ一寸先は闇の過酷な現実があり、だからこそ仲間や女の友情や愛に助けられ、復活するロマンがある。


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何でも出来るルパンにとって仲間が必要なのも、女が必要なのも、シビアな裏世界の現実があるからで、ジャンプ的な愛や友情とは違う。それを突き付けるために、血生臭い描写もあえて描かれたのかもしれない。

そして彼らが生き残るためには、多くの命が犠牲になっていることも。それは戦場の論理で、平和な日本の毎日からは理解しがたいかもしれない。でもほんの100年前にはそのような日常が目の前にあったこと、世界ではいまだにそのような過酷な日常が繰り広げられていることを、海外展開もされているルパン三世で描くことは有意義なことだと思う。


やはりPART5の、大河内脚本の視野は広い。それはパンチ先生が持っていた視野の広さ、いつでも海外に行ける空港の近くに住み常に情報収集と新しいテクニックの獲得を怠らなかった原作者の視野の広さに匹敵する。PART5は舞台も前シリーズと違ってワールドワイド。


ちなみに問題視されている次元の銃撃シーンは、無差別大量殺戮ではなく自分に銃を向ける相手に撃ったわけで、ランボーのように一対百だったことを忘れがち。本来なら速攻射殺されるのは次元なのに、勝つと非難される矛盾。楽に勝ち過ぎた描写不足のせいだろう。

あのシーンがまるでランボーのように血まみれになって勝利したなら、まったく違った感想になるはず。

その後のルパンとの合流も含め、最終回に収めるためなのか、荒さが目立つ。要らぬ誤解を生まないよう、もう一話かけてじっくり描いてもよかったかもしれない。

ラストに向けてのヒートアップ、クライマックスのカタルシスを優先したのかもしれない。

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