映画/新海誠「天気の子。」/愛と選択

「『天気の子』は迷惑なバカップルの話で嫌いだ」という声を聞くたびに「そこが好きなんだよ! 気が合うね!」と思うのですが、これは果たして気が合うと言えるのかしら。

※映画の内容、個人の解釈を含みます。

「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締まり」の中では「天気の子」が一番好きで、とはいっても新海誠作品が好きで、もうちょっと言えば新海誠が撮る映画より彼が紡ぐ文の方が好きだったりする。
スクリーンいっぱいに表示される美麗な作画と情報をするりと補いながら、見えも聞こえもしない感情や空気を嚙んで含めるように教えてくれる。映像を与えられている中では名もなく通り過ぎる数秒に、やさしい解像度で名前を付けてくれる。

「天気の子」の話をしよう。
迷惑なバカップルが世界の未来と引き換えに結ばれる話です、冒頭に乗っかったあらすじは端的に言えばこうだ。
でも、それでよかったなあと思うのです、それでよかった。誰にとっても世界は重く、それゆえに降ろし難い。たった一人の親愛と一億の無辜の他人を天秤にかける話はトロッコ列車問題にも通じるところがありますが、前者を選ぶ要因は明らかに自分のエゴである、というのが自明なのがつらいですね。一人の他人と一億の他人だったら後者を選ぶに決まっているでしょう、これは私だけかもしれませんが。

だから、「天気なんて、狂ったままでいいんだ」も「世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから」も「僕たちはきっと、大丈夫だ」も、全部救いだったと思う。
陽菜と帆高というバカップルが結ばれたことで、トロッコは五人が乗っている線路に傾き、雨は止まず、東京は沈んだが、当人が「それでいい」と言えたことが当人にとってみれば全てなのだ。

選ばれなかった一億の方にわたしやわたしの親愛がいたら怒るかも、泣くかも、悲しむかも、そう思いはするけれど、「私の命がおまえらの手にあるんだからおまえらを犠牲にしてでもそれを守り通せ」なんて言えなくないか。生殺与奪の権を他人に握らせておいて文句を言うな、というのもそうですが、他人が好き好んで自分の命を握っているなんて思いたくない。人に影響を与えるのはこわいです、それが仕様のないことだったとしても。親愛にとっての宝石でいたいが他人にとってはただの石でいたい。他人が他人であることを自分が阻害しているかもしれない、という怖さをずっと感情の肌が覚えている。

わたしは「君の名は。」を「君を救った結果そこに世界がついてきた」話だと捉えていて、これも言ってみればバカップルの話ではありますが、「じゃあ世界がついてこなかったらどうなるんでしょうね」という気持ちはあった。だから、「天気の子」が「世界を捨てて君を選んだ」話だとわかったとき、うれしくて上映中に声を殺して泣いていました。固く大きく揺るぎない世界らしきもの、から、二人が抜け出せたようで、それがうれしかった。

世界はずっとひそかに変わっていて、おおらかにやわらかく続いていく。空から手を取り合って落ちていくことを選んだ二人を受け止めたのが、形のない雨でよかった。

世界は変わるので、一人の世界と一人の世界は交わって二人の世界になったりとかする。だから「大丈夫になる」んじゃないかなあ。
二人の世界は確かに矮小であるかもしれませんが、それが大きくて不変的な世界の偶像と比べて価値がない、なんてこと、ないんだよ、と。どうか彼らだけは、思っていてほしい。


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