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学校の知識が試されるのは卒業後

学校では実学(生活で役立つ学問)はほとんど習わない。家庭科や技術といったサブ教科も存在するが、家庭科が出来るから家事ができるという類のものではない。

これは学校が各教科を通じて社会性を学ぶ場だからだ。授業の内容も意味はあるが、それ以上に自分が周りの行動に合わせるという協調性を学ぶ側面が強い。

また、学校で学んだことが直接役に立たないからこそ、私たちは学校のなかでのびのびと赤点を取ることができるとも言える。

そもそも学校の勉強が実学になったら、国家が国民能力を測っているようなものである。そのテストでの赤点は生活能力の無さの証明に直結する。それに教える先生たちが実学のプロではない。故に実学中心になることはほとんどないだろう。

とある友人がかつて「学校で金融の勉強をしたらいいのに」と声にしていた。その時はサラッと受け流したが、金融の勉強は高校生ではおそらく1%も分からないだろう。なんたって大人ですら分からないのだから。

それにそういった実学が穴埋めだったり、簡単な記述問題といったテストで解けることと、実生活で使えることは別問題である。投資が今主流になってきて、新NISAが2024年からスタートしたが、これを説明できることとそれで利益を上げられることは別の能力であろう。

こうした話の中で、学校での科目は意味がないというふうな言葉を耳にすることがある。だがそれは違うと私は思う。なぜなら学校で習う内容は元は一つの学問だっただからだ。

学校の勉強を合体させると、行き着く先は哲学になる。哲学という学問を今の勉強体系にしたのはアリストテレスだと言われている。それぞれを分けたのは学びやすいという理由だ。各個人がこれらを統合し、自分なりの哲学を完成させることこそ本来の学習である。

その土台が学校での科目だ。学校で習う内容は本来抽象的なものであり、生徒それぞれが自分の中で体系化させていくからこそ意味がある。つまり、科目の知識を特化させるだけではあまり意味がない。生徒それぞれがほかの教科と結びつけて考えていくことが大事である。

例えば社会。高校では、日本史、世界史、地理、倫理、政治、経済、現代社会などに分かれている。これらは本来まとめて一つの学問だ。日本史だけやっても分からないのは史実を淡々と述べられるからである。本当はここに東洋思想のような倫理、日本の風土の特徴である地理、日本をどう動かすかという政治や経済が複雑に絡んでいるし、世界から見た日本の立ち位置を日本史だけやっても理解できないので、世界史ももちろん必要である。

ただこれらをいっぺんにやっても誰もついてこれないし、説明できる人もいない。だから社会の勉強は分けてあるし、分けたからイマイチわかりにくいのである。

高校の勉強は全部においてそうだ。それぞれの勉強が面白くないのは、各論だからである。曲は一曲として聞くから面白いのであり、パートごとに聞いても魅力が分からないのと同じである。

故に、大人になっても勉強は続けなければいけない。それは学校の勉強の続きというよりは、自分独自の哲学の探究であり、それによって人間としての深みが出るからだ。これを最近では「人間力」なんて言葉で表現したりもする。経済学者は経済学だけやっている人と経営や政治についても学んでいる人では見る視点が大きく異なる。

つまり勉強することそれ自体より、勉強した内容が今まで培った知識と合わせた時に世界の見え方がガラッと変わることに意味がある。つまり、

勉強の意味はどんな世界を自分が見たいかである。

そして勉強は1人だけでは完結しない。誰かの作り上げた世界を覗いてみることで、さらに自分の世界が広がるのである。音楽を突き詰めた人と絵画を突き詰めた人が会話をすることで、それぞれの作品の方向性が今までとは変わる可能性があり、それによって影響を与える人たちも変わる。「人間力」の育成は自分の生活圏が豊かになるための最低条件である。

日本は世界的に見ても、ダントツで大人が勉強しない。これは詰め込み型の勉強の代償である。

私の中にも大人になれば勉強しなくて済むという先入観がどこかあった。「なぜ勉強しなきゃいけないの?」と聞けば、大人は口を揃えて「勉強は学生の仕事だ」と言っていた。そんな大人になりたくないとは思いつつも、片足を突っ込んでいる自分もいる。

経済成長が長らく止まっていたのも、国民全体の視点が凝り固まっていたせいであるし、その勉強をする気にならないほど労働時間が長いという部分もある。

その反動は社会の成長だけでなく、人としての成長にも影響を及ぼすと思う。その例がコミュニケーション能力である。現在求められるコミュ力の正体は「言いたいことを端的に分かりやすく伝える」ことだ。

だがコミュ力は自分の考えを話すだけではない。コミュニケーションは相手の考えも受け止めて初めて成立するからだ。だが、効率化社会の中で、相手の意見をのんびり受け止める余裕はないだろう。だからこそ、意見を短く伝える能力としてのコミュ力が求められるわけだ。

だが、それでいいのだろうか。

相手が省いた箇所に自分の考え方を根底から覆す意見があったかもしれない。

自分が大切だと思っている箇所が相手にとって大切ではないかもしれない。

相手のほしい情報だけを短時間で端的に述べるだけの会話にイノベーションが生まれるのだろうか。

こんなことを私は思ってしまう。
考えすぎかもしれない。
述べてきたことは机上の空論かもしれない。

新しい知識に対する向き合い方と自分と違う感覚の人に対する態度はほぼ同じだ。

勉強をすることで自分の世界だけでなく、相手の世界にも影響を与える。思い思いの学習をしていくことこそ、豊かな社会につながると私は信じている。

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